1. 銀狼の姫 -A Lady with silver eyes- (1)
湖畔の国、ルサン。その名の由来となったルサン湖を中心に栄える大国である。大陸の中心に位置し豊かな穀倉地帯を持った農業国として、また陸路・水路を生かした交易の中心地として発展を続けている。大陸全体を見渡しても稀な多民族国家であり、各部族の長による合議制を採っていることでも希有な存在である。しかしその恵まれた国土の所為もあって、隣国との小競り合いが断続的に起きている。
首都は国名と同じルサンの街。湖の西岸に位置する港町である。国の政治・軍事の中心地であると同時に、大陸中からあらゆる人や物が集まる交易都市としての側面も持つ。
多寡こそあれども七つの部族がルサンには暮らしている。それは建国の経緯にも密接に関係している。古来よりルサン湖近辺は国こそないものの、大陸貿易の十字路として発展を遂げてきた商業都市だった。
しかし今から三百年ほど昔、一夜にして街は消滅した。住民は一人残らず殺され、建物も徹底的に破壊された。その後に出来たのは妖魔が闊歩する無慈悲な黒い王国だった。妖魔の王が君臨し、周辺の地域を統括していた。
妖魔がどこから生じたのかは今でも解っていない。魔術師が異世界から召喚したと言う説もあれば、湖から渡ってきたと言うものもある。また神が試練のために遣わしたとも言われている。今となってはもう判らないことだ。
交易の拠点を奪われた人間たちは妖魔を討伐するべく各部族が協力し軍を組織して戦ったが、結果は思わしいものではなかった。体力に秀でた妖魔と正面きって戦うのは困難であり、部族間の連携が密ではなかったことも一因だった。権力争いから軍は離散と再編を繰り返し、徒に被害を増やすばかりであった。しかし妖魔と戦うことは聖戦と喧伝され、幾人もの勇士がそこに参加した。後に語られる妖魔聖戦である。
人間と妖魔の間で一進一退の攻防が繰り広げられた。その最中、やがて戦いで中心的な役割を果たす七人の英雄がいた。彼らは異なる髪の色を持ち異なる眷属を連れた、異なる部族だった。七人は軍の先頭に立ち見事妖魔の王を討ち滅ぼした。
七人は英雄になった。貿易の中心として再び湖畔に街が作られ、『はじまりの七人』として熱狂的に迎えられた彼らは各部族の族長としてその街を治めることになった。すなわち、合議制の始まりである。その後、彼らの子孫たちが族長家を受け継ぎ、政を行うこととなった。
しかしその全ての家が今も族長を務めているわけではない。直系の血筋が途絶えたり地位を譲った例もある。それでも彼らははじまりの七家として今もルサンの街で広く尊敬を集めている。
建国されてから三百年余。聖戦の痛手も既に癒え、街は発展を遂げてきた。
そのルサンの中心部、魔術学院からほど近い安酒場で、三人はテーブルを囲んでいた。
「でも、結局アリステア導師に師事することになったんだろう?」
「うん。さっき発表があって明日から配属。どういう点を評価されたんだか判らないんだけどさ」
フォクツの質問に答えた後、フィルは杯を呷った。エールが喉を灼く感触に、少し咽せそうになった。故郷の村には、こんな刺激的な飲み物は存在していなかった。しかし、フォクツは平気な顔で陶器の杯をぐいぐい傾けている。
「良かったじゃん! 希望したところに入れて!」
自分のことのような笑顔で言ったウィニフレッドも平気な顔で飲んでいる。彼女はルサンに何度か来たことがあるはずなので、もしかしたらエールを飲んだ経験があるのかも知れない。
フォクツとウィニフレッドの兄妹は、フィルの同郷で幼なじみだった。家が隣で兄弟同然のようにして育った。もちろん三人とも黒鴉の部族である。そもそも故郷のトラムという村ではすべての住人が黒鴉の民だった。
フォクツはフィルより六つ上で、同じように村の私塾で魔術を習っていた。彼は三年前に試験に合格してルサンの魔術学院に入学し研究を行っている。男性にしては長めの黒髪が、面長の整った顔立ちによく似合っていた。村にいた頃に比べると、だいぶ垢抜けた印象を受ける。元々女好きな質なので、さぞかし遊んでいることだろう。
