第32話 疾雷耳を掩うに及ばず

 俺はさ、何が出来る?


 いったい、何が出来ている?

 

 ずっと、答えが見つけられないままだよ。

 

 あの日から何も変わっちゃいない。目を逸らすばかりだ。共に前に進むことは愚か。ナニも見えちゃいない。報われないんじゃない、報われようともしないのさ。


 なにひとつ、変わっちゃいない。

 手を差し伸べるだけで、精一杯なんだな?

 俺もそうだよ。

 

 限られた水で生きることを許される花が咲くリビングルーム。眩しい光が射し込む。あの頃の俺がずっとこっちを見てやがる。灰色の靄が水に溶ける色水のように目の前にかかっていくよ。

「おまえは何も出来やしねえ」って冷めた目で言いやがる。


 無力な俺は格好悪いって事だろ?


 言われなくても分かってるよ。


 そんな事くらいはさ。



 *****



「水から……上がれるのか?」

 

 何も言わず俺を見下ろすユーリーは、俺の言葉に口角を上げる。じっとりと濡れた瞳は俺の目を捉えて身体は微動にしない。金縛りの時のように指先さえも動かなくなる。やはりコイツは人にはない何かを持ってるんだな。まったく、背筋に厭なモノを背負っている気分になるよ。


「人魚姫のお嬢さん! 二、三、聞きたい事があるんだ…… 声が出ないんだろ? だったら首で頷くだけでいい。教えてほしい」

 ユーリーは、その言葉にゆっくりと頷き、水槽に両腕を掛け、それに身を任せるように揺蕩う水面に横たわる。鱗がなんとも表現し辛い色をし、水に揺れると見る箇所によってその表情を幾つも変える。シャンパンゴールドの尾鰭も時折、様々な色を取り込んでいき、闇までを吸い込んでいく。間接照明に黒いロッキングチェアが、背後に迫る怖さを引き立てる。誰も使わない埃の溜まった部屋のはずが、とても綺麗に清掃され、数冊しかない本棚に小さなクリスタルの林檎がひとつ置かれていた。この間はこんな物はなかったはず。ニアがユーリーの為に選び、無垢な笑顔を向けプレゼントしたのだろうか。あいつは人の為に贈り物を選んだりするのが得意だ。日ごろは、小憎たらしいガキのようだが、やはり、そこは大人の男だと思うよ。気遣いも、周囲の空気を纏うのも、俺はあいつには全く適わなかったよ。足元にも及ばないってヤツだな。


 マーメイドが航海中の船乗りの男を次から次へと海に引きずり込み、海深くで生涯愛するという。もうひとつ加えれば、美しく可憐な女と自分を裏切った男は、有無を言わさず喰らうと聞いたことある。そんな噂を父さんが車で話していたことを思い出す。あの頃の俺は、お伽噺の住人に会える日が来るとは流石に思わなかっただろうよ。


「人魚姫のお嬢さんじゃないわ! ユーリーってナマエが私にはあるの!」

 

 マーメイドは陸に恋をすると声をなくすと聞いたことがある。図書館にあった絵本の中でもマーメイドは人と仲良くする為に、悪い魔女のようなヤツに声と引き換えに脚をもらうが、美しい歌声も泣き声すらも取られたと書かれていたはずだ。まあ、本来ならば架空のイキモノだからなんとも言えない。間違いが合っても仕方がないだろう。それから子供の頃の俺の記憶なんてアテにもならない。


「……驚いた! 喋れんのかよ!」

「おかしな事を言わないでほしいわ、勝手に喋らないって、そっちが思い込んでいたのでしょ?」

「……そうだな、それよりもニアが連れ去られたんだ…… って、もう知ってるんだろ?」

「そう、やっぱりニアが連れて行かれちゃったのね…… 私はすべてが分かるわけじゃないもの。それで、貴方は何が知りたいの?」

「ああ…… 知ってることを、今、君が分かることを全て教えてほしい!」

「人に全てを教えてあげるわけにはいかないの…… ただし、幾つかのヒントならあげるわ!」

「それでも、ありがたいよ…… 頼む………」

「ニアがいるのはそんなに遠くじゃないわ。身近を探すの。ニアはひとりじゃない。もうひとり、誰か居る…… 小さな原石。今の私に見えるのはそれだけ。それに……そんなに時間がないわ…… お願い、急いで」

