ⅲ
真っ赤なロープで拘束された灯里の手が、ベッドの端を力いっぱい、必死に掴んでいる。
灯里に寄り添うように後ろに並んで寝た柊が、柔らかな肢体を愛撫する。その快感に早くも翻弄されながら、灯里はこんな扱いを歓んでしまう自分が信じられずにいる。
どうして?
あたしは、酷いことをされるのが好きなの? こんな風に拘束されて、それが嫌どころか安心できるなんて。その不可思議で妖しい安心感は、やがてすべてを委ねることで容易に快感へと変換されていく。
熱く震える灯里を抱きながら、甘い息で耳をくすぐり、柊は囁く。
「灯里、このアパートは灯里のマンションより壁が薄いと思うよ。だから、声、抑えて」
はっと我に返った灯里が、堪えきれずに上げていた自分の嬌声に気づく。
そんな灯里を可愛いと思いながら、柊は言葉とは逆に、もっと激しく角度を変えて灯里を攻めた。
「ん、んんん~っ。あ、あ、い、嫌ぁ~」
「ダメだって言ったろ、灯里」
柊は楽しそうに、執拗に灯里を翻弄する。
熱心な研究の成果もあって、灯里の弱い部分や体位をかなり熟知できたと柊は思っている。もともと学習能力が高いので、こんなことでもめきめき実力をつける柊は、男として理想なのか、迷惑なのか。それは相手によって、ときと場合によって、意見が食い違うところだろう。
「しょうがないなぁ。ほら、灯里。タオル咥えよっか」
声を抑える体力と、悶え乱れる体力と、その両方がそろそろ限界に来ている灯里にとって、今日の柊の執拗さは迷惑な方かもしれない。
咥えさせられたタオルを思いっきり噛んで、それでも呻くような声を上げて、灯里は何度目かの絶頂を味あわせられる。
力なく余韻に震えている灯里が回復するのを、背中にキスしながら待って、柊は言った。
「灯里、今度はキミの番だよ。拘束はもう、解いてあげるね」
仰向けに寝た柊の躰に、今度は灯里がキスを落としていく。やがて辿りついたそこにも。そしてまず、ちろりと舌先でそれを味わった。
灯里、キミってひとは…。おそらく僕にするまで、何も知らなかったんだね。まったく、僕が教えた通りに、言う通りに、キミは舐めるんだね。そんなキミのどこがアバスレなんだ?でも、それでいい。灯里、僕の好きなやり方を覚えて。僕だけの灯里を、僕が完璧につくりあげるから。
それに、ずっと秘密にしていた僕の邪な欲望は、思いもしない形で叶えられた。ねえ、灯里。僕は本当に、次はリボンでキミを拘束するかもしれない。傷つけるって言葉を、都合のいい言い訳にして。
躰と同じように、思考回路が溶けていく。
傷つけているのはあたし?それとも柊ちゃん?
この刹那が、永遠に続けばいい。幸福で、背徳的で、安心で、そして未来がない。
ただ肌と肌が触れ合うだけで、こんなにも心地よく、癒されて、夢心地にまどろむ。快楽の底は深く蠱惑的で、覗くたびに新しい泉が溢れ出る。
もう少し、もう少しだけ。でも、そのときが来たら、あたしは正気でいられるのだろうか?
