まめっこ、世にはばかる

真木

第1話 奇妙な宴会


 豆子(まめこ)は自分の名前が好きだ。

 豆は栄養満点で健康の味方。地味かもしれないけど、よく味わえばおいしい。

 だから自信を持って、前を見て生きていく。お金も両親もなくしたって、自分はとっても元気に生んでもらえたんだから。

「さ、今日も働くぞ!」

 そんな豆子が運命の出会いをするまで、あと一時間。




 その日の豆子の仕事は、コンパニオンとしてある宴会を盛り上げることだった。

 元々田舎にいた頃から、自転車で片道一時間はかかる隣町の居酒屋で給仕のバイトをしていた。かろうじて風俗営業ではなかったが、酔って触ってくる客くらい日常茶飯事だった。

 四月に上京してからはキャバクラで働いている。そこの店長から人が足りないと頼みこまれて、今日のコンパニオンの仕事に至ったのだった。

「こんばんは!」

 豆子は笑顔で元気よく挨拶をして座敷に入ると、指定された席に向かう。

 席の間を歩きながら、豆子は客に気づかれないように目を細める。

 ……これは、危ない仕事だ。

 客は皆二十代から三十代の若い男性十人ほど。羽振りが良さそうで身なりもいいが、皆どこか不穏な空気を持つ。

 そもそも豆子の働くキャバクラは普段コンパニオンの仕事などしていない。そういうのは専門の業者がいるのだ。けれどそういったまっとうな業者がやりたがらない仕事というのもある。

「あ、お酒はまだだよ。主賓が来るまであと一時間はあるから」

 豆子がビールを注ごうとして制されたときも、嫌な予感を確かなものにした。

 その筋の客というのは、上下関係を絶対視する。目上の者がくつろぐ前には、食事さえ取ろうとはしない。

 実際、宴会の開始時間になっても、誰も食事に手をつけなかった。上座はいつまでも空いたまま、コンパニオンと客がただ談笑しているというのも変な光景だ。

「豆子ちゃんか。小さくてかわいい。名前にぴったりだね」

「そう? ありがとう。気に入ってるんだぁ」

 豆子は何人かの客と話し始めて気づく。皆若いのに口調が優しく、女性慣れしている。それでいてぴりっとした緊張があって、豆子は笑顔を浮かべながらも内心冷や冷やしていた。

「でもよく小さいって馬鹿にされるんだよ」

「男はそう言ってからかうのが好きなんだよ」

 豆子は大変な童顔で背も低く、初対面の人には中学生に見られる。それは一部のお客さんには受けるのだが、大抵は相手にされないものだ。

 でも今日の客たちは違う。彼らには余裕がある。女くらい、手の平で転がしてみせるというような。

 まずい仕事を受けたな。豆子は心の中で舌打ちした。

 夜の仕事をしている中で、この筋の人とはしばしば接する機会がある。彼らは普通に給仕をしている限り、むしろ礼儀正しく話上手で、相手をするのは楽だ。

 でもどこかで地雷を踏むと……その後は何が起こるかわからないから怖い。

「お兄さんたち、かっこいいなぁ。スーツ似合う!」

 それにしても何の宴会なのだろう。豆子ははしゃいでいるふりをしながら、緊張でじりじりと胸が焦げる思いがした。

 宴会が始まってもう一時間になるが、まだ主賓は現れない。せめて主賓に一杯でも注いでこないと、安全な人の側に引っ込んでやりすごすこともできない。

 面倒な仕事をよこしてあの店長め、と心中で悪態をついていたら、向かい側の席の障子が開いた。

 ……豆子はいつもの外行きの笑顔を忘れて、変な顔をしてしまった。

 それは今日の客たちとは明らかに雰囲気の違う男だった。仕立てのいいスーツに撫でつけた髪、一般的な男性より恵まれた身長や体格などは周りと同じなのだが、やけに内気で気弱そうな表情をしている。

「悪い、遅れた」

 ネクタイをぐいと締めて気合を入れてやりたくなる。顔立ちがむやみに整っているから、余計にその頼りなさが目立つ。前髪を下ろしたら高校生に間違われるのではないだろうか。

