10話 揺らめく心②

 心ここにあらずの状態のまま、全てを済ませてバスルームから出ると、ソファの上で目を閉じている彼を見つけた。


 間接照明は消えて、部屋にはキャンドルの灯りだけ。龍介さんの頬をオレンジ色に照らしている。そっと彼のそばに歩み寄り、ソファの空いている部分に腰を下ろし顔を覗きこめば、規則的な息づかいが聞こえてくる。


「可愛い……」


 寝顔はあどけないけれど、龍介さんはどちらかと言えば男性らしい顔立ちをしていると思う。彫が深くて、あまり丸みを感じない。首の太さも、のどぼとけの大きさも、見れば見るほどに男性を感じる。そして、小麦色の肌と筋肉質な体。血管の浮き出た腕と胸元に覗くタトゥー。


「ん……」


 龍介さんの唇から零れた吐息に反応して、自分の体がビクッと揺れた。視線の先には、龍介さんの体に伸ばされていた自分の手。


 寝てる人を触ろうとするなんて、わたしは一体なにをしているのだろう。龍介さんといると、なんだか色々おかしい。触れる直前だった手を握りしめて、小さく息を吐く。その伸ばしていた手の方向を変えて、ソファの背にかかっているブランケットに向かわせる。音を立てないようにしてそれを取ると、彼の体にゆっくりとかけた。


 すると、彼の瞼が微かに動いてゆっくりと開き、目の前の光景を確認するように瞳が動いて、最後にわたしを捉える。


「……ん。俺、寝てた?」


「はい」


「そっか……なんの香りだろう。綾乃ちゃんすげぇいい匂いがする」


 湯上がりの肌に、彼の言葉が突き刺さる。


「そう、ですか……シャンプーかな」


 ありきたりな言葉しか溢れない唇を、少しだけ恨めしく思う。でも、彼はそれを聞いて本当に優しく、静かに笑った。


「なんか、ちょっと幸せ」


 そう呟いて、再び目を閉じてしまう。また眠ってしまうのかと、その顔を見つめているとブランケットの脇から彼の手がこちらに伸びてきた。伸ばされた左手に右手を重ねれば、優しく包まれてわたしの膝の上に落ちる。


 この手の意味はなんですかなんて聞けないから、代わりに「酔ってます?」と聞いてみる。


「うん」


「お風呂は?」


「……入る」


「ふふ。眠そう」


 静かな夜。微かに波の音が聞こえる。風が抜けていく。昨日と違うのは、目の前で眠る彼の姿と、遠慮がちに繋がれた二人の手。


「ああ、本当に寝そう」


 彼はそう呟くと、ゆっくりと上半身を起こして頭を振る。


「……っ」


 そのままこちらに向けられた瞳。その近さに、わたしの唇から微かな息が掠れるように漏れでた。繋がれた手に、ぐ、と力が込められる。力を込めたのは、わたしか龍介さんか。それさえもわからない程に、龍介さんの瞳が近い。黒目がちな瞳にオレンジの光が揺れる。


 波の音。風の音。そして心臓の音。このまま見つめ合えば、そして瞳を閉じてしまえば、きっとその温もりが、触れてしまう。



 視線を振り切るようにして俯いたわたしの視線の先。いつの間に触れてしまったのか、龍介さんの胸元に覗くタトゥーとそれに重なる白い指。まるで耳元で鼓動しているように、心臓の音が間近で聞こえるのはわたしの気のせいなのか。微かに震えるその指にどうにか力を込めて、ゆっくりと小麦色の胸の上で握った。


「……お部屋、戻ります?」


「……うん」


 手を離して立ち上がると、わたしの後ろで龍介さんも同じように立ち上がったことがわかる。


 なんとなく二人で並ぶようにして歩き出して、二階の部屋に向かう。龍介さんの体に微かに触れる肩が熱を持つ。静まり返った廊下で、お互いに何も言えずに少し見つめ合うと、どちらからともなく笑った。


「明日は朝トレーニングだからね」


「はい。ちゃんと準備しておきますね」


「うん。それじゃあ……」


「おやすみなさい」


「……おやすみ」


 本当は寝るにはまだ少し早い。そう思っていても、これ以上二人でいることができなかった。手には彼の温もりが残っている。目を閉じれば、彼の瞳がよみがえる。心臓が勝手に高鳴りだすから、少しだけ苦しい。


 部屋の明かりを消して窓から空を見上げれば、数えきれないほどの星が輝いていて。あまりにも美しいその瞬きを、わたしはずっと見つめていた。

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