第6話 なみだあめ


 御納戸町の片隅に建つ小さな教会をひっそりと見つめ、ライヒは思いを馳せていた。

 トラペゾ教会。『星の智慧派』の至宝である〈輝くトラペゾへドロン〉から名をとったこの教会は、羽丘隆志という青年神父が一人で運営していた。彼はナイ神父より賜った〈輝くトラペゾへドロン〉を用いて、今年の一月上旬、この町を舞台に大規模な事象を発動させた。それは〈夢の国〉の未知なるカダスを現実に顕現させて何がしかを成すというものだったが、計画は失敗に終わり、隆志も消息不明のままだ。

 隆志は、有能だが特筆する能力は持たないメンバーだった。しかし神代の超戦士である「不死兵」を目覚めさせて従えることに成功したため司祭となり、一気にナイ神父の後継者候補筆頭にまでのぼりつめたのだ。ライヒから見た彼の人物像は、穏やかな微笑の裏で複雑な心境を抱えているといった感じなのだが、ヘルマイヤーなどと違って好印象が強かった。

 その彼がいなくなって数ヶ月、トラペゾ教会はいまだ誰の手にも渡らず無人の聖堂を欲しいままにしている。

「ライヒじゃない、しばらくぶり」

「ヴィエ」

 感慨にふけっていたところに声をかけてきたのはフヴィエズダ・ウビジュラだった。

 最後に会ったのが二月の末くらいなので、かれこれ一ヵ月半は経っている。

「すっかり静かになっちゃった教会なんか眺めてどうしたの」

「羽丘隆志のことを思い出していただけよ」

「タカくんのこと?」

「ええ。ヴィエ、彼はどうなったの?」

「タカくんなら次元の狭間に落ちていったけど」

 ライヒはぽかんと眼を丸くした。どうせ答えてはくれないだろうと、何気なく訊いてみたのだが、まさかあっさり返事がくるとは思わなかった。

「ミィエと一緒だったから、運が良かったら生きて別世界に流れ着いてるかもしれないわね。確かなのは、もうこの世界には存在しない――それだけのこと」

 さばさばと話すヴィエ。終わってしまえばどうでもいい彼女ならではの感想だ。

「ところでライヒ、せっかくだしホーエン館へお邪魔していい? まえに一緒に紅茶でも楽しもうって言ってたじゃない」

「え、ええ……まあ」

「タカくんがどうなったのか教えてあげたんだし、いいでしょ?」

 なんとも人懐っこい態度に、ライヒはつい頷いてしまった。


 ホーエン館は、御納戸町の片隅に位置する林の中に建つバロック様式の洋館で、ライヒの日本における住居である。オーストリア文化の精髄とも言われ、オーストリア芸術が開花したバロック時代の美術建築を用いたこの館は、ザルツブルクのコレギエン教会を髣髴とさせる外観が特徴的だ。

