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朝、廊下で白崎先生と男性教師が話をしているのが見えた。がたいのいい体に、快活な笑い声。数学の高藤先生だった。ゴリラに特大の知能とスーツを与えれば、彼のできあがりだ。などと、未来の死体の問題とテスト勉強を両立させなければいけない焦りで、雑な悪口が頭からわく。
世間話でもしているのだろうか、遠くから見ても、二人の仲はよさそうだった。片方が冗談を言って、片方が笑い合う。会話のなかの、高藤先生の「おまかせください!」という声がここまで聞こえた。白埼先生に何かを頼まれたのだろうか。気軽に頼みごとができる程度には、仲が進展している。噂が本当なら、荻原先生は一歩リードされたことになる。
教室にはいると、窓ぎわの自分の席で、風見が居眠りしていた。授業開始まで五分を切っていたので、起こしてやることにした。近づいて、頭を軽く叩く。まぶたをこすって風見が顔をあげた。
「夢のなかで凪野くんにバンジージャンプのひもを切られて突き落とされた。もうあなたのことが信じられない」
「おれの人格を夢で破壊するな」
風見の目元にはクマができていた。もしかしたら、勉強会が終わったあとも自分の家で勉強をしているのかもしれない。数日前まではテスト勉強など道端の石ころにしか思っていなかった風見だが、いまではその石ころを丹精に磨くまでになっている。それは確かに素朴で、一般的な高校生の姿だ。
「ねえ凪野くん、杉本のことだけど」
「お前は勉強に集中しろ。荒田や桐谷だって、一生懸命だ」
「でも……」
「荒田の家へ勉強会にいくついでになら、死体の報告をしてくれてもいい。おれがそれを聞いて、死体の謎をとく。解決してやる」
「それならみんなで協力したほうが」
「風見」
「なに?」
「おれを信じろ」
風見が小さく口を開けて、静止する。深い青色の瞳がおれを試してくる。おれは目をそらさなかった。
おれを信じろ。こんな言葉を彼女に告げることになるなんて、二か月前のおれは想像できただろうか。
やがて風見は不敵な笑みをたずさえて、応えてくる。
「夢のなかでは失望したけど、現実の凪野くんはもちろん違うのよね」
「当たり前だ」
「なら安心して寝ていられる」
「勉強をしろ!」
自分で解決するなどと大口をたたきつつも、風見にはしっかりと死体見聞をしてもらっていた。木曜日、をとんで金曜日の今日は、すでに死体が触れるようになっていた。
風見の見聞を、三人で見つめる。相変わらずのパントマイムだが、体をひっくり返したりしているのがわかった。
「杉本の首が、ぷつぷつと赤く腫れてた。何か虫に刺されたようなあとがあったわ」
「虫? 蚊か何かか?」
風見は首を横に振る。わからない。
「未来の死体は、死んだ直後の状態でそこにあらわれる。この傷が死因ということはない?」
「虫に刺されて死ぬなんてこと、ありえるのか。夏場に多いのは、毛虫とか」
おれは視線を荒田に向ける。彼の世の中の七割の知識がつめこまれた頭に頼ってみたが、彼にも首を振られた。
「ひとを殺すほどの虫となると、限られてくるよ。まして毛虫なんて、そうそういない。クモのなかにそういう毒を持っているのもいるけど、この自然公園にはいないよ。万が一、誰かの飼っていた珍しい種類の虫が逃げだしていたとしても、首元に這われたら、誰だって気づくんじゃないか?」
杉本の首の腫れた傷は、関係がないのだろうか。
状況を再確認してみる。おれはそこにあるはずの死体を想像する。ランニング姿でうつぶせに倒れている杉本。外傷はない。左もものバンドに水筒。これは常備彼が身につけているものだ。彼は決まったコースを走っている。そのコース上での死。
「やっぱり心因性のものじゃないかな」荒田が言った。
これに桐谷が応える。
「杉本は自分で言っていたわ。心筋梗塞を起こすほどハードな運動はしないって。コントロールしているのよ。そのほかに持病があるかどうかは知らないけど」
持病。