ウィニフレッドはフィルの入学と時期を同じくしてルサンの警邏隊へ採用され、一緒に街までやってきた。今は警邏の宿舎で暮らしている。こちらは癖っ毛を肩の上辺りで無造作に切っていて、兄のフォクツとほとんど変わらない長さだった。円らな瞳が特徴的で、フィルと比べても二つは幼く見える。丸顔で大きな口から八重歯が覗いているのがチャーミングだが、髪がぼさぼさなので洗練された印象はない。
「でもなぁ、あのアリステア導師だろ。しかも分野が時間魔術」
「やっぱり導師は有名?」
「そりゃあね。史上最年少導師だし。まだ二十だから俺より年下だもんなぁ。ちょっと凹むよ。しかも、実績からするともっと早くから研究室を開けたはずなのに、若すぎるってだけで止められていたわけだしなぁ」
「兄さんも早く導師になれば良いじゃん」
「馬鹿言え。俺がなるには、まず試験を受けて助手になって、そこで成果を上げてようやく導師だ。どんなに頑張ってもあと十年はかかる」
妹の揶揄に、フォクツは憤慨したように答えた。少し顔が赤らんでいるのは酒の所為だろうか。
「歳のこともそうだけど、アリステア導師はやっぱり俺ら凡人とは次元が違うって言うかそういう感じがするもんな。直接話したことはないけどさ」
「うん……」フィルはぼんやりと言った。「確かになんか、普通の人とはちょっと……」
「え? どんな人だったの? あたしも名前くらいは知ってるけど」
フォークをくわえたまま、無邪気にウィニフレッドが問いかける。フィルは面談の様子を思い出した。
「どう言ったら良いかな。全部見透かされている感じ。頭の中も、今までの生活も全部。ああ、そうだ。ウィニフのことも訊かれたよ」
「え? なんて?」
「一番仲の良い友人は誰か、って訊かれて。答えようとしたらいきなり、黒鴉の部族の異性の幼なじみだって言い当てられた」
「え……。やだ、ちょっと怖いかも……」
「まあ、田舎の出身だって見るからに判るから、同じ部族だとは想像できるだろうけどな」
「そういえば、そのアリステア導師ってどこの部族なの?」
「栗山猫だよ。目も髪も綺麗な栗色」
フィルは簡潔に答えた。ウィニフレッドはふむふむと頷いた。
どこの部族も司る色と動物、そして概念を持っている。フィルたち黒鴉の部族は黒い鴉を司る。故郷の村では多くの鴉を飼い共に暮らしている。司る概念は「混沌」である。そのためか、黒鴉の部族には無精でいい加減な人物が多いと言われている。
一方、栗山猫の部族は「異端」を司る。変人が多いと言われる部族だが、彼女はその中でも群を抜いているように見えた。
「研究室の導師以外の人には会ったのか?」
「うん。多分助手だと思うけど、ベナルファって青馬の部族の人」
「ベナルファ・インヴァネスか。こっちも若手の助手では出世頭って言われてる人だな。新設の研究室だからか、豪華な人選だ」
フィルは段々混乱してきた。学院に入るに当たって色々な人に会った。それぞれのプロフィールまで覚えておくのはとても面倒そうだった。
フィルがそう零すと、フォクツはしたり顔で頷いた。
「俺だって全員は知らないよ。そもそも学院だけで、村よりも人数多いんだから」
フォクツの言葉に、ウィニフレッドが同意した。
「本当、ルサンは人多すぎだよねぇ。あたしも全然覚えられないよ。偉い人だって部署違うとさっぱり判らないし」
「村にいたときみたいに、全員知っていて当たり前って環境じゃないからさ。必要なところだけ押さえておければ大丈夫。まあ、関係部署の上司くらいは知らないとまずいけど……」
諭すようにフォクツは言ったがウィニフレッドは微妙な表情を変えなかった。村にいたときは誰とでも仲の良かった彼女だけに、知らない人ばかりという環境に慣れないのかも知れない。
「寮の生活はどう?」
「うん、かなり快適、かな。水汲みにも行かなくて良いし、料理しなくても食堂に行けば何か食べられるし……」
「良いなあ、そっちの寮は。警邏の宿舎は料理も水汲みも当番制なんだよ。週によって味の差が激しいとか……。学院はずるいなぁ」
「まあ、寮には若い導師とかも住んでたりするからな。研究が忙しいと飯食べてる暇なんて無いくらいだから。空腹に料理の面倒臭さが勝てるような価値観の持ち主ばかりだから、食堂でもないと餓死者が大量に出るぞ」