 ライヒとヴィエはその客間にて、鮮やかな赤ワイン色のローズヒップティーを愉しんでいた。お菓子はライヒお手製の焼きたてアップルパイである。

「ふうん、このパイ結構いけるわね」

「ありがとう。ここ一週間ほど練習したから、何とか人に出せる程度にはなったわ」

「ライヒは努力家さんなのかしら?」

「さあ、自分ではわからないけど。それよりヴィエ、初めて会ったときお菓子作りの本を買っていたけど、結局バレンタインはどうだったの」

「うーん……わたし、料理は本当に不得意みたい」

 眼を伏せて苦笑するヴィエ。それだけで結果は察することができた。

 チョコレートなど、本格的に初期段階から作ろうとしなければ、用意されたものを使って簡単にできるはずなのだが、そこは口に出さないでおく。

「それにしても、意外」

「ん、なにが?」

「私とあなたがこんなふうにティータイムを愉しんでいること。だって私は一方的に二回も戦闘を仕掛けたのに……」

「そんなの気にしてなんかないよ。わたし、ライヒのことは嫌いじゃないから」

 くすくすとほほえむヴィエに、ライヒは少し照れくさそうに視線をさまよわせた。

 そこでドアの隙間に善良な兵士の顔を発見し、紅茶を噴きそうになった。

 あわててドアへ駆け寄ると、眉をつりあげて小さく怒鳴る。

「来客中だから客間には近づかないように言っておいたでしょ!」

 するとシュヴェイクは、なんの心配もなさそうな顔で穏やかに敬礼した。やさしい眼差しでじっと見つめられたライヒは、思わず少し眼を閉じた。

「申しあげます、司祭殿、先日訊かれましたわたくしの能力についてでありますが……」

「そんなのまた今度話してくれたらいいからっ」

 強引にシュヴェイクを押し出してバタンとドアを閉め、おもむろに振り向いたライヒの眼に映ったのは、いかにも興味津々といった表情を前面にあらわしている客人だった。

「ねえライヒ、いまのもしかして善良な兵士シュヴェイク? 似てるどころの話じゃないんだけど、いったいなに?」

 チェコの有名キャラクターであるシュヴェイクを、チェコ人のヴィエがひと目見てわからないはずはない。隠すと余計詮索してきそうなので、ライヒは仕方なく自らの失敗談を話すことにした。

 すなわち、召喚ミスにより架空の英霊であるシュヴェイクを呼び出してしまったことを。

「あら、面白いじゃない。話聞いてる限りだと楽しそうだし」

「当事者の私としては溜息のつきどおしよ……」

 言ったそばから溜息をつくライヒ。ヴィエのようなタイプであればシュヴェイクとうまく付き合って面白おかしく過ごせるのだろうが、自分には無理だ。

 げんなりとしながら、ルカーシ中尉も同じ気分だったのだろうかと、ふと考えるライヒだった。


 翌日、ライヒは御納戸町の住宅街外れの丘に建つゴシック様式の洋館を訪れていた。

 玄関に出てきた、人間の軽薄そうなサングラスの男に自己紹介を済ませると、ヴィエはまだ学校から帰ってきていないと言われた。表向きは小学六年生として学園生活を謳歌しているらしいのを思い出す。

「見目麗しいお嬢さん、君のヘテロクロミアにはチャームの魔法がかかっているかのように俺はメロメロさ!」

 なにやら頭のおかしなことを口走っているサングラスの男に視線を傾け、そういえばこいつは誰だろうという疑問に行き着いた。

「ところであなたは?」

「俺かい? フフフ……俺は」

「ハルト!」(ドイツ語で、止まれ)

 全身で格好いいと思うポーズをとろうとした男だったが、少女の一声にびくっとして直立姿勢になった。

 そのときライヒの頭の中では、ヴィエは恋人と二人で暮らしているということ、恋人はドイツ人だということ、眼前のサングラス男はドイツ訛りの日本語を話しているということが、みるみるうちに重なっていったのだ。

「……あなたいくつ?」

「俺は今年で二十六歳さっ」

「エス・イスト・エケルハフト」(ドイツ語で、いやらしい)

「えっ」

「エケルハフト、ヴィルクリヒ・エケルハフト!」(ドイツ語で、いやらしい、いやらしいったらありゃしない)

 いきなり憤然とした様子で怒鳴られ、サングラスの男はたじろいだ。

「ど、どうしたんだいライヒちゃん! 突然そんなことを言われても、男はいやらしい生き物なんだよと答えるほかないというか……」

「あなたヴィエの恋人よね? 年齢差に罪悪感をおぼえないの!?」

「そ、それはないこともないけど……だが俺はヴィエちゃんを愛している! 愛があれば歳の差なんて気にすることないのさっ」

「限度ってものがあるでしょ! お互いが二十歳を過ぎていればいくら歳が離れていても構わないけれど、二十代の男が十代前半の少女と恋仲になるなんて、恥ずかしいと思わないの? このロリコン!」