 豆子が呆気に取られていると、彼は近くの男たちに申し訳なさそうに頭を下げた。

「何やってんですか、不破(ふわ)の兄貴」

「若頭補佐ともあろう方が、しっかりしてくださいよ」

 すぐさま男たちに肩を叩かれて、笑われる。

 空気が変わった気がした。今までは、礼儀正しいがどこか暗い空気をまとう奇妙な宴会だった。ところが不破という男が現れた途端、同年代の男友達がふざけ合う飲み会のようになる。

「悪いなぁ」

 不破なんて、まったく見た目に似合わない名前だ。しかも兄貴と呼ばれていながら威厳など欠片もなく謝ってばかりいる。案の定、彼は主賓の席には座らなかった。

 弱っちそう。豆子はそう思いながらも、なぜか彼を見るのをやめられなかった。

「若頭に経済学を教えてたら、こんな時間になっちまって。本当に頭のいい方で、俺の手助けなんてすぐ要らなく……」

 不破は照れくさそうに頭をかいて、ふいに豆子と目が合う。

 豆子が言うのも何だが、彼もまた、変な顔をした。

 明らかに女性に見惚れる類の目ではないのだが、ちらちらと豆子をうかがう。

 やがて不破は豆子を示して近くの男と何か小声でやりとりしてから、立ち上がって豆子に歩み寄ってくる。

 豆子は少しだけ肩が張った。緊張しているのだと気づいて、何でこんな男にと自分を奮い立たせる。

「お前、山下の店から来たんだって?」

 豆子は一応敬語も使えるが、この男にそれを使うのは癪だったのでそのままの口調で答えた。

「そうだよ。店長は山下」

「世渡りのうまい子って指定だったのに、なんでお前みたいな子どもをよこすんだ。大丈夫か? 酒の匂いだけで酔っちまうんじゃないか?」

 不破の言葉は子ども扱いそのもので、豆子はついむっとなった。

「私は十八歳だよ。これ、保険証」

 豆子は借り物の着物の下から巾着を取り出して保険証を出すと、不破に見せる。不破は慌てて顔を背けた。

「こら、住所がわかるようなものを見せんな。危ねぇだろ」

「それに世渡りは自信あるよ。今日来てる女の子たち、皆知ってるもん」

「は?」

「言ってみせようか。一番右がカンナちゃん。最近のお気に入りは銭湯めぐり。お隣はミズハちゃん。ダイエット中だけどプリンだけはがまんできない。その隣がリエちゃんで……」