唇を尖らせたウィニフレッドをフォクツが宥めたが、彼女はまた杯を呷っただけだった。フィルもつられて杯を傾ける。段々エールにも慣れてきた気がする。
「ねえ、寮ってどこにあるの?」
「学院の敷地内。塔とは別棟だけどな」
「あっ、そうなんだ! じゃあ宿舎からも近いし、いつでも遊びに行けるね」
「いや、学院自体が関係者以外立ち入り禁止だ。まあ、イベントがあれば一般開放することもあるけど、でも寮なんか公開しないよ」
学院全体はとても高い壁で覆われていて、門も一カ所にしかない。その上、緊急時には学院を取り囲むように魔術結界が張れるようになっているという。事故があったときに学院の外にまで被害が及ばないように、とのことだった。
「と、言うか。あれは公開しちゃいけないんじゃないかと……」
フォクツの説明に、フィルは投げやりに補足した。寮に住み始めてまだ一週間ほどだが、とても濃い体験をしていた。ゴミ溜めのような部屋をいくつも目撃したが、それはまだ可愛い方だった。魔術で召喚した異界の住人や魔法生物などを使役している寮生がいて、廊下で何度も得体の知れない生物と遭遇している。象牙の塔の名が示すとおり、浮世離れした人材の宝庫なのだ。
「きゃあああああ!」
そのとき、店の外から女性の甲高い悲鳴が聞こえてきた。
「……え?」
「何!?」
フィルとウィニフレッドは驚いて、開いたままの店の戸口を見る。しかし外は暗く、身を乗り出してみても何も見えなかった。音源も遠かったような印象だった。一方フォクツは涼しい顔で料理をつまんでいた。
「兄さんっ!?」
「村じゃないんだからさ、よくあることだ。まあ、この辺だと珍しいかな。旧市街の方なら日常茶飯事だけど」
フォクツが落ち着いた声音でそう言った。しかしウィニフレッドは真剣な表情を浮かべて立ち上がった。
「様子を見に行きます。見習いとはいえ、あたしだって警邏の端くれだもん。見過ごすわけにはいかない!」
「言うと思ったよ」
やれやれ、とつぶやきながらフォクツも立ち上がった。ポケットから硬貨を取り出してテーブルに置く。フィルも魔術師の杖を手に席を立った。故郷の村から持ってきたもので、しっくりと手に馴染む。
「さて、と」店から出たところで、フォクツが訊いた。「どこから見に行きますかね、警邏様?」
「もちろん、悲鳴の主を探しに」
「探しに、って言ってもな」
フォクツは辺りを見渡した。夜とはいえ街の大通りには多少の人通りがある。月も出ているし、建物から漏れる光もあるので真っ暗というわけでもない。しかし何か事件が起こったようには見えなかった。
「大通りじゃなさそうだ。どう探せば良いのやら」
陽がすっかり落ちていて、町の中心部に近いとは言えかなり暗い。少なくとも目の届く範囲で、何事か起こっている雰囲気はなかった。
「この辺に路地とか小径ってどれくらいあるかな?」
「そんな漠然とこの辺って言われてもな……。とはいえ、さっきの悲鳴が聞こえる範囲内ならそんなに多くはない」
「じゃあ、もう虱潰しでいくのが一番簡単かな」
フィルとフォクツはそう頷きあった。それからまた歩き出す。先頭のフォクツが狭い曲がり角に差し掛かったとき、角の向こうから影が差した。
「えっ!?」
ウィニフレッドが抑えた声で叫ぶ。角から姿を現したのは狼だった。かなり大きく、頭の位置がフィルの胸くらいまではある。半開きの口から鋭い牙と真っ赤な舌が覗いていた。銀色の毛並みが、月明かりを反射して鮮やかに燦めく。
狼が小さく威嚇するように唸る。ウィニフレッドが腰の剣に手をかけて半歩前に出る。フィルも杖を握り直した。短い詠唱で発動できる攻撃魔法をいくつか思い浮かべる。しかしフォクツは笑いを噛み殺した声で言った。
「お前ら、何してんの?」
「だって兄さん、こんな街中に狼がいるんだよ!」
「馬鹿。誰かの眷属に決まってる。この辺は銀狼の民のお偉いさんがたくさん住んでるんだから。よくうろちょろしてるよ」
「……眷属?」
二人は惚けたように狼を見遣った。狼は少しの間警戒するように見ていたが、やがて興味を失ったのか三人の脇を抜けて大通りの方に抜けていった。