「ち、違う、俺を好きになってくれた女の子が、俺が好きになった女の子が、当時たまたま十一歳だっただけなんだっ」

「言い訳になってないわよ!」

「はいはーい、ライヒもサイモンくんも、そこまで」

 不毛な言い争いに終止符を打ったのは、御納戸学園初等部の制服を着たヴィエだった。

 黒のランドセルを背負ったその姿は歳相応の幼さが際立ち、恋人との年齢差がより犯罪的な香りを助長させる。

「ヴィエ……」

「わたしとサイモンくんは相思相愛なんだから問題ないでしょー?」

「問題あるわよ!」

「くすくす、ライヒもリアさんみたいに潔癖なんだね。そんなに気に入らないならまた勝負する? 戦ってひと暴れすれば気も晴れるだろうし」

「私は戦闘狂じゃないわよ。でも、まあ、勝負というのは悪くないわね……ふむ、勝負、勝負、と……」

 ライヒは思案の仕草で玄関の辺りを行ったり来たりしていたが、やがて妙案が浮かんだらしくピタリと足を止めてヴィエのほうを向いた。

「いいわ、勝負しましょう。私たちは魔道士だから魔術で勝負を。但し、人にとってプラスになるやり方で」

「へえ……してその内容は?」

「超常的脅威に遭遇、または体験をして発狂した人間を数名ほど用意するわ。どれも通常では治療不可能とされている患者ばかりを」

「成程。それをわたしたちが魔術で治療を試みて、その成否を競うわけね」

「そういうこと。もちろん公平を期すよう、独立魔術機関の魔道士たちに判定役をかってもらうから」

「うふふ、精神異常者を相手にあれこれ魔術を試せるなんて面白そう」

「ちょっとヴィエ、不謹慎な言い方しないで」

「あら、発狂患者を勝負の媒体にするのは不謹慎じゃないの?」

「普通なら治る見込みのない哀れな犠牲者達よ? 私たちの魔術で正気に戻ることができるなら、感謝されこそすれ非難されることはないでしょ」

 澄ました顔で悠然と言葉を交わすライヒとヴィエ。

 二人の会話内容そのものがすでに不謹慎なのだが、それを指摘する勇気などサイモンにはなかった。

「それでどうなのヴィエ、受けるの、受けないの」

「オーケー、とりあえず異存はないわ。勝負の日取りは?」

「一週間後の午後三時で。場所は追って連絡するわ」

 こうして『星の智慧派』最年少の司祭とチェコ第五の魔道士による、尋常ならざる魔術治療対決が行われることが、今ここに決まったのである。


 深夜、ザルツブルクの自宅で眠りについたライヒは、〈夢の国〉のある都を訪れていた。

 その都市の名はセレファイス。

 オオス=ナルガイの谷にある、千の塔が建ち並ぶ壮麗なる光明の都。

〈夢の国〉のなかでも多くの旅人や行商人が集まる華麗で豊かな場所であり、ここでは時間がものを曇らせたり破壊したりする力をもっていないため、この都に存在するものすべてが磨耗も破損もしないのだ。

 いついかなるときも不断の新しさを保つセレファイスを訪れたライヒは、円柱通りを歩いて、ナス=ホルタースを崇拝するトルコ石の神殿に行き、蘭の花冠をいただく大神官と話を交わして、ある人物の現在の居場所を訊いた。そして大神官に礼を述べた後、ライヒは神殿をあとにして、都の東の城門を出て雛菊の原を横切り、海の断崖にむかってなだらかに登る庭園の樫の葉越しに見える、とがった破風に向かった。

 小さな番小屋のある大きな生垣と門の前に達し、鈴を鳴らすと、野良着姿のずんぐりした老人がびっこをひきながらあらわれた。ライヒの姿を認めた老人は、遥かなコーンウォールの古雅な訛りを精一杯使って話し、彼女をなかに通した。

 そしてライヒはイングランドの木々に限りなく近い木々に挟まれた木陰の道を進み、アン女王時代の様式でもって配置された庭園にある柱廊に登り、両側を石の猫がかためる玄関で頬髯をたくわえる執事に迎えられ、丁重に書斎へと通されたのである。

 そこには、ロンドンの仕立て屋が好んだ類の部屋着を身につけた三十代から五十代にも見える男が、ささやかな海辺の村を見晴るかす窓辺の椅子に坐っていた。

「ご無沙汰しております、クラネス王」

 ライヒがスカートの裾をつまんでうやうやしく会釈すると、男は愁いに沈んだ面持ちを来客用の微笑に切り替え、いそいそと立ち上がって少女を迎えた。

 彼こそは、かのランドルフ・カーターに匹敵する熟練した「夢見る人」にして、セレファイスとオオス=ナルガイ近隣の領域を支配する王、クラネスであった。

「覚醒世界の時間で半年ぶりかな。ライヒ、元気にしているかい?」

「はい。ここ数ヶ月の間に少し憂いを感じることも増えましたが、それもクラネス王の幽愁にくらべれば微々たるもの」

「ふふ、ぼくのことを気にかける必要はないさ。それで何の用かね? 久しぶりにたずねてきた小さな友人の頼みとあれば、大抵のことは聞いてあげるつもりだけど」

「ご配慮感謝します!」

 敬愛の仕草で顔を綻ばせたライヒは、ややまじめな表情で用件を切り出した。

「フォマルハウトやアルデバランの伴星に存在する〈夢の国〉のことを聞かせていただきたいんです」

 地球の〈夢の国〉以外にも、フォマルハウトやアルデバランにも〈夢の国〉が存在すると言われている。これら別の〈夢の国〉を訪れることは非常に困難であり、かつて多くの者がそれを試みたが、生きて帰ってきたのは僅かに三名、しかもうち二人は完全に発狂していたという。

