第2話 不慣れな笑顔の天使

 ―――――遡ること、数十年前


「いたいよ〜 いたいよ〜 ママ〜 いたいよ〜」

 

 マーケットの駐輪場で派手に転んだ僕は、わざとらしく大声で泣く。


 そして、その隣で何も言わずにロリポップキャンディを二本握り、しかめっ面で空を見上げるニールがいた。

 

 

 ここは、赤い大きな橋がある小さな町。ウインセンター。貧民街と高級街の境目の町。工場が建ち並ぶ田舎町は平和そのもので、退屈な日々だった。 犯罪もなければ、娯楽もなく刺激もない。へんぴな田舎町。小さな子供だった僕たちの楽しみといえば、大きな橋を見に行くことくらいだった。

 

 僕とニールは、腹違いの兄弟だ。ニールは前妻の子。そして僕は、再婚相手の子だ。 父は単身赴任で、全くと言ってもいいほど家に帰ってこない人。 母さん曰く、「お父さんはとても忙しいの。会社の偉い人なのよ」なんだそうだ。それでも僕は、健気に父をずっと待っていたんだ。僕の中での父の記憶は薄く、写真立ての中の笑顔でしか思い出せない程だった。

 あとは、少しだけ渋味のある、甘ったるい煙草の匂い。それと、筋張った大きな手。僕の全ての記憶はそれくらいだった。


「ママぁ~」

 僕は鼻をすすり上げて、ちらりとニールを見た。だけども、ニールは相変わらず空を見上げたままだ。何も言わずに僕の隣にいるだけだった。

 先に痺れを切らすのはいつも僕で、ニールのシャツの裾をグッと掴んで引っ張る。すると、ニールはいつもこう言うんだ。


「もう平気か? シモン、キャンディどっちの味がいい?