「い、いや紹介はいい。問題はお前の話だ」

 不破は目に宿る心配を隠そうともしない。豆子の耳に口を寄せるようにして話す。

「今日は女の子たちの持ち帰り前提で集められた宴会だ。意味、わかってんかよ」

 豆子は自分の内心を見透かされた気がして、ひやっとした。

 別に好きな男がいるわけじゃない。豆子がそういうことをしたところで、怒ったり泣いたりする家族がいるわけでもない。でも実は、豆子は体を売ることには抵抗がある。

「……別にいいよ」

 何を今さら、と豆子は自分を鼻で笑った。この業界に足を踏み入れた時点で通らなければいけない道だ。他人に心配される筋合いもない。

 豆子は一瞬冷えた心を塗り固めるように、ぱっと笑顔を浮かべた。

「今日のお兄さんたち、みんなかっこいいもの! 誰に選んでもらえるかなぁ?」

 私は乗り切れる。立派に仕事をして、帰ってみせる。豆子は自分に言い聞かせる。

 だから放っておいてほしい。突き放すような笑顔を浮かべた豆子を見て、不破はつぶやく。

「お前、見た目ほど幼くはないんだな」

 その言葉の響きは不思議なものだった。男の人がいつも豆子にかける言葉とは違う。子どもっぽく振る舞う豆子を笑うでもなく、騙そうと甘く誘うものでもなく。

 たとえば兄が年の離れた妹を、はらはらしながら諭すような。そういう声音で、不破は言葉を続けた。

「でも大人でもないようだから。……ちょっと来い」

 不破は豆子の手を引いて自分の席の隣まで連れてくると、そこで小声で話し始める。

 あの男は優しそうだが女にも暴力をふるうからやめておけ、あちらは妻が嫉妬深いから手を出さない方がいい、そういうことを一つ一つ教えてくれる。

「今日はな、月岡という男の若頭就任祝いなんだ」

 誰もが豆子のような一晩限りのコンパニオンには教えてくれないことも、不破はこっそり知らせてくれた。

「月岡はまだ若いが、クーデターを起こしてこの辺りを仕切る龍守組のナンバーツーになった。今日ここに来ているのは、組の枠を超えて月岡を支持している若手連中だ。ただのチンピラとは違ってそれぞれの組で何らかの役職を持ってる。だから絶対に怒らせるなよ」

 どうしてそんなことを教えてくれるのか。豆子はもうちょっとで問い詰めるところだった。

「わかった。ありがとう」

 でもそれは感情だ。私は仕事で来ているのだから、そこには突っ込まない方がいい。豆子は一歩引いて、素直に聞き入れることにした。

 豆子がうなずくと、ふいに不破は笑った。

「なに?」

「いや……お前、名前は何て言うんだ?」

「豆子だよ」

 何が可笑しいのか、彼はなお笑う。

「栄養満点な名前だな」

 女の子への褒め言葉ではなかったはずなのに、豆子は何だかくすぐったかった。

 奥の扉が開いて、誰かが入ってくる。瞬間、空気が一気に張りつめた。

「兄貴、おめでとうございます!」

 一斉に男たちが立ち上がって礼をする。気安い男連中の飲み会が、儀式のように固い空気に変わる。

 入ってきたのは、涼やかな面立ちの男だった。一般的には長身だが、今日の客たちは皆体格がいいから、彼らの中ではやや小柄かもしれない。まだ二十代後半で、格別厳つい顔をしているわけでも、着ている服が派手というわけでもない。

 ただ、しなやかな鞭のように鋭い雰囲気を持っていた。そして正面から睨まれたら腰が抜けてしまうほど、目の光が強い。

「先に始めていていいと言っておいただろう。気を遣わせてしまったな」

 月岡というらしい男は主賓の席につくと、静かに詫びる。

 宴会の開始時間から二時間は経っていて、今はもう九時だ。だが誰一人として緩んだ空気は持っていない。それが彼の人徳からなのか、恐ろしさからなのかは、豆子にはわからない。

「始めようか」

 月岡が一声かけると、一斉に男たちが動き出す。

 コンパニオンはほとんど必要なかった。かなり長いこと、月岡の周りに男たちが挨拶に押し寄せて酒を注いでいて、女の子たちは手が空いてしまった。

 月岡は豪勢な料亭の食事を前に、ほとんどそれに手をつけない。酒は多少飲んでいるようだが始終涼しげな様子で、表情を変えることもない。もうどこかで食事は終えてきたのかもしれないと、豆子は思う。

 豆子が馴染みの女の子たちと目配せしたが、彼女らは熱っぽく月岡を見ているばかりで豆子には関心がない。

 それもそのはずで、今日呼ばれた女の子たちは、誰もが月岡に持ち帰られることを狙っているはずだ。龍守組という名前は豆子も耳にしている。いくらその筋の人間の立場が危ういとはいえ、愛人にでもなれば一時的にでも豪勢な生活ができる。

 まして月岡は、恐怖と紙一重の危険な美しさをまとった男だった。男たちの話を聞いているときのけだるげな仕草、どこか憂い顔で遠くを見やるまなざし、男として魅力的なのも間違いない。