 地球外の〈夢の国〉へと向かい、痴れ狂うことなく生還したただ一人の人間こそクラネスなのである。

「確かにぼくは星の世界をこえた窮極の虚空におもむいて、その旅から、狂わずに生きて帰ってきたことがあるけれど、ライヒはどうしてその遍歴を聞きたいんだい」

「最近知り合った少女と魔術治療の腕を競うことになって、それで……」

 個人的な勝負のためという理由に後ろめたさを感じるのか、ライヒが言葉を詰まらせる。

 気まずそうにゆらめく少女のオッドアイをじっと見つめていたクラネスは、やがてふっと吐息を漏らし、小さな笑みを浮かべた。

「わかった。但し、話して聞かせるのはほんの一部だけだよ。いくらきみでも、ぼくの体験した全容を知ってしまえば精神が壊れてしまうだろうからね」

〈夢の国〉においては良き夢の想像力と「夢見る人」としての熟練度が大きくものをいう。現実世界でのポテンシャルがそのまま幻夢境でも反映されることはないのだ。

 特別な力は一切ない普通の人間であるカーターやクラネスが、偉大な至高の夢見人と称されるのはそのためである。

「ありがとうございます!」

 心からの感謝と喜びをこめて、ライヒはぺこりと頭を下げた。

 クラネスのもとをあとにしたライヒが久しぶりにセレファイスの街並みを見て回ろうと城門を抜けたとき、なんともかしましい声が耳に届いた。十代半ばから後半だろうか、日本人と思しき黒髪の少女が二人、うきうきとした様子で鳶色の瞳をさまよわせている。

 頭の左右で髪を下ろした活発そうな少女がハイテンションで浮かれ、セミロングの少女がゆったりした口調でおかしな方言を発していた。

 セレファイスに初めて来たと思しき感動を全身にあらわしている様がまざまざと見てとれ、ライヒはやさしく微笑した。自分がこの都市を初めて訪れたときのことを思い出していたのである。


 数日後、クラネスから得た知識を基にした特殊魔術の鍛錬を重ねながら、ライヒは何気なくシュヴェイクに今度の魔術治療対決のことを話してみた。

 すると勝負の媒体として集められる発狂患者たちについて、彼はこう答えた。

「申しあげます、司祭殿、それは楽園を追われたアダムとイヴのようなのであります」

 そこから例え話に続こうとするのを必死にさえぎり、ライヒは妙に納得した。

 小説内にて、シュヴェイクは精神病院に送られて観察を受けたことがある。のちに彼は精神病院での生活を次のように語ったのだ。

『あの気ちがいたちが、あそこに入れられていることをなぜあんなに怒っているか、本当のところわかりませんね。あそこじゃ裸で床の上を這いまわろうが、山犬のように吠えようが、狂いまわろうが、噛みつこうが、いっこうお構いなしでしたよ。そんなことをどこかの散歩道でやろうものなら、通行人がおったまげるでしょうが、あそこじゃ至極あたりまえのことなんです。あそこには社会主義者でも夢に見たことのないような自由がありますよ』

 それから長々と精神病院で出会った人たちのことを話し続け、シュヴェイクは最後にこう結んだのであった。

『何度も言いますが、あそこはとてもいいところで、ぼくがあそこで過ごした数日間は、ぼくの生活の最良の日のうちにはいりますね』


 魔術勝負の当日がやってきた。

 場所はトラペゾ教会。無人になって以来、誰も立ち入ることがなくなっただけに、秘密裏に行われる勝負の舞台としてはうってつけといえる。さらに魔術で結界を張っているので万が一にも一般人に介入されることはない。

