穢れなき獣の涙
河野 る宇
◆序章-流れ戦士-
*始まりの予兆
そこにあるはずの記憶──それを何度、思い起こしただろうか。それでも記憶は酷く曖昧で、黒くふちどられた影は私に己のなんたるかを語ってはくれない。
──青年は騎乗動物にまたがり、薄汚れた灰色のマントを風に遊ばせて眼前の草原を眺める。
その
青年がいるのは、四つの大陸の右下に位置するエナスケア大陸。ここは、人間とエルフが主に住んでいる大地である。
空を飛ぶモンスターも多く生息し、それを足代わりに他の大陸に向かう者も多い。
海に浮かぶ四つの大陸と大小の島々、そして空を浮遊する大地が織りなす世界──エテルシャス──魔法は人々の生活に深く根付き、武器を
多種多様な種族が存在し、その多くはモンスターの息づかいに恐怖を覚え、商人たちは旅団を組んで街から街に移動する。
錬金術師はこの世の
「シレア!」
男の声に振り返ると、斧を背中に装備しているガタイの良い青年が馬に乗って手を振っていた。
「エンドルフ」
「奇遇だな」
エンドルフと呼ばれた男はシレアの乗り物を
爬虫類に似た風貌に、青みがかった緑色をした鱗のない肌──カルクカンと呼ばれる生物だ。
顔つきは亀のようで前足は無い。しかしその強靱な後ろ足は大地をしっかりと掴み、走る速さは馬と同じかそれ以上である。
カルクカンには他に、赤や黄色や緑といった多様な色がある。ほとんどは野生のものを捕まえて飼い慣らすため、希少だと言える。
「近頃よ、どうにも変な空気を感じるんだが」
エンドルフは
「ああ。大気が妙だ」
鎧類は一切、身につけていないシレアも眉を寄せる。この、わずかな変化に気付いている者はほとんどいないだろう。
気のせいとも思えるほど、ごく小さなものだが心に重くのしかかるような感覚は、気のせいと言い切るにはどうにも気にかかる。
どこか、得体の知れない不安感とでも言うのか。とはいえ、そんな曖昧なものに執着しても仕方がない。
「お前はどこに行くんだ?」
旅の途中に再会した友に視線を送る。短くもない付き合いに、シレアの返答は予想がついていた。
「まだ決めていない」
エンドルフはそれに口の端を吊り上げ、短い赤茶けた髪をかき上げた。濃いグレーの目は細く、一重まぶたに似合わぬ豪快な口元。
エンドルフは戦斧を
細身のシレアと並ぶと、その体格差は二回りほどもある。流れ戦士と呼ぶには、シレアはいささか軽装過ぎるところもあった。
その腰には七十センチほどの剣が
落ち着いた様子で空を仰ぐシレアの瞳はしかし、何かを射抜くように鋭く輝いていた。
「まあ気をつけろよ」
エンドルフは軽く手を挙げ、旅を再開するため馬を進めた。青年も同じく手を挙げて応え、その後ろ姿を見送る。
「何が隠れているのか」
シレアはつぶやくと、しばらく草原と空を見渡しゆっくりと街に向かった。
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