第2話

直冬は読んでいたラノベから目を外して、スマホで時間を確認した。八時十五分、教室の前の扉が開いて彼女が入ってきた。いつもと同じ時刻だ。

 少し不機嫌に見えるのは朝が弱いのかもしれない。それでも挨拶されると、端正な顔を少し緩めて答える。そして教卓の前を通って窓際の席に着く。その一部始終を目で追いかけるのが直冬の日課になっていた。

 綾瀬美月、クラスの初顔合わせで彼女をこの教室で見かけたときは心底驚いた。中庭で盗撮したあの写真の本人に、再び逢えるなんて奇跡だと思った。


 冷静に考えれば、合格発表を見に来ていたわけだから、単に確率の問題に過ぎなかったのだけど、自分と綾瀬美月が不思議な縁で結ばれているのだという考えに浸るのは悪い気分ではなかった。

 しかし一ヶ月も経つと奇跡はすっかり色褪せてしまった。

 彼女は直冬のことを覚えている様子はまるでなかったし、今のところまともに話したことすらない。同じ教室に居るという、それ以上でもそれ以下でもない関係から一ミリたりとも縮まることはなかった。


 ツンと鼻をつくどきつい香水の匂いがした。

 顔を向けなくても誰かは解る。隣の席の西田エリカだ。日頃から直冬のことを小馬鹿にしている嫌な奴だった。

 直冬は慌ててさっきまで読んでいたラノベに目を落とした。この女が来るのを待ちかねたように前の席の三枝という男子が向きを変え、椅子の背もたれに顎をのせる。授業が始まるまでの間、この二人の空虚な会話を聞かされるのは毎朝の苦行だった。

 できるだけこいつらの会話を耳に入れないように直冬は本に集中した。しかし『綾瀬』という言葉が耳に引っ掛かった。


「ねえねぇ、綾瀬って彰太と付き合ってんの?」 

 西田が聞いた。彰太というのは同じクラスの沢井彰太のことだ。西田はどうやら沢井に気があるらしく、話題の大半は沢井のことだった。

 背の高いイケメンで、西田ならずともこのクラスの女子の半分は沢井のファンだ。


「中学の頃からよく連んでたから、付き合ってはいるんだろうけど、ビミョウなとこなんだよな」

「ビミョウ?」

 西田の声のテンションがあがる。

「まあ彰太が綾瀬にぞっこんなのは間違いないんだけどさ、綾瀬のほうはイマイチ、リアクションが薄いっていうか、彼氏に接する態度って感じじゃないんだな」

「そうなん」

「ほら彰太って他の女食いまくってるでしょ。それをどっかの女が綾瀬にチクったことあるらしいのよ。でも綾瀬は表情ひとつ変えないで、『関係ないわ』ってスルーしたらしいよ」

「なにそれ! お高くとまっちゃって。私あの女大嫌い」西田が吐き捨てるようにいった。

「ちなみに俺はエリカ一筋だけどさ、綾瀬ってチート並にスペック高いからね。別に彰太が浮気したところで、引く手あまたでしょ。余裕ぶっこいてんじゃね? ほら! そっちのキモオタくんまでさっきから興味津々で聞き耳たててるくらいだからさ」


 いきなり話の矛先がこちらに向いてきて、顔を上げてしまった。

「へぇ、あんた辛気くさい顔して本ばっか読んでるけど、綾瀬に惚れてたんだ。すげぇキモいんですけど」

 冗談かというくらいに盛ったまつげをぱちくりさせて西田が言った。

「お前こんなの読んでるんだ」

 目の前の本を三枝がひったくり、ぱらぱらとページをめくる

「えっ? 何々」

 返してくれよと声を上げる前に、本は西田の手に渡る。

「なにこれ?あんたロリコン?」

 教室中に響くような大げさな声をあげると、西田は開いたページを逆手に持って立ち上がった。

 カラー挿絵のページだった。巨乳のロリッ子ヒロインがパンツ丸出しのミニスカを履いてお尻を突き出しているという過激なポーズで、こういうものを見慣れていない者にとっては、こっちの人格を疑われても仕方ない代物だった。


 たちまち教室の注目を集め、本は次から次と回されていく。

 ――こいつロリコンだったの?

 ――変態がクラスメイトとか勘弁してほしいよ

 聞こえてくるクラスメイトの声に直冬は耳を塞いで逃げ出したかった。

(これって全国放送しているアニメの原作だろ。なんで晒し者にならなきゃだめなの)


 直冬は心の中で叫んだ。水の中に顔を突っ込まれているように息苦しい。惨めな自分の姿を綾瀬美月に観られていると思うと、悔しくて、恥ずかしくて、いますぐ消えてなくなりたかった。

「スマホよくいじってるけど、盗撮してるんじゃない? だれか調べてよ」

 女子のひとりがそう言い出すと、他の女子生徒も同調した。

「身体検査!」三枝がふざけた調子で胴間声をあげると、直冬を羽交い締めにした。ポケットからスマホを抜き取られる。

 待ち受けの魔法少女、写真フォルダのアニメヒロインの画像コレクションが晒されていく。その度に起こる嘲るような笑い。膝の力が抜けていく。


 始業のベルが鳴るまで馬鹿騒ぎは続いた。

 悔しさと恥ずかしさで、床に這いつくばった直冬の頭に誰かが本を載せた。直冬はそれを取ると、よろよろと立ち上がり机の上に置かれたスマホを手に取った。

 待ち受けは羽交い締めにされて泣きべそをかく直冬の姿に変えられていた。

 直冬は別のフォルダにパスワード付きで保存して置いたあの写真を晒されなかったことだけが、唯一の救いだと思った。

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