 広々とした聖堂の中央、ふたりの美少女が不敵な笑みを浮かべて対峙する。その正面には判定役の独立魔術機関の魔道士数名が厳粛な面持ちで整列しており、彼らが集めてきた発狂患者の数は五名であった。

「さあ、ゲームの開始だね」

 ヴィエが愉しそうに最初の一言を発すると、ライヒはしかめっ面で対戦者をにらんだ。

「不謹慎なことは口にしないでって言ったはずよ。魔術治療をゲーム感覚だなんて……」

「はいはい、言葉遊びは不毛なだけだから、さっさと始めようよ」

 ライヒが何か言い返す前に、判定役の魔道士が金貨を親指ではじいた。表と裏に少女二人の名前が明記されていて、床に落ちた結果、ヴィエが先発となった。

 最初に説教壇前へ連れ出された患者は三十代の男で、非常に痩せ衰えていた。奇怪な骨皮筋衛門という形容があてはまるだろうか。彼は食屍鬼に襲われて発狂したのだという。

 仕事の調査で廃線となった地下鉄に降りたとき、群れをなした食屍鬼たちに遭遇してしまい、必死に逃げまわり、明かりの殆どない闇の地下道で長時間立てこもる事態に陥った。命からがら地上に這い出したときには既にまともな精神状態ではなく、食屍鬼たちが人肉を貪り喰らう悍ましい光景を眼にしてしまったため、それ以来決して肉を口にすることはなくなり、食欲も大幅に減ってしまって現在のような状態になった。

 ヴィエは虚ろな眼窩をさまよわせる男の正面に立つと、魔術詠唱を始めた。濃密な魔力が展開されるやいなや、男の周囲を、でこぼこの形をした不思議な壁が覆った。それはまるで大きな口を開けて歯をむき出しにしているように見受けられる壁だった。

 不均整な歯並びの壁に覆われた男は、壁面を見ているうちに震えだし、瞬く間にその眼に正気の光が宿りだしたではないか。数分後、魔道士たちの診断により男は正常を取り戻したと認定された。

「さすがヴィエ、やるわね」

 ライヒが感心の声を放った。男を覆った壁は「飢えの壁」と呼ばれるもので、チェコのペトシーン山の山肌に存在するでこぼこの壁である。1340年、穀物の収穫が非常に悪くて物価が高くなったプラハでは、貧しい人々は食べるものに大変な苦労をした。二千人にもおよぶ人々の嘆願を聞き、心から同情したカレル四世は、部下に命じて二千人の群衆をペトシーン山に連れていき、何の目的もない壁を作るように仕向けた。その仕事と引き換えに、人々には食料、衣服、靴などが与えられたという。

 壁の建設は二、三年も続き、王はしばしば馬に乗って工事現場に姿を現すと、作業する人々を「自分の家族」と呼んで労った。壁が完成すると、丈夫な歯を持つ人間の口のような形になり、それはそのまま仕事と食料を与えてくれた王に対する感謝を表す記念碑となった。

 現在もこの壁は何の役に立たないにもかかわらず、いまだ壊されることなくプラハの人々の意思によって残されている。ヴィエは魔術でその想いを具現化させ、男の精神に働きかけたのだ。

 ライヒの番になった。

 新たに説教壇前へ連れられてきた患者は十代の少女で、数年前に「イスの偉大なる種族」に精神交換されたことがあり、それから解き放たれた際、不運にも特殊な後遺症が発生し、彼女の精神が時流に引っかかって肉体に戻らなかったという。精神が戻らない以上、生存本能だけしかない発狂患者というわけだ。

 ライヒは心ここにあらずな少女の前に立つと、ヴィエのときと同様に精密な魔力を展開させた。すると少女のそばにビールの樽が出現したとみるや、その後を追って、やや禿げた頭の、口髭を生やした、太った中年男が姿を現し、酔っ払ってビール樽の中に転落した。

 暫く経つと、「ポモーッ(チェコ語で、助けて!)」という叫び声があがり、樽の中から飛び出してきた。すると、次の瞬間には少女が眼をぱちぱちとさせて辺りをきょろきょろと見回し始めたではないか。魔道士たちの診断が終わり、少女の肉体に彼女自身の精神が戻ってきたことが証明された。

「ふうん、やるじゃない」

 今度はヴィエが感心げに賛辞を送った。太ったチェコ人の男はマチェイ・ブロウチェク氏といい、チェコの小説家スワトプルク・チェフの諷刺小説『ブロウチェク氏の十五世紀への旅』の主人公である。

