シン・ゴキブリ

ロッキン神経痛

第1話 人類、邂逅す

「うわあああああああああああ、もうやだーーっ!!」


深夜二時半、築三十年のマンションに男の悲鳴が響き渡った。一月4万円の1DK、田舎とはいえ安い物件だった。ダイニングキッチン、その中央に置かれたテーブルの上に乗り、怯えるように床を見つめている男は今、この物件に決めた過去の自分の浅はかさを呪っていた。震える男と対峙しているのは、一匹のGだった。4センチ弱、生後289日目の立派な成虫。Gは長い触覚を左右に揺らし、次の男の動きに備えていた。


脳裏によぎる走馬燈のような光景、今思い返せば、内見の時に床に散らばっていた小豆のような物体や小さな黒い粒の数々を、どうして俺はそのままにしておいたのか……!この部屋は、全力で俺に危険アラートを鳴らしてくれていたんだ。しかし、あの不動産屋のセールストーク、家賃一ヶ月無料、オール電化、敷金礼金なし、今ならスーム君のぬいぐるみ(親子2体セット)プレゼント……、そんな巧みな話術によって、俺はこの部屋の危険な違和感を全て見事に知覚出来ないまま、脳を麻痺させられて契約の判子を押してしまったのだ……くそっ……くそっ!


男はあの脂ぎった不動産屋の中年男の姿を思い出し、思わず悔し涙を流した。この涙には、まさに今自身を襲っている不条理に対する恐怖も込められていたことはいうまでもない。無論、Gと対峙する事は恐ろしい。ただ恐ろしかったが、ここで目を反らす訳には行かない事を男は知っていた。もしもここで奴を見逃してしまったら……。奴は、目にも止まらないスピードで、ありとあらゆる隙間に隠れてしまうだろう。奴はそういった能力を持っている。そんな、どこに潜んでいるのかも分からない奴に怯えたまま一夜を明かすなんて……想像するだけで恐ろしい。


ダイニングキッチンと居室を分ける引き戸を閉めた所で、戸は隙間だらけで全くアテになどならない。奴らは、数ミリ、ほんの数ミリの隙間からどんな場所へでも姿を現すのだから。とにかく、出会ってしまった以上は死んでもらわなければならないのだ。たとえ足が震え、視界がぼやけようとも。


男は覚悟を決めた、しかし未だ腰は砕け、震えは止まらない。ぼやけていた視界だけが徐々に目の前のGにピントを合わせ、あのグロテスクな姿を見据えた。戦わなくてはならない。その意志が、手段を知らない男の中で何かを目覚めさせつつあった。


「ハァ…ハァ…ハァ…………ングッ!イエエエエイ!!!!イエエエイ!イエイッ!(ガッツポーズ)オシャ!オッシャ!ドルゥゥゥア!(巻き舌)……殺す!……絶対に……殺すッ!」


自身を鼓舞する為のその雄叫び。深夜に聞こえる絶叫に、男の部屋の壁は瞬く間に鼓と化した。ドコドコドコと鳴り響く音に挟まれた部屋の中央で、闘争本能を剥き出しにするホモサピエンスの姿がそこにあった。もはや、そこにはさっきまで震えていた軟弱な男の姿はどこにも見当たらない。


変化。


普段真面目で虫も殺さないような優しい好青年として通っている男にとって、劇的な変化がこの日、この時間、この場所で起こっていた。いや、変化と言っては語弊があるかもしれない。これは、人類が長い進化の歴史の中で失いつつある闘争本能の復活!男が愛する女を守る為、時に死さえ厭わずに己を害する強敵に立ち向かったあの太古の勇気の発現!男のDNAの螺旋の中に埋もれていた、戦う為に備わっていたわずかな因子が、現代において唯一と言っていい強敵を目の前にして急激に目覚めたのだ……そう、これはである。


男は、無言のまま120センチ四方の食卓の上ですっくと立ち上がった。ニトリで買った5,980円(税込)のダイニングテーブルは、そのお値段以上の性能を遺憾なく発揮し、ぐらつく事もなく覚醒した男をしっかりと支えていた。


対するGは、軟弱に見えていた男の覚醒に早くも気づいたらしく、今や触角の動きすらピタッと止めて、次の瞬間どちらかに訪れるだろう決定的な死に備え、その全ての反射運動を爆発させようと構えていた。そう殺気と殺気がぶつかれば、次に起こる事は必然的に一つ……殺すか、殺されるかだけだ。


不幸にも、こうして突如出会ってしまった種族の異なる戦士と戦士。ほんのわずかな時間の中で、どちらが死ぬかどうかを決めなければならない。これを悲劇と言わず何と言うべきか。神はどうしてこのような二者を、同じ生活空間で生きるよう造ったのだろうか。明らかに設計ミスだろ糞が死ね……いや、神はこの両者の出会いと別れすらも含め、世界を完璧な物と見ているのかもしれない。戦いとは、時にどんな芸術よりも美しいものだ。


男は、無言のまま屈み込むと、履いたままだったスリッパの片方を慎重に脱いだ。その間も、視線はGへと向けられたままだ。それは、スリッパによるベーシックな殴打による攻撃を予告する動きだった。


Gは当然全てを一瞬で察した。攻撃方法が分かれば、その対応を素早く実行するのみだ。…‥それにしてもこの人間、あの凄まじい覇気を見せながら、スリッパとは……なんというこけおどしか。Gは男に失望していた。


男がキエエエエエエエッ!と雄叫びを上げながらダイニングテーブルから飛び降りると同時、Gは男が立っていたそのテーブルの下へと素早く移動した。彼の種族の三億四千年の歴史に対して、人類の歴史はせいぜい400万年と、あまりにも浅く短い。幼稚で愚鈍な人類を翻弄する事など、村で最も優れた脚を持つGにはお手の物だった。勝負は決した、ノロマな人間は俺がどこへ消えたかも分かっていないだろう。このまま冷蔵庫の下へと逃げ込んで、頃合いを見計らって――!?


ズッダーーーンッ!


悠々と逃げる彼の前に、突如巨大な壁が立ちふさがった。それは、あまりにも高く、あまりに突然に建造された巨大な木の壁だった。


「クク、かかったなァ?」


……ニトリのダイニングテーブル!そう、彼の目の前に立ちふさがったのは倒れたニトリのダイニングテーブルだったのだ。それに気づいた時には既に遅かった。背後から薄気味の悪い人類の声が聞こえ、後ろを振り向く間も、命乞いをする間もなく、Gは全身をベーシックなスリッパ殴打によって強く打たれ、その生命活動の全てを止められた。


「ば、馬鹿な……村に知らせ…な‥ては……」


天を仰ぎ、ドーナツ状の光に手を伸ばしたGは、そこに何を思ったのだろう。残してきた家族の事、村の仲間達の事、いや憎い人類への呪詛だろうか。しかし、彼の思いを知る事はもはや何人にも出来なかった。どんな生命にも等しく訪れる死、その未知の領域へと、彼は旅立って行ったのだから。


そして深夜三時、種を越えた戦場となったダイニングキッチンには、Gの亡骸の前でむせび泣く一人の男の姿があった。


「うううう……今こいつ喋ったぁぁぁ……。」


男が引っ越しを決意した、瞬間だった。

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