5. 魔神の顕現 -The Incarnation of Devil-(2)
左手の爪で裂かれたのだ、とフローレンスは認識した。完璧に意識の外にあった攻撃だった。人間ならば武器でしか攻撃することはない。両手に剣を持っていれば警戒もするが、素手であったためまったく予期していなかった。
かなり深く切られたようだ。右腕に液体が伝っているのが判る。フローレンスはそれでも剣を握り直した。ここを通すと戦線が崩壊してしまう。
アスコットは妖魔を圧倒していた。敏捷性で大きく上回るうえに、狭い廊下では大柄な妖魔は動きづらそうだった。何度も粗末な大剣が壁や天井を叩いている。その度に妖魔の傷が増えていくが、まだ致命傷には至っていない。血の臭いに猛っていく。
ウィニフレッドは少し落ち着きを取り戻し始めていた。妖魔たちは相対する前にフィルたちの魔法で傷ついているうえ、彼らの攻撃は速くて重いが直線的だ。相手の動きを仔細に観察していれば、狙いとタイミングはおおよそ予想が付く。猟で不規則に逃げる獲物を矢で仕留めるのに比べれば、こんなに簡単なことはない。斬撃が来る度に落ち着いて対処しつつ、隙を見つけては着実に妖魔を傷つけていく。
学院長とミニョレの動きにフォクツは注意を払っていた。妖魔王を召喚してから二人はまったく行動を起こしていない。前線で戦う妖魔に補助魔法をかけもせず、かといって攻撃魔法を打ち込んでも来ない。二人の狙いが読めず、フォクツは不安に思っていた。特にミニョレの方に不自然な魔力の流れが起こっているように感じられる。何かの素振りがあればすぐに対応出来るようフォクツは発動体の指輪を握り込んだ。
レティシアは大規模な攻撃呪文の詠唱に入っていた。目下最大の脅威は妖魔王だが、フローレンスと激しく切り結んでいてとても魔法で狙えるような状況では無い。廊下から向かってきている妖魔相手にはウィニフレッドとアスコットが奮戦しているが、その後ろにまだ何体か控えている。早めに挟み撃ちを解消し、妖魔王に集中して対応出来る形に持ち込みたかった。
「イグナイティッド・ジャベリン!」
最大限に魔力を拡大し六本の槍を形作る。それを廊下の入り口に向けて射出した。ウィニフレッドとアスコットの頭上を通過して、次々と妖魔に突き刺さる。
「グアアァ!」
おぞましい叫び声が上がる。肉が焦げる強烈な匂いがした。苦痛に叫ぶ妖魔の首をウィニフレッドが切り捨てる。アスコットも目の前の一体に飛びかかり屠った。
しかしすぐに味方の死体を踏み越えて次の妖魔が襲いかかってくる。けれど二度の魔術によって傷ついている。あまり大きな脅威にはならなさそうだった。
「……」
フィルは慎重に様子を見ていた。威力が高く狙いもつけやすいエリアル・セヴェンスを準備しているが、妖魔王の動きが速く中々タイミングがつかめない。かといって今のところ静観している学院長たちを狙って刺激してしまうのもリスクが高いように思われた。
フローレンスは守勢に回っていた。人間との試合は数え切れないほどこなしたが、妖魔との実戦はほとんど経験が無い。攻撃のパターンが異なるため対応に気を払う必要があった。右手の大剣は威力が高く間合いも長いが速度はそれほどではない。一方左手の爪は間合いも短く重さもないが、その分速度は段違いに速い。さらに口から火炎を吐くことも出来る。もしかしたら他にも何らかの攻撃手段を隠し持っているかも知れない。不用意に踏み込むとどんな角度から反撃が来るか予想が難しい。身体の基本的な作りは人間と大きく変わらないので、重心や筋肉の動きから相手が何を狙っているのかある程度は類推できるものの、絶対の自信は持てなかった。
妖魔王が右足を踏み出す。同時にフローレンスも右に半歩ずれる。敵の正面を外し続けながら自分の間合いに入り込んでくるのを待つ。純粋な速度での勝負なら引けを取らない。じりじりとすり足で移動を続け、妖魔王の半歩右に位置し続ける。