 ブロウチェク氏は十九世紀のプラハでアパートを経営する太った小市民だが、ひょんなことから酔ってビールの樽に落ちて十五世紀のプラハにタイムスリップしてしまう。そこで様々な体験をし、最後に拷問にかけられ危うく裁かれるところで運良く十九世紀に戻ってくることができた。ライヒは魔術でそれを具現化し、時間に引っかかった少女の精神を帰還させたのだ。

 ヴィエが感心したのは、彼女がわざわざチェコに関係する魔術を行使したという点である。

 続く患者の二人はヴィエとライヒ双方が失敗し、双方が相手の治療に成功した。かくして二勝二敗となり、勝敗を決する五人目の患者が連れ出された。還暦を迎えたばかりの男の容体を見た瞬間、少女ふたりは小さな驚きを垣間見せる。

 それは、異次元の色彩――宇宙からの色の影響を受けた発狂患者だった。

 外宇宙から飛来した、知覚力のある非物質的存在にして純粋な「色」として出現するそれは、無定形の輝く虹の断片として知覚される。「色」は周囲の植物、動物、人間などあらゆる生態系を侵食し、奇形を生じさせてエネルギーを摂取し、最終的には宇宙空間に帰っていく。

 そんな宇宙からの色に影響された犠牲者を正気に戻すことがどれほど至難の業であることかを、この場にいる魔道士すべてが承知していた。

「わたしからだね」

 ヴィエが真剣な面持ちで患者の前に出た。精神を集中して右の手のひらに燃え上がる五芒星形を浮かび上がらせる。エルダーサインの発動を介して濃密な魔力を展開させること数分、何がしかの魔術を行使させていたようだが、やがて魔力を拡散させると、そっと離れて首を左右に振った。無理だということだ。

「私の番ね」

 ライヒが前に出た。これで治療を成功させれば彼女の勝ちは確定である。

 オッドアイの美少女の顔にはまぎれもない自信の色が浮き出ていた。それはまるで宇宙からの色をも塗り返すような鮮やかさだった。

 ライヒは精密無比な魔力を収束させ、クラネスから得た知識を基にした特殊魔術を発動させた。

 ヴィエと判定役の魔道士たちが思わず息を呑んだ。

 聖堂内が宇宙の漆黒の闇と静謐なる星々のきらめきに覆われ、神秘のプラネタリウムと化し、無窮の静穏たる暗澹とした光景が視界いっぱいに広がったのだから。

「真実の幽霊よ――カルコサの夢を以って二重の月を燈せ」

 ライヒの連句に合わせるかのごとく、亡霊のような幻影都市が星のきらめきに蜃気楼として浮かび、その尖塔の手前を二つに重なりし月が通り過ぎ往く。

 其はまさにカルコサの夢。

 アルデバランの伴星にまどろむ揺籠――窮極の虚空における彼方の伝承の一端。

 そして、おお、見るがいい、禁断の戯曲の果てに存在する夢の残滓が消えた途端、照明の戻った映画館さながらの聖堂で、説教壇前に佇む還暦の男は不思議そうに意思ある眼差しを周囲に向けて困惑の様子をあらわしたではないか。

 魔道士たちから感嘆の声が漏れた。ライヒはふうっと一呼吸して、優雅にスカートの裾をつまんでおじぎをしてみせてから、対戦相手のほうを向いた。

「如何かしら?」

「見事だわ、ライヒ」

 素直に賞賛の言葉を送るヴィエだったが、次いで、

「だけど――」

 その呟きの直後である、それが起こったのは。

 判定役の魔道士たちから驚愕と受け取れる声が一斉にあがった。

 ライヒも愕然として見た。

 信じられないことが起きていた。確かに正気を取り戻したはずの男が、たちまち狂人特有の表情に戻ると、涎を垂らしながらへらへらと虚ろな笑いをこぼしはじめた。

「――発狂」

 淡々としたヴィエの一言。

 ライヒは我を忘れたように茫然と立ち尽くしていたが、やがて、ふるふると首を振った。

「うそ……うそよ!」

 一拍置いて絶叫。眼を見開いて叫ぶ様は狂乱と呼ぶにふさわしく、腰までかかるダークブラウンの髪を振り乱して何度もかぶりを振る。

「そんなはずない……絶対にそんなはずないっ。だって、私の術は完璧に成功したもの!」

 そこでハッとしてヴィエのほうを向き、怒りに燃える赤と青の双眸でにらみつけた。

「汚いわよヴィエ、あなたの仕業ね!?」

 そう口にしたライヒの指摘は正しい。ヴィエが男に術を行使したとき、治療が無理だとわかると、ランドルフ・カーターを介する特殊魔術を用いて、もしこの男が正気を取り戻した場合、再発狂するよう仕組んでおいたのだ。