何か発作が起こって、ここで倒れたという可能性はないだろうか。
「熱中症にしたって、知人に経験したひとがいたから気をつけていると話していた。ああいうひとって、必要以上に用心深いことがあるから、対策だってしているはず。左ももに常につけている水筒が、何よりの証拠よ」
行き詰る。
いままでの未来の死体には、その場所や外傷など、何かしらのわかりやすい特徴があった。今回の杉本の死体はそれがない。前回の荒田の死体が、手がかりの多すぎる死体だと表現するなら、これは手がかりの少なすぎる死体だ。
「どうする? 今日も杉本を待つかい?」と、荒田。
「やめておきましょう。せめて一日はおくべき」
おれも桐谷に賛成だった。
実は昨日の木曜日も、ここで杉本を待ち構えていた。面倒をさけるために、風見には、近くにあった小屋に隠れていてもらっていた。三人でもう一度杉本に会い、まずは風見のことについて謝ったが、彼の警戒心はぬぐえなかった。水筒を取りだし、おれたちに見せつけるようにごくごくと飲んでから、こう言い放ってきた。
「次にきみたちをみかけるようなことがあれば、警察を呼ばせてもらう」
刑事の娘が目の前にいるのですが、などとは言えない状況だった。風見がいたら迷わず口にしていただろうから、本当に助かった。
そういう経緯で、今日は大人しく死体見聞だけにとどまる。少なくとも、風見にはそうしてもらう。荒田や桐谷にもだ。
「おれがここに残るよ。ひとりならそれほど警戒されないだろう」
「凪野くん、大丈夫なの?」
「おれはお前や荒田が、ちゃんと風見に負けずに教え切れるか心配だよ」
「それはまかせてくれ」荒田が言った。
「ならこちらも、まかせてくれ」
二人は納得してくれたようだった。風見も最後には、大人しく桐谷たちについていった。
遊歩道上で、池をながめながら待っていると、案の定すぐに杉本が走ってきた。おれを見て、不快そうにペースをゆるめる。無視して横切ることもできるのに、その部分は彼のプライドか何かが関係しているのだろうか。
「警察を呼ぶといったはずだ」
「三人では、あなたの前ではあらわれていません」
「生意気だな」
「若者の唯一の取り柄と存じております」
本人のおれでも下手だとわかる敬語に、杉本がふんと鼻をならす。
文句を言われる前に、こちらから口を開いた。
「単刀直入に申します。僕はあなたが、ランニング中に倒れるのではないかと心配しています」
「される筋合いなどない」
「持病か何かをお持ちではないですか?」
「教えてどうする。心配材料の種にするか? それとも取材の一部と言いはるのか? どうせ学校新聞部というのも嘘なんだろう。きみたちはどこか怪しい。とくにあの女子はなんだ」
どの女子のことか、すぐにわかった。相手は少し前まで、見ず知らずの一般男性だった。非常識な行動や言動をとれば、当たり前のように警戒される。今回のケースは、そういう『当たり前』にも満ちている。
「彼女はあなたに物騒な警告をしましたが、僕は間違いじゃないと思っています」
「なら訊くが、きみはどのようにおれが死ぬと思っている」
「それは、ランニング中に、突然倒れて」
「理由は?」
「心筋梗塞でも熱中症でもないなら、持病か何かだと思っています」
付き合いきれない。そんな風にため息を吐かれた。もっともな態度だと思った。荒田のような笑顔も、桐谷のような頭のまわる切り返しも、おれにはない。
杉本は左もものバンドから水筒を取りだし、ごくごくと目の前で飲みはじめる。
「いつも飲んでいますね」
「当然だ。一回のランニングで、この水筒に三回は水をくんでいる。熱中症の対策は万全だよ」
杉本は水筒をしまって、再び走る態勢をとる。
「きみがもう現れないことを願って言わせてもらうが、おれに持病はない。余計な心配はごめんだ」
そう言って、彼は駆けていった。軽やかなリズムとスピードで、確かに健康そのものにみえた。
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