✵ ✵ ✵
ダンスのレッスンを終えてシャワーを浴び、シャワールームから出た灯里を、カオルが呼び止めた。
「なに?」
と振り向くと、驚いたカオルの表情がクスリと笑いで崩れた。
「え?」
訳のわからない灯里に近寄ってきたカオルが、耳元でそっと囁く。
「昨日、激しかったの?」
ますます、わからない。バスタオルを巻いたまま、きょとんとする灯里に、カオルはさらに囁く。
「背中。ついてるよ。しかも、もの凄くいっぱい」
大慌てでロッカーから着替えを出す灯里に、カオルが面白そうに訊ねる。
「ねえ、灯里の彼氏って激しいの?それ、幼なじみクン?」
耳まで赤くなって、無言で下を向く灯里に、カオルはクスクス笑いを抑えきれない。
「も、もうっ。止めてよ、カオル」
「そのセリフは、彼氏に言った方がいいんじゃない?」
「もう、聞こえるからっ」
そう周りを伺いながら、灯里はまだ赤い顔で、カオルを睨んだ。
✵ ✵ ✵
「いらっしゃい」
とグラスを拭きながら顔を上げたアレンが、意外そうな顔をする。
「あれ、独り?」
「うん。今日はシンジにも、灯里にも振られた」
そう、と明るく笑って、アレンがカウンターの席を眼で示す。
「何飲む?」
「ジントニック以外」
カオルはお酒の種類にあまり詳しくない。メニューを見ても、それがどんなものなのか、想像がつかないのだ。
「あまり強くない方がいいんでしょ?」
「うん」
「じゃあ、スプモーニは?」
「スプ…なに、それ?」
それ反則だろ、と思うくらい優しい眼で微笑んだアレンの説明によると、ちょっと苦味のあるカンパリをグレープフルーツとトニックウォーターで割ったものらしい。
「甘口だけど、カンパリの苦味とグレープフルーツの酸味があって爽やかだと思うよ」
「じゃ、それ!」
カオルが即答する。
またにっこりと罪つくりな微笑みで、アレンは頷いた。しばらくして、サーモンピンクの可愛らしいお酒が眼の前に置かれた。
カオルは、そっと唇をつけてみる。
「ん、おいしい!」
「それは、良かった。食べ物は?」
「それもお薦めにしようかな、今日は」
う~ん、と考えたアレンが言った。
「野菜のブルスケッタと、帆立とアボカドのオードブルは?」
「おお、それ決定!」
「あはは、キミって素直だね」
「素直っていうか、単純て言われる」
あはは、とアレンは愉快そうに笑って言う。
「人間はシンプルなのがいいよ、複雑だと疲れる。下手すると壊れる」
なんだか、その言い方が経験者みたいだとカオルは感じた。
「それ、誰か知ってる人のこと?」
「なんで、そう思うの?」
う~ん、とカオルは考える。
「勘?」
「勘か。いいね、その感性」
アレンが真面目な顔でそう言った。その顔も、本当にカッコいいと思う。
「ねえ、アレンて、モテるでしょ?」
「まあ、否定しない」
「うわ、そう来る?でも、そうだよね。そのルックスとスタイルで、モテないなんて言ったら逆に嫌なヤツだよね」
「キミだってモテるでしょ?」
そうアレンが、悪戯っぽく訊く。
「残念ながら、あたしはモテない」
「あれ?嫌なヤツだなぁ」
そうアレンが
「ホントだよ。だって、好きな人は、別の
それは、あのダンサーとMiss幼なじみのことか?とアレンは思ったが、口にはしなかった。
素直で無邪気で、友達思いのキミが秘密にしている恋心を、無神経に暴いたりしない。
「そう言えば、キミの友達の彼女、好きな人いるの?」
「ん?灯里のこと?好きな人どころか、もう情熱的な彼氏と超ラブラブな夜を過ごしていると思うよ」
それを訊いて、アレンの眼が急に笑いを潜めた。
「それ、誰かキミ知ってるの?」
「あれ?だってアレンの親友なんでしょ?灯里の幼なじみ」
う~ん、とアレンは考え込む表情になった。
「ふたりが、ラブラブだっていうのは何でわかるの?」
そう訊かれて、カオルはさすがに正直には話せないなと思った。
灯里の背中に無数にあったキスマーク、まるで所有権を誰かに宣言するみたいに執拗につけてあった…。だって灯里が全然気づかない背中に集中してあんなに…あれ、誰かに宣言?いったい誰に?そう思い至って、カオルは首を傾げた。
大丈夫だよね?灯里は幼なじみと素敵な恋をしているんだよね?愛されてるんだよね?灯里も愛してるんだよね?
急に黙り込んだカオルを、アレンが怪訝な顔をして覗き込む。そんなアレンに、カオルはぱっと屈託のない笑顔を見せて言った。
「やだぁ~、秘密!そんな友達のプライベートをぺらぺら喋るなんて、あたしはしないよ。灯里のことは、イケメンのアレンにだって売らないからねっ」
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