第14話 父親


「――お前、今なんて言った?」


 その声にビクリと肩が震えた。

 自分だけだと思っていた空間に反響した声。


 驚きで息を詰まらせ、強張った身体で、しかしそれを悟られないようゆっくりと振り返る。


「……べ、つに、なにも」


 入り口に、男がいた。

 僕は扉の開閉の音にも男の気配にも気づかなかったらしい。


 カラカラに乾いた喉が男の前で平常心であろうとする僕の努力の邪魔をする。


「ふーん、まあどうでもいいけど」


 興味なさげに言い捨て、こちらへと歩いて来る男に内心ほっとする。

 どうやら僕の独り言は、男には聞こえていなかったようだ。


 落ち着きを取り戻すためにこっそり深呼吸をして、筋肉と神経を弛緩させることに努める。

 こんなイカれ野郎に余計なことを知られてたまるもんかと心の中で悪態をついた。


 しかしそうやって平静を保とうとしながらも、一方でどうしても意識は一体の死体へと向かってしまう。

 ぐらぐらと視界が揺れていた。


――10年。


 屍となったそいつが、僕と妹を置いて失踪したあの日から流れた歳月だ。


 あの日、あの雪の日。

 あの10年前と変わらぬ姿が、今目の前に。


 悲しみはない。

 寂しさもない。

 愛しさもない。


 慟哭も絶望も追慕もない。

 かといって、喜びもない。


 ただ、なぜ今更こいつが僕の目の前に現れなければならないのかという戸惑いと。

 そもそもなぜこの男のもとに死体が収集されることになったのかという疑問と。


 そして、僕がこいつを殺してやりたかったのにという憎しみにも似た感情が。

 胸の中を渦巻いているだけだった。


 だから、せめてどういう経緯でこの死体が男の芸術に収まることになったのか、それとなく男に聞いてみようとした――ちょうどそのとき。


「で? お前の父親がなんだって?」


 僕の目の前にたどり着いた男が、まるで玩具を見つけた子どものような嬉々とした表情で僕を見下ろしていた。


「…………」


 聞こえてたんかい。


「おうおうなんだよその非難がましい目はよお」


 文句を垂れながら、その顔はどこまでも嫌らしく笑っている。


「……べつに」

「あーはいはいはいはい、なるほどなるほど。もしかしてこれ、お前の父親ってわけ? これぞまさしく感動の再会ってか!? くーっ! 泣かせるぜ!」


 何も言わない僕をさておき、一人で盛り上がっていく男。

 そんな男に僕はただ冷たい視線を送るだけだ。


「あー無視? 無視ですか? つまんねえやつだなあ」


 やれやれと大仰に首を振る男。

 しかし実際はそんな僕を気にとめる様子もなく、流れるように口を開く。


「まあいいや、俺は優しい大人だからな。お前のパパの最期のお話、してやるよ。

 つまり俺の芸術が初めて生まれた話、な」


 高くつくぜ? と男は爛爛とした目で舌なめずりをする。

 そのぬらぬらとした黒眼に映る景色から、僕は無意識に目を逸らした。





「こいつのことは、よーく覚えてんだ」


 死体の横たわるガラスケースに触れながら男が記憶をたどる。


「お前、こいつに虐待されてたんだろ? お前らを置いて逃げた母親に顔が似てるとかなんとかで」


 僕は何も言わない。


「そういえば妹もいるんだっけなあ? そっちにはまだ手は出してないみたいなことを言ってたけど」


 ここで男が何を思い出したのか鼻で笑う。


「いろいろと鬱憤がたまってたみたいで、ベラベラとお家事情を話してくれたぜ。ま、お口が開きっぱなしで酒臭いことこの上なかったがな」


 なにが鬱憤だ。

 いつも息子である僕を使って発散していたくせに。


「いやーほんと、生きてるときのこいつはとんだ最低野郎だったなあ。

 ハッ! 今は俺のおかげでこーんなに美しい芸術になれちゃって。

 ……やっぱ人間、死んでみないとなあ」


 男がガラスケース越しに、露わとなった胴体を慈しむように撫でていく。


「だから殺して、俺の初めての作品になってもらった。こいつなら突然姿を消したところで探し回ってくれる奴なんていないだろうと思ったからな。

 それにどうやら、その判断は正しかったみたいだしなあ?」


 確かにあの日、酒をあおりながら息子に当たり散らして家を出ていったあいつを、僕も妹も追いかけはしなかった。

 それこそいつも通り。

 ふらっと出かけてはふらっと帰って来て、子ども二人が死なない程度の食べ物と暴言暴力を置いていく父親。


――そんな奴がある日を境に家へ帰って来なくなったとして、誰がその帰りを待ちわびるだろう?


 その後残された僕と妹を引き取った父方の祖母も、その祖母が亡くなった後に僕らの保護者となった叔父も、誰もあいつを探そうとはしなかった。


「てことはなんだ、俺はお前の恩人ってわけか? ハッ! 最高じゃねーか!」


 男が力任せに僕の両肩を鷲掴み、まるで幼い子どもと目線を合わせるように身をかがめる。


 この男の目が見てきたこと――人殺しの記憶を、僕は求めていたはずなのに。


「俺らがこうして出会ったのも運命ってわけか!」


 そう言って僕の父親をどうやって殺したのか、そのとき父親がどんな表情でどんな声を発したのか、そして父親をどれくらいの時間をかけて死に至らしめどうやって作品に仕立てたのか、それらを嬉々として話す男の目に。


 僕はどうしようもなく吐き気がした。

 

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