剣を振り上げると同時に妖魔王が突っ込んでくる。右斜め上から振り下ろされる漆黒の大剣。十分に予期していたフローレンスは右にステップを踏む。大剣の横を潜り抜けながら、自らの剣でその軌道を僅かに変える。またも地面にめり込む大剣。妖魔王の重心は前に残っている。踏み込みを見せると予想通り左手が振られてくる。その前腕を薙ぐように切り裂きながら後ろに飛び爪を躱す。意図を読まれた妖魔王は前に振られて思い切り体勢を崩した。
「エリアル・セヴェンス!」
準備していた魔法をフィルが発動する。密度の高い魔力が空気を集め一直線に対象に向かう。しかし妖魔王は手にした漆黒の大剣を風の刃に合わせた。それを感じ取りフローレンスも追撃に向かう。
「なっ!?」
妖魔王の剣が触れた瞬間、フィルが放った魔法は四散した。僅かに残った真空の刃が妖魔の肌を切り裂くがほとんど効果はなかったようだ。
遅れてフローレンスが斬りかかる。しかし妖魔王は左手の爪で受ける。竜鱗の剣は爪の半ばまで埋まる。しかし切断するまでには至らない。妖魔王は右腕に持った大剣を振るう。飛び退るフローレンス。しかし赤い霧が舞う。左の前腕が深く切り裂かれた。
ウィニフレッドは二体目の妖魔と相対していた。レティシアの魔法によって妖魔はかなりの深手を負っているようなので、今度は守勢に回らず積極的に攻撃を仕掛ける。借り物の魔剣は軽く、浅いながらも着実に妖魔の身体を切り裂いていく。闇雲に振り回された妖魔の剣をバックステップで躱し、そのむき出しの腕を切り裂く。妖魔は堪らず大剣を取り落とした。その機を見逃さず、ウィニフレッドは一気に止めを差しに首を狙った。
「きゃっ!」
しかしその瞬間強烈な衝撃を頭部に受けた。光が散って視界が奪われる。何が起こったのか判らない。しかし慌てて飛び退る。剣はなんとか取り落とさずに済んだ。頭を小さく振って意識をはっきりさせる。
「なっ!?」
レティシアは動揺した。ウィニフレッドを射貫いたのは最後尾にいた妖魔が放ったエナジィ・ボルトだった。最初の妖魔が倒れた分、遮蔽物が少なくなっている。誤射する危険を冒し、廊下から狭い隙間を通して攻撃魔法を飛ばしたのだ。強靱な妖魔ならば、エナジィ・ボルト程度なら影響は少ない、という判断だろうか。
二発目のエナジィ・ボルトが飛ぶ。狙い違わずウィニフレッドに命中した。一発ごとの威力は高くないが簡単な魔法だけに連射が利く。大剣を持った妖魔を相手にした状態でさらに魔法で狙われるのは非常に危険だ。
ウィニフレッドは魔法に気を取られている。大剣を拾い直した妖魔が大きく振りかぶる。その腕にアスコットは飛びかかり噛みついた。しかしもう一体の妖魔の剣に後ろ足を切られる。高い叫び声が漏れる。
レティシアとフォクツは慌ててエナジィ・ボルトを唱える。二体の妖魔に命中したが、倒すには至らない。しかしその間にウィニフレッドは体勢を立て直した。さらに飛んでくる妖魔からの魔法は、避けられないが意志を強く持って堪える。アスコットが後ろ足を引きずりながら後ろに下がった。
レティシアは一瞬ふらついた。先ほどから続けざまに魔法を放っている。自分の魔力が平均的な魔術師よりも多いという自信はあるが、さすがに濫用が過ぎる。しかし唇を噛み、手の中に発動体の指輪を握り込む。
「レティシアよ」
学院長が嗄れた声を上げる。妖魔が動きを止めた。
「降伏したまえ。私はお前のことを高く評価している。今なら、お前の愚行にも目を瞑ってやっても良い」
