第8章 秋色吐息

 ねえ、灯里。

 僕らは、「絶望行き」という名の幸福列車に手を繋いで乗ったのだったよね。

 幼い頃のように、嬉々として、明日のことなど何も考えずに。

 不確かな幻想だけを、リュックサックいっぱいに詰め込んで。

 僕らをいつも厳しく叱るけど、本当は温かな先生が言ってたことを覚えている?

 「家に帰るまでが遠足だぞ」


 灯里、キミは言ったよね。

 あたしには帰る場所がないと。

 帰る家がないのなら、僕らの遠足は終わらない。

 ふたりともこの列車から、永遠に降りることはできないんだよ?


 そんな簡単なこともわからずに、キミはもう終わりだと言う。

 わからず屋のキミがそう言い張るから、

 幸福列車は暴走列車になってしまう。

 最初に壊れたのは、ブレーキだ。

 次にドアを開閉するシステムが壊れ、線路を脱線し、

 いつまで続くともわからない獣道へと彷徨さまよいこむ。

 暴走列車はその名の通り、スピードを上げ奈落を目指す。

 ちかちかと点滅する灯りはいまが夜なのか昼なのかすら、

 僕らに教えることはない。


 でも、それでいいんだ。

 この世界は完璧に閉ざされ、

 いまや僕とキミだけの神聖な牢獄だ。

 この牢獄に存在する確かなものは、

 キミと僕がこれからも躰を繋げ合うという事実だけだ。

 宇宙の光からも法律からも隔離された僕とキミだけの世界は、

 なんて甘美で魅惑的なんだろう。


 灯里。

 暴走列車がギアをチェンジしたよ。

 もう、降りられない。

 飛び降りたら、とてつもない大怪我をする。

 灯里。

 その前に、僕はキミをこの閉じられた世界から

 決して出すことはないだろう。決して。




 糸の切れたマリオネットのように、ベッドに横たわる灯里を、柊は呆然と見ていた。首筋に、肩に、乳房に、鳩尾みぞおちに、手首に、大腿に、いや全身に無数の痣と噛み跡がある。複数の傷跡からは痛々しく血が滲み、紫や赤や青の花が凄惨な彩りを添えている。


 これはなんだ、レイプの跡か?

 そう愛しい女を見つめて、柊は愕然となった。やったのは、紛れもなく自分だ。嫌がる灯里を、泣き叫ぶ灯里を、僕が暴力的に穢した。

「灯里…」

 途方に暮れた獣は、愛おしい女の前で崩れるようにひざまずく。

「ごめん、灯里…。僕は…」

 …本当にキミを、取り返しがつかないほど傷つけてしまった。

 一筋の涙が、獣から人間へと、男の姿を変える。

 後悔は、所詮、後悔でしかない。

 残酷なほど後戻りできない現実に、柊は再び絞り出すような咆哮を上げた。




 ひと気のない、ひんやりとした闇の中で、灯里は目を覚ました。

 躰中が痛くて、重くて、怠い。

 でも、この感覚は確かに覚えがある。

 嫌がる躰を叱咤し、灯里はふらふらとベッドから起き上がる。バスルームへ向かって、その灯りを点ける。目の前の鏡に、かつて見たことがある女の姿が映っていた。

 躰中に凌辱の痕跡を残し、悲しみに歪む微笑み。

 そう、望んでいたのはこれなのだ。世界で一番愛おしい人からの罰。

 だけど、と灯里は思う。

 ごめんなさい、柊ちゃん。こんなことさせて。こんな穢れた私のために、あなたは最期の洗礼を与えてくれたのね。

 許して、いいえ、永遠に許さないで。私を世界中の誰よりも、罪深い罪人として憎み続けて。

 お願い、柊ちゃん。お願い。



 ✵ ✵ ✵


 それから柊と灯里は、すれ違ってもお互いの眼を見ることができなくなった。

「おはよう」とか「お疲れさま」とか、短い会話は交わしても互いの間に流れる空気は冷たく沈んでいる。

 幼なじみという名の他人同士は、お互いに自分自身が許せない。悔恨と苦悩と諦観と憐憫が綯い交ぜになった、湖の底に立ちすくんでいた。冷え切った心と心の距離は酷く遠く感じられ、それがただ背中合わせのゆえに視界に映らないことに気づかないほど、ふたりは等しく傷ついていた。

 そして季節は静かに秋らしく整い、物思いとため息がよく似合うながい夜が続くのだ。


 ✵ ✵ ✵


 10月に入るとさすがに秋らしい日がふえ、その日も爽やかな秋晴れの朝だった。

 通勤ラッシュの電車を降り、大学のある最寄り駅で降りると、由紀子は駅の売店のウインドウで自分の姿をそれとなく確認した。

 肩まで無造作に伸ばしていた真っ黒なストレートヘアを、美容師に勧められるままに顔周りにレイヤーを入れたマッシュベースのミディアムボブにした。

 洋服はいつも母親と行っていた高級ブランドショップではなく、表参道のファッションビルで購入したものだ。ショップの店員に「ちょっとだけイメージチェンジしたい」と伝えたら、少し大人可愛いワンピースとジャケットを勧められた。

 これまで好きだった大人しく少女趣味の洋服と違って、華やかな中にも落ち着きがある感じがして気に入った。そのほかにも勧められるままに、フェミニンなブラウスやスカート、着回しができるからと勧められたカーディガンなどを買った。 

 これまではあまり履いたことがないパンツを試着したら、店員が褒めてくれたので思い切ってそれも購入した。細身のパンツをすっきりと着こなしていた灯里を思い出し、それに似合う薄手のニットも選んでもらった。


 なんとなくウキウキした気分で大学までの道を歩いていた由紀子を、背の高い人が颯爽と追い越して行った。そして、通り過ぎる瞬間に「あれ?」と覗き込まれた。

「あ」

 思わずそう言った由紀子に、朝から元気な星奈が言った。

「おはようございます!なんだかいつもと違うから、一瞬気づかなかった」

「おはようございます」

 と答えてから、由紀子はおずおずと星奈に訊ねた。

「あの…変ですか?」

「ううん、全然。なんか洗練されたね…って、失礼か」

 そうあっけらかんと笑う正直な星奈に、由紀子は悪い気がしなかった。

「いえ、嬉しいです」

 俯いてそう言う由紀子に、星奈が言う。

「とっても似合ってる。イメチェンしたんだね?」

 そう言う星奈はジーンズに白いシャツと言う超シンプルな格好で、いつもは白衣をその上に着ているから気づかなかったけれどかなりボーイッシュだなと由紀子は思った。


 背が高く足が長いせいで歩くのも早い星奈に、早足になりながら由紀子は訊いた。

「今日は、早いんですね?」

 職員と違って、どんなに早くても9時にはじまる1限に合わせてくる学生と、この時間に会うことはあまりない。

「うん、今日はちょっと昨日の実験のことで気になることがあったから」

 どこまでも気さくな星奈に、由紀子は思い切って訊いてみた。

「星奈さんて、野々村さんと仲がいいんですね」

「ああ、大学1年のとき同じクラスで、それ以来のつきあいだから」

「そうですか…長いんですね」

 つき合っているのかとは、由紀子はさすがに訊けない。そんな由紀子に、星奈は屈託のない笑顔でびっくりするような情報をもたらした。

「長いって言うなら、もっと長い人が身近にいるじゃない」

「もっと長い人?」

「うん。あなたと同じ教務課にいる北川さん、だっけ?彼女、柊の幼なじみだよ」

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