 しかしヴィエは澄ました顔で平然と受け答えた。

「言いがかりをつけるのは勝手だけど、わたしのしわざだって証明できるの?」

 ライヒは言葉を詰まらせた。証明などできない。ヴィエの特殊魔術は異次元の色彩の影響を治療することはできなくとも、この場の誰も察知できぬ仕掛けを施すことは可能だったのだ。それは発動した瞬間に跡形もなく消えるため、証拠は残らない。過去視を行っても無駄である。

 怒りのあまり、奥歯を噛み砕かんばかりに歯ぎしりして無言で肩を震わせるライヒ。

 するうちオッドアイの縁から透明な雫があふれだし、堰を切ったように頬を伝い落ちた。それは公正な立場である判定役の魔道士たちにも同情という名の義憤を湧き起こらせるほどの涙だった。

 そしてライヒはくるりときびすを返すと、激情のままに聖堂を走り去っていく。

 遠ざかる背中を眺めるダークブルーの瞳は、冷笑を浮かべながらも、どこか一抹の寂しさを湛えていた。自分には扱えぬ、クラネスを介する特殊魔術をやってのけたライヒに対する何ともいえない感慨、それはそんな眼差しだった。


 息を切らしながらホーエン館まで駆け戻ったライヒは、自室に設置してある転移装置に乗って、オーストリアはザルツブルクの自宅に帰還した。

 居間でくつろいでいるシュヴェイクを無視して屋敷を飛び出すと、外はどしゃぶりの大雨だった。ライヒは気にせず旧市街の南を駆け抜けた。

 メンヒスベルク丘陵についたところで足をふらつかせて立ち止まると、荒い息を吐いてずぶ濡れの肩を上下させる。肩だけでなく髪、顔、衣服から下着に至るまで全身びしょ濡れだったが、ライヒはうつむいたまま雨に打たれ続けた。

 ヴィエとティータイムを愉しんだとき、そこはかとなく心地よさが生じた。初めて同年代の友達ができそうだと密かな期待に心開く思いだった。しかしそれは自分の甘い勘違いであったことを痛感し、涙を流さずにはいられなかったのだ。

 ふいに少女の頭上が絶え間ない大粒の水滴から遮断された。

 顔を上げると、目の前に赤いとんがり帽子の少年が立っていた。雨をさえぎったのは、少年が差したオレンジの傘だった。

「……カスパー?」

 カシュー・パレク、通称カシュパーレクといっただろうか。それはいつか出会った、少しあどけない、やんちゃな顔立ちをした少年。自分より二つ年上だが、スカートをめくられるという破廉恥な行為に及ばれたため印象はあまりよくない。

「ぼくの名前、おぼえててくれたんだ」

「あれだけ記憶に残るような態度とってくれたらね。もちろん悪い意味で。どうでもいいけど、こんな大雨の日までわざわざここまで来てナンパに精を出してたの?」

 それだったらご苦労というか無駄な努力としかいいようがないが、少年はなにやら複雑そうにはにかんだ。

「そっちこそ、こんなどしゃぶりの雨の中で傘も差さずになにやってるのさ」

「あなたには……」

 関係ないでしょと言いかけ、ライヒはふたたび涙が溢れてくるのを堪えられなかった。眼を閉じてぼろぼろ泣き出すと、さすがにびっくりしたのか、少年はおろおろとうろたえるばかりだ。

「ごめん……暫くでいいから、このままにさせて」

 情けないことこのうえない。それでも感情を抑えられず、しゃにむに泣き続けるライヒ。

 そんな少女を前にどうすることもできず、カシュパーレクは傘を差したままその場に立ち尽くす。周囲一面を灰色に染める雨音よりも、かすかなしゃくり声のほうが耳に届いて離れずにいた。



※この回の魔術勝負は菊地秀行『魔女医シビウ』をモチーフにしています

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