「挨拶に行かないの?」

 だが豆子は、そんな月岡に近づかない不破の方が気にかかった。

 不破もあまり食事に手をつけず、豆子が注ぐビールを黙々と飲んでいるだけだ。

「不破も若頭補佐って立場なんでしょ。組の三番目に偉い人だっけ?」

「うちは龍守組と違って弱小だ。立場が違う。俺なんて相手にされねぇよ」

 そう苦笑していたが、先ほど不破は年上の男からも兄貴と慕われていた。実際、不破に酒を注ぎに来る男たちもたくさんいる。

 それでいて、不破は時々月岡を見やる。目を細めて、懐かしそうに。

「お前、友達っているか?」

 ふいに問いかけられて、豆子は瞬きをする。

「いるよ。田舎にも、上京してからも。そりゃいつも一緒にいられるわけじゃないけど、友達って大事だもん」

「そうか」

 不破は笑って、ぽんぽんと豆子の頭を叩く。

「同感だ。男も悪くはないが、友達は大事にしとけよ」

 その手が優しかったから、豆子は見上げた不破がやけに大人っぽく見えた。

「さすがに一杯くらいは注いで来ないとな。礼儀は見せないと」

 不破の声に我に返る。豆子が月岡の方を見ると、どうやら一通りの挨拶は終わったらしく、月岡はコンパニオンの女の子たちに取り囲まれていた。

「お前も囲むくらいはしてきた方がいいぞ。ただ、失礼のないようにな」

 最後の言葉はまた子ども扱いしていて、豆子は一瞬不破を仰ぎ見た自分にむっとした。

 不破に連れられて、豆子も月岡の近くに移動する。しかし豆子や不破が月岡に晩酌をする機会はなさそうだった。月岡ははしゃぐ女の子たちに二重三重と囲まれていて、とても隣まで行けない。