 

 その言葉を伝えると、小石が水に沈んでいくように水槽の底で眠りに落ちる。ユーリーの髪は燃えさかる炎が揺らめき耀くかのように見えた。そして、ゆっくりと瞼を閉じ深い眠りに落ちていく。数枚の鱗がゆっくりと木の葉を沈めるように水中を踊る。そうして、水槽の水に泡となり溶けていく。子供の頃に読んだ物語を垣間見ているようだ。美しさと儚さが重なる。


「ありがとう…… 助かったよ、ユーリー……」

 ニールはパーテーションを元の位置に立て掛けていき、水槽を覆い隠す。部屋を閉め、明かりを消し扉を確認すると、ニアの部屋が少し開いていたことに気がつく。


 あの時の報酬の大きなテディベア。移動遊園地で買った、伸びきったカラフルなスリンキーが無造作に窓際の棚に飾ってある。

 ニールは丁寧にラッピングされた箱を自室から持ってくると、そのテディベアに抱かせ、扉を静かに閉める。

 

 テーブルの上にカバンを用意し、様々な道具を確認し、ニールは皮の袋から枯れた枝を数十本出す。その枝を寄せ集め、皮の紐でキツく絞めていく。それを幾つか部屋の角に飾る。鞣された皮に塩と蝋でサークルを描き、数滴の聖水を指先で伸ばし馴染ませていく。何かを呟き目を閉じるとカーペットを捲り忍ばせ、もう一度、銀の小瓶から聖水を振りまいた。準備は整いニールは強く頷きジャケットに袖を通す。


「ニール…… 何をしているの? これは……ナナカマドの十字架?」

 壁に吊るされた手作りの小枝の十字架を指で揺らし、シモンは窓の外、遠くを見つめる。


「そう、ナナカマドの十字架だ! シモンよく調べたな! 此処はお前に任せるぞ?」

「任せるってどういうことなの? ニール!」

「言葉のまんまだよ!」

「また、ひとりで無茶をするつもりなんだね?」

 今のニールの笑顔は、あの時のカッコイイ兄貴だ。橋の前で泣きじゃくって困った僕を宥める、あの時の目。もう何を言っても覚悟を決めてるんだね。止める理由は僕にはないよ。


「雷電木…… バラ科のナナカマド属。花言葉は、慎重。賢明。そして、私はあなたを見守る。もう決めてしまったのですね。貴方は誰が何を言ったところで聞かないのでしょう? 私も着いていきましょう。いえ、行かせてください」

「オッサン! 足でまといなら間に合ってるぜ?」

「貴方には、まだまだ負けるつもりはありませんよ? オッサンも捨てたもんじゃないんです」

「あはははは! その言葉、肝に銘じておくよ!」

 黒いスーツに身を纏ったウィリアムは、凛とした中に強さを兼ね備え、心強かったことは言うまでもない。冗談をいう空気じゃなくても、いつもと違うニールを見て「似合わないよ?」って、あいつなら、ニアならきっとそうやって笑うんだろう?


「ガブリエル……」

「……はい」

「ここに残った奴らに何かあったら俺は承知しないからな? 死ぬ気で守れよ!」

「ニール様、了解しました」

 ウィリアムの隣で姿勢よく立つガブリエルは何かを言いたそうな素振りをする。ガブリエルをきつく睨みつけるニールの目にはさっきまでの不安は消え去り、強さと優しさの色に変わった目だった。ガブリエルのその言葉を聞いて、ニールは黙って頬を緩め目を細めた。