レティシアは戦況を確認した。フローレンスは右肩と左腕の二カ所から血を流している。剣を構えてはいるが妖魔王相手には分が悪そうだ。ウィニフレッドとアスコットも傷ついている。特にアスコットの後ろ足の怪我は重傷のようだ。ウィニフレッドも傷口が開いたのか、包帯に血がにじんでいる。対する妖魔もかなり傷ついているが、後ろから魔法の援護があるため状況はかなり悪い。フォクツとフィルは傷こそ負っていないが、魔法を連発したため肩で息をしている。
「……ふざけないで!」
レティシアは喉から声を振り絞った。学院長が鼻を鳴らす。それを掻き消すようにレティシアは詠唱を開始した。自分が唱えられる最大級の魔法を放つつもりだった。これが通じなければもう打てる手立てはない。フィルやフォクツでは火力が足りない。この状況を打破できる可能性があるとすれば、この選択肢しかなかった。
「紅玉の憤怒、炎帝の抱擁……」
「残念だよ、レティシア」
学院長は杖を振り上げた。それから老人らしからぬ高らかな声で詠唱を開始する。
「氷雪の魔獣、闇夜の支配者よ……」
妖魔たちが攻撃を再開する。野太い猛った声が塔の最上階に響いた。
ウィニフレッドはアスコットを背後に庇った。二体の妖魔に立ち向かう形になる。一体目から振り下ろされる剣を横にステップして躱し、続く薙ぎを剣で受け流す。奥から隙間を通してエナジィ・ボルトが飛んでくる。避けることは出来ないが意識を集中して堪えきる。後ろにはフィルとフォクツがいる。丸腰の彼らを妖魔から守る楯になれるのは自分だけだ。
フローレンスは剣を両手で構えた。切られた左腕にはほとんど力が入らない。この握力では斬撃を受け止めることはおろか、受け流すことさえ難しそうだ。それでも床を強く踏みしめる。近づいてくる妖魔王を見据え高らかに宣言する。
「ここは通しません!」
レティシアが魔法を発動させるまで倒れるわけにはいかなかった。家同士のつきあいがあったため、彼女のことは本当に小さいときから妹のように可愛がっている。五歳上の自分から見ても、幼い頃から高潔で聡明な娘だった。そのレティシアが状況を鑑みた上で屈しないと決めたのだ。命に代えても、その信頼を違えるわけにはいかなかった。小さい頃から慕ってくれた妹に対する、姉としての矜恃があった。
妖魔王が無造作に近づいてくる。フローレンスは正眼に構えたまま微動だにしない。右上段に構えた大剣を視界の隅に追いやる。もう妖魔王の戦闘スタイルは大体理解していた。レンジが長く威力も大きい大剣の斬撃が軸だ。相手の方が間合いが長いときには口からの火炎で体勢を崩しにかかる。大剣が外されて懐に入り込まれたときには小回りの利く爪で迎撃する。その備えがあるから大剣の斬撃に迷いがなく思い切りが良い。
振りかぶられた大剣を見据える。自分の左側から来るので右側に躱したくなる。しかしそちらに避けても左手の爪の追撃が来るのが判っている。自分の膂力では、それを押し切ることが出来ない。フローレンスは奥歯を噛みしめた。振り下ろされる漆黒の刃。敢えて大剣の下に身を晒した。
「くっ!」
怪我をしている右肩に担ぐように自分の剣で防ぎながら妖魔王の左側面に転がり込む。右肩の傷口が更に開き血が吹き出る。それでも体勢を立て直した。晒された脇腹に青白く光る竜鱗の剣を突き立てる。
確かな手応えがあった。
しかし次の瞬間、視界の隅を掠めたものがあった。それが妖魔王の尾であると認識する前にフローレンスは弾き飛ばされた。手から剣が離れ、背中から床に叩きつけられる。
「―――ッ!」
受け身も取れずに強かに背を打ち、呼吸が出来なくなる。人間にはない部位だったので、重心の動きからは予想できない攻撃だった。肩の骨が折れたかもしれない。痛みに顔を顰めながら床に片手をついて上体を起こすと、妖魔王が口を大きく開くのが目に入った。
灼熱の炎が吐き出される。フローレンスは目を閉じた。
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