 当の月岡はというと、上の空でほとんど女の子たちの相手をしていなかった。時々、体をくっつけようとする女の子に面倒そうな素振りをするくらいだ。

「不破。来ていたのか」

 月岡はふいに不破に呼びかける。少しだけ驚いたような顔をする。

 不破は酒瓶を持って月岡に近寄ると、淡々と告げた。

「若頭就任、おめでとうございます」

 二人の力関係をよく知らない豆子でさえ、それは冷ややか過ぎる祝いの口上だった。

 不破はそれ以上何も言おうとせず、機械的な動きで酒を注ぐ。月岡は無表情でそれを受けた。

 義理は果たしたとばかりに席を立って去ろうとした不破に、月岡は低く告げる。

「私は今の地位に上ったことを後悔していない」

 不破にもその声は聞こえただろうが、彼は目を動かしただけで振り向かなかった。

「お前も後悔のないようにな」

 けれど豆子は一瞬、不破が傷ついたように口の端を下げたのを見た。

 豆子は故郷を離れるときに友達に言われた言葉を思い出していた。

――夢を追うのもいいけどさ。あんた、それでどんどん傷つくじゃん。

 友達は豆子を思って言ってくれたとわかっていた。それでも豆子は彼女の言葉に傷ついた。

――自分を守りなよ。後悔しないようにさ。

 そんなこと言われたって。豆子は腹立たしかった。

 私は自分がいいと思うように精一杯やっている。あんたに何がわかる。

 そう、歯噛みするように思った自分に、今の不破の姿が重なる。

 豆子は思わず口を挟んでいた。

「つ、月岡様はお仕事がお忙しいんですか?」

 豆子は目の端で不破に言う。その傷を抉っては駄目だと。そこにはまると、際限なく傷ついてしまう。

「ほら、今日ずいぶん遅くいらっしゃったし。あまりお食事も進んでいらっしゃらないみたいだし。それになんだか……コーヒーの香りがしますよ?」

 自分が月岡の気を逸らすから、早く席に戻るんだよ。そういう意図で言葉を紡いだのに、どうしてか不破は顔色を変えて振り向いた。

 その理由は豆子が月岡を見やって気づいた。明らかに、月岡は不愉快という顔をしていたのだ。

「月岡様はお疲れなのよ。若頭に就任されたばかりなんだから。だからそんな月岡様を慰労させて頂く会が設けられたのでしょ」

「そうですよ。兄貴、仕事のことは忘れてくつろいでください」

 業界にも慣れている、年上のコンパニオンが場を和ませようとする。男たちも女の子を示してそれに続く。

「気に入った子をいくらでも持ち帰ってくださいよ!」

 でもどうやら、豆子は月岡の機嫌を決定的に損ねてしまったらしい。

「……他の女など欲しくない。珈涼さんの香りが消えてしまう」

 くっついてきた女の子をあっけなく払って、月岡は席を立とうとする。

 ぞわり、と豆子は身の毛がよだつ。男たちから一斉に豆子に放たれたのは、殺意だった。

 この女はなんて余計なことをしてくれたんだ。ただでは済まさない。そういう悪意が視線となって豆子に突き刺さる。

 ……私、殺されるかもしれない。生まれて初めてそう思った。

「申し訳ありません! 兄貴!」

 突然声が響いて、場の空気が変わる。

「うちの店の娘が気分を台無しにするようなことを申しました! どうか許してやってください!」

 振り向くと、月岡の前で不破が頭を床につけて謝罪していた。すがるようにして懸命に言葉を紡ぐ。

「詫びは後で何なりと。ですが……!」

 どうか、ここで席を立たないでください。

 不破が言葉にしなかったことを、月岡は察したらしい。

「……お前の店の子か」

 月岡はつぶやいて、席に腰を下ろす。ちらと豆子を見やる。

「私こそ、少し気が立っていたようだ。飲み直そう。君、注いでくれるか」

「は、はい。もちろんです」

 月岡が豆子を許したのであれば、男たちも何もできない。豆子はその暗黙のルールに気づいて、安堵の息を吐いた。

 結局、月岡は最後まで宴席に残ってくれて、豆子は男たちに危害を加えられることもなかった。

「……ありがとう、不破」

 豆子は宴会の後、どうにか不破を捕まえて礼を言った。

 時刻はとうに零時を過ぎている。街はネオンで眩しく、風は冷たい。

「いや、俺こそ礼を言うよ。お前は月岡の気を逸らそうとしてくれたんだろ。下手くそな敬語だったけどな」

 不破は背を丸めて苦笑いする。せっかく背が高いのだから背筋を伸ばせばいいのに、その仕草はちょっと格好悪い。

 豆子が不破の店の子というのは嘘だ。宴会の後で知ったことだが、不破のシマは豆子の働く店とは正反対の方向にある。豆子のところの店長とたまたま知り合いで、今回人をよこしてほしいと頼んだだけだった。

「格好悪いとこ見せちまったなぁ……」

 不破は頬をかくが、豆子は首を横に振る。

 もし月岡の機嫌が戻らなかったら、危なかったのは不破の方なのだ。それでも迷わず、自分がみっともないことをしてまで豆子を守った。

「不破は、たぶん格好いい」

 豆子が憮然としてつぶやくと、不破はそっか、と照れ笑いをした。子どもみたいな笑い方をする男だと、豆子は思った。

「気をつけて帰れよ。できればこういう仕事はもう受けるな」

「え? でも今日は持ち帰りオーケーの宴会だって」

 踵を返そうとした不破に、豆子が慌てて言う。不破は難しい顔をして肩を竦める。

「わからない奴だな。だから、俺がお前を持ち帰ったことにしたからお前は誰にも誘われねぇよ。残念だったな」

「いや、だったら私の仕事はまだ……」

「終わりだよ。さっさと帰れ」

 不破は豆子の鼻に指をつきつける。

「いいか、豆子。世の中には想像を絶する暴力ってのがある。それを怖がる気持ちは常に持っておけ。それで、危険を感じたらすぐに逃げろ」

「説教くさい……」

「しょうがねぇだろ。お前、見た目より頑固なんだから。……柔らかい鼻だな。ほら、これでお触りもしただろ」

 不破は豆子の鼻をつついて遊ぶと、手を離す。

「じゃあな」

 そのまま雑踏に消えていこうとする。豆子は思わず叫んだ。

「不破!」

 相変わらず丸まった背中。それに向かって、豆子は声を送った。

「私、仕事は続けるよ。でも、体は売らないから!」

 不破は振り返って、そういうことを大声で言うなというように呆れ顔で手をひらひらさせた。

 それで噴き出すように苦笑して、また背を向けて歩いて行く。

 情けないけど格好いい。気弱そうで、けれど強い。そんな男が心に焼きついたまま、豆子も背を向けて歩き始めた。

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