眷属とは各部族が司る動物のうち、トーカブルと共に行動しているものを言う。高い知性を持ち、人との生活にも慣れている。生まれつき眷属と心を通わせることが出来る能力を持つ者がトーカブルと呼ばれ、各部族にごく稀に生まれてくる。恵まれた能力を持つ者が多く、部族の中でリーダー的な役割を期待されることも多い。トーカブルが生まれる割合はかなり低く、村ではフィルだけだった。
眷属はトーカブルが生まれるとどこからともなくやってきて、まるで雛を守る親のように振る舞う。生涯を通してトーカブルの下を離れることはない。フィルも生まれたときからリルムという雌の鴉と一緒に過ごしてきた。当然ルサンにも連れてきている。とはいえ鴉なので、普段はかなり好き勝手に飛び回っている。
「田舎者。眷属が人を襲うわけないだろ。間違いなく、ウィニフよりは賢いんだから」
「兄さんだって、トラムの出身じゃん! 偉そうにしないでよ」
フォクツとウィニフレッドが口論を始める。フィルは放っておいて、曲がり角の先をのぞき込んだ。また銀色の毛が見えたが今度は人間だった。銀狼の民の若い女性が横向きに倒れている。
フィルは慌てて駆け寄った。倒れた女性の横にしゃがみ込む。年齢は二十代の半ばくらいのように見える。大きな怪我は無いようだったが意識を失っている。衣服が乱れているような様子もないし、懐からは財布と見られる革袋が覗いていた。口論をしていた二人もすぐに追いついてくる。倒れた女性に呼びかけてみるが、まるで反応はない。
「ちょっと見せて!」
フィルはウィニフレッドと位置を変わった。彼女は警邏になるにあたって、応急処置の心得を習っている。慎重に身体を検分し始めた。
「呼吸はしっかりしてるし、多分大丈夫。外傷は擦り傷くらいみたいだけど……」
「当て身を食らったんじゃないかな。服の下に痣が出来てるかも」
フィルは路上に落ちていた袋を指さした。買い物に出た帰りだったのか、袋の中身は食材だった。そこから覗いている果物がいくつか潰れて汁を垂れ流していた。
「あ、なるほど」
ウィニフレッドは女性の服をはだけた。豊満な乳房の下、腹部に赤い痕が残っているのが、フィルのところからでも見えた。
「この辺って、こんな事件がよくあるの?」
「いや。旧市街の治安が悪い辺り以外は滅多に事件なんて起きない。特にこの辺は重要施設が多いから、警邏や軍の関係者もうようよしてるしな」
「まあ、こんな若い女性が一人で出歩いてたくらいだから、そうなんだろうけど……」
フィルとフォクツは小声で言葉を交わす。検分を終えたウィニフレッドが立ち上がった。
「やっぱり当て身か何かを食らったみたい。痣が残ってたよ。命に別状はなさそうだけど……」
「だけど、このままにしておく訳にはいかないよね……」
二人はフォクツの方を見る。ふむ、と首を捻ってからフォクツは言った。
「この近くに治療院がある。とりあえずそこに運ぶしかないな。どこの誰だかも判らんし」
「了解」
フィルはウィニフレッドに協力して貰い、なんとか女性を背負うことに成功した。自分で捕まってくれないのでかなりバランスが悪い。苦戦しながらも、先導するフォクツの後を追う。彼は女性の荷物とフィルの杖を手にしている。
月が綺麗な夜だった。一部分だけが欠けた十六夜月が、通りを淡く照らしている。故郷の村で見たのとは、少し趣が違って感じられた。
「ちょっと! 貴方たち」
大通りに面した一際大きいお屋敷の前を通りかかったとき、剣呑な声がかかった。
「一体、何をしているのですか!」
豪奢な正門の脇。半開きの簡素な通用門の中から声をかけてきたのは、銀狼の民の娘だった。年の頃はフィルより少し上だろうか。宝石を散りばめたティアラが頭に輝いている。それに負けないほどの輝きを湛えた目が、冷ややかにフィルの方に向けられている。その姿にフィルは思わず目を奪われた。
とても美しい娘だった。まっすぐ背中に垂れた長い銀髪は月の光を反射して滝のように燦めき、切れ長の目の中には強い意志を感じさせる灰色の瞳が輝いている。真珠のような歯が覗く桜色の唇から響いたのはよく調弦された竪琴のような澄んだ声だった。華やかな純白のドレスに細身の肢体を包み、その声音には確かな自信と誇りが満ちている。まるで神話に謳われる月の女神のようだとフィルは思った。
「何と言われてもな……」
「メルをどうするつもりです」
