芽生えた感情



「……アオイ。」


 まだ呼吸も整わない中で、キョウスケは色を含むかすれた声でアオイを呼ぶ。


 その目が何を言いたいのかは分からなかったが、アオイは無性に愛おしさだけがこみ上げてきた。


 気を失って突っ伏しているハヤトは、もはや目に入らない。


(あ。キス、したいかも……)


 ただただ視線を絡ませたままで、アオイはキョウスケとの距離を縮める。

 あと数ミリで唇が重なるというところで一瞬止まったが、すぐにゆっくりと目を閉じ相手の唇を感じた。


 キョウスケは驚くでも拒否するでもなく、ジッとアオイを見つめ唇を受け入れている。


 そっと触れるだけのキスのあと、キョウスケはゆっくりとアオイの首元に顔をうずめ、同時にぴりりと小さな痛みが走った。


「心配させるな……」


 かすれた声と肩口にあるキョウスケの額から伝わる熱。それはアオイの全身へとじんわり浸透していく。


 ハヤトが付けた赤い痕を無かったことにするように、上から新しい痕を付けたと気付くのはそれから少ししてからだった。



 ◇◆◇◆



 シャワーから流れる冷水がアオイの火照った身体を徐々に冷ましていく。


 目を閉じれば、先ほどのキョウスケの姿しか浮かんでこない。


 いつもは堅く閉じられている襟元を肌蹴させ僅かに息を乱しながら汗ばむ姿は、強烈な雄を感じさせながらも今まで見たどの女性よりも色気を纏っているような気がした。


「いくらなんでもマズいだろ……」


 男性で、しかも兄に欲情するなんて。

〝欲情〟で片付けられれば、それはそれで楽なのかもしれない。


 雰囲気にのまれただけと言い訳するにはあまりにもリアルすぎる兄への感情。絶対に認めてはいけない、絶対に気付かれてはいけない気持ちをアオイは持て余していた。




 リビングでは、キョウスケがひとり棚に手を伸ばしている。


 風呂上りのアオイはキョウスケと目が合い、髪を拭いていた手を思わず止めた。


「どうしたの、その顔!」


「……」


 キョウスケの口元には真新しいアザと僅かな血が滲んでいた。


 棚から救急箱を取り出そうとするキョウスケに駆け寄り、とっさに両手で顔を包み込み傷をまじまじと確認する。


 とたんにそうするべきではなかったと後悔した。


 目の前にある形のよい唇は、この唇に触れた時の感触を鮮明に思い出させた。

 どくんどくんと打つ鼓動の音が大きすぎてキョウスケに聞こえるのではないかと思い慌てて離れる。


「……俺が男になど興味があると思うのか」


 血の気が引いた。まさか芽生え始めた感情に早々に気付かれてしまったのか。


「お前のようなクズはなおさら虫唾むしずが走る、そう言ったら殴ってきた」


「え? あぁ、あいつに言ったわけね……」


 自分に対して言ったのではないことにホッと息を吐く。

〝男に興味がない〟という言葉にチクリと胸が痛んだのは気が付かないフリをした。


「でも何も無いのにそんなこと言わないでしょ。まさか、なんかされた?!」


「ヒナタに隠れて関係を持て、と」


「ッ! あいつ1回コロス!」


「二度と顔を見たくないと思わせるくらいには仕返したから大丈夫だ」


 いつもの無表情でさらっとそんなことを言われ、溢れ出しそうだった怒りがスッと引いて逆に無性に笑えてきた。


「ぷっ! 兄貴、昔からやられたら10倍くらいやり返してたもんな。超強いし。さすが格好いいよ」


「当たり前だ」


 ニヤリと笑ったキョウスケがあまりに綺麗に見えてアオイは一瞬目を奪われるが、すぐに「そうだな」と穏やかに笑い返す。


「あのさ、兄貴さっきの……」


「ん?」


「ううん、やっぱいいや」


 さっきのキョウスケは、きっとその場の雰囲気でキスを受け入れたのだと思う。


 アオイは、今の関係を絶対に崩したくない。

 もしこの気持ちがバレれば、きっとこの兄は自分の前では一生笑わなくなる、そんな気がしてならなかった。


 温度の無い視線を向けられながら側にいるなんて耐えられないだろう。

 それだったら大切な妹を守っていく同志でいよう。



 アオイは、そう決心した。


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