「ニール……」

「ティノ…… もう眼覚めたのか? もうちょい寝てくれてた方がよかったな?」

 扉の横に力なく立ちティノの声がニールの背に響く。ニールはその声に眉根を下げ笑う。振り向く先のティノが今にも泣き出しそうに伏し目がちに、ニールを見る。


「ニール…… もう行っちゃうの?」

「善は急げ! だよ」

 眉を下げたまま優しい色を目に灯し、ティノのまだ赤く腫れる頬を撫で、ニールは微笑む。


「バカっ! そんな目で笑わないでよ。まるで、もう此処には戻って来ないみたいじゃない!」

「悪かったな、不器用なんだよ。おまえと一緒で、俺も! ニアを連れて帰ってきたら、ちょっとくらいは褒めてくれよ?」

 そう言うと背を向けるニールに重く、そしてぶつかる衝撃を受ける。腰に白くしなやかな腕が回り、甘い香りが鼻腔に届く。


「ぜったい…… ぜったいだからね? ちゃんと帰ってきてよ! そうじゃなきゃ、許さないんだから…… ね?」

「はいはい! お嬢様は我儘で泣き虫だから、俺が居ないと馬鹿にしてぶつかる相手が居なくなるからな!」

 片腕でティノの腕を強くにぎり、振り向かずに事務所の扉を開けて部屋の空気を外に逃がす。風は外に吸い込まれて扉を閉めると耳がやけに痛かった。


「……約束。したんだからね?」

 涙が静かに飴色の濃い床に滴り落ち、染み込んでいく。両腕で顔を擦りながら、いつまでも扉を見つめるティノにロングカーディガンをそっと肩にかけて、シモンが優しく微笑み隣に立ち同じく扉を見つめた。



 *****



「はああああ~ なああああ〜 せえええええ! ボクにいいい~ 気安くううう~ 触れるなあああああ!」

 数人の白衣の男達に押さえ付けられ、ニアが大声で吠え、騒ぎ立てる。足と腕を振り回し、手当り次第にあちこちを力の限り、殴る蹴るを繰り返す。暴れた勢いで男達の手からこぼれ落ちるニアがコルトレーンの姿を確認すると鋭く睨みつける。


「相変わらず威勢の良い患者さんですね。貴方はもう売り物ではないのですよ? 貴方は大事な扉を開ける鍵です。」

「患者? 鍵? はあ~? エセ医師のコルトレーンさん…… その黒いローブ趣味悪いよ! ザ! 悪役! ってアレなの? そういうの流行ってるの? 傷を隠すためにフードまで被っちゃってさ! その瞼の痣はダレが付けたんだっけええ?」

「……この醜い顔にも今はしっくりときているのですよ? ぶり返すような痛みや疼きは毎夜感じています。感謝しないとですね?」

「んぐうう…… 離せえええ!」

 コルトレーンは片腕をニアに覆い被せるように振り上げ、首根っこを指先だけで絞め軽々と持ち上げていく。時折、漏れるニアの呻き声と凄まじい紅い目の色が溢れる。


「美しい神の子、そしてイブの子。通称ミッドナイト・イヴ…… 本当の名は『ミッドナイト・スノー・イヴ』最後の生き残り…… 私は貴方を手放すつもりは毛頭ない!」

「……なんだ? もう全部バレちゃってるんだ…… 本当に面倒だな…… 言っとくけどね…… 無駄だから! 思い通りになんていかないから!」

「どこまで頑張れるかも、見物です!」

 

 いやらしく恍惚の表情を浮かべ、フードを片手でゆっくりと外すその顔は、人の形の異形の子の成れの果て。誰にも愛されず鬼のように生きてきた日陰の存在。ニアの身体は徐々に冷たく血の気が引いていくのが分かる。逆らっちゃ駄目だと、耳が痛くなる程に空気が張り詰めるのが伝わってくるのだ。でも、逃げられない。逃げられる気がしないのだ。恐怖と興味の依存。左瞼から目尻までを走るように出来た深い傷は赤黒く引き攣った笑顔をつくる。

 

 床に叩き落とされたニアは、コルトレーンを見上げ苦虫を奥歯で噛むと、片目を押さえた。ニアの指の隙間から暖かな体液が溢れる。ニアはそれを無視して踞るしか出来なかった。

 

 ニアを見下ろし、笑う事も怒る事もせずにただ黙っているコルトレーンの影から溢れる大量の蜻蛉を羽ばたかせる。恐怖を味わうには十分な程に。

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