ぼんやりと答えたフォクツを威圧するように、少女は門から通りに出てきた。取っ手を掴む右手に、魔法の発動体となる指輪が填められていることにフィルは気がついた。紅い宝石が中指の中程で光を反射している。
「メル?」
フィルは首を傾げて少女の視線を追う。どうやら背負っている女性のことらしかった。
「失礼ですが、お知り合いですか?」
ウィニフレッドの問いかけに、少女は硬い声で答えた。
「メル……メリッサは我が家の使用人です。貴方たちこそ、彼女に何をしているのですか?」
「失礼しました。私は警邏のウィニフレッド・キャバイエと申します」
そう言いながら、ウィニフレッドは懐から身分証を出して見せた。
「彼女が道に倒れていたのを発見したので保護いたしました。身元が判らないので治療院へと運ぼうとしていたところです」
「そうですか」少女は身分証を見て、幾分安心したようだった。「こちらこそ、大変失礼を申しました」
銀狼の民の少女はそれから心配そうに、フィルに背負われた女性に目を向けた。
「それで、メルはどのような状態なのですか?」
「当て身か何かを受けたようですが命に別状はありませんし、大きな傷もありません。意識が戻っていないのが少し心配ですが……」
「当て身?」少女は眉を顰め、不審そうな顔になった。「誰がそのような狼藉を?」
「犯人は判ってない」フォクツが横から答えた。「俺たちは倒れているところを見つけただけだ。その前に悲鳴も聞いたけどな」
「そうなのですか……」
釈然としない様子の少女に、畳み掛けるようにフォクツは続けた。
「この件については警邏隊の方で処理されることになると思う。そんなことより、この人を休ませられる場所はあるか?」
「あ、はい。誰か! ちょっと来て!」
少女が振り返って声を張り上げる。人の上に立つのに慣れた口調だった。勝手口の辺りで人が動く気配がした。それを確認すらせずに少女はフォクツの方に向き直った。
「寝かせるところもありますし医術の心得のある者もいますので、我が家で休ませようと思います」
勝手口から使用人らしき銀狼の民の男が二人、小走りに出てくる。少女が事情を説明し終わるのを待って、フィルは背負っていた女性を男たちに引き渡した。
「では私たちはこれで。何かありましたら警邏の本部までご連絡ください。またメルさんから事情を伺いに参るかもしれません」
「はい。ありがとうございます」
挨拶をしたウィニフレッドにさらりと返事をして、少女たちは家の中へと入っていった。その背中が見えなくなってから、三人は歩き出した。飲み直すような雰囲気とはほど遠かった。
「ううん、参ったな」フォクツがぼやいた。「今のお屋敷は、ブリューゲル家だぞ」
「ブリューゲル?」
「ああ。当主は銀狼の民の族長でルサンの議長だよ。事実上この国のトップだ。はじまりの七家の一つでもある。族長はもういい歳のはずだが、息子は軍の最高幹部の一人。他にも親戚筋にお偉いさんがうようよいる名家中の名家だな。そうそう、学院長もブリューゲル家の傍系だ」
「……え? つまり、ルサンで一番偉い人の家?」
「そうなるな。面倒に巻き込まれなけりゃ良いが。とにかく、宿舎に戻ったら上司に今の一件をちゃんと報告しておけよ」
「はーい」
兄の忠告に、ウィニフレッドは不満そうに下唇をつきだした。
「それにしても」フィルは気になっていたことを切り出した。「なんであの人は倒れていたのかな? 気を失っていたのにお金も無事だったし、乱暴された風でもなかった」
「考えても無駄だ。情報が少なすぎる。まあ、メルって人の意識が戻れば、何か判るだろ」
三人はすぐに学院の前に到着した。フォクツがさっさと中に入る。
「ええと」フィルは迷ったが切り出した。「ウィニフ、送っていこうか?」
「え?」
ウィニフレッドは一瞬目を丸くしたが、すぐに明るく笑い出した。
「あはは! 心配してくれてるんだ。でも大丈夫。あたしだって、警邏の一人だもん」
「そうだけど……」
「それに、フィルは明日、学院の初日でしょ。早めに寝た方が良いよ!」
じゃあね、と元気よく言い放って、ウィニフレッドは小走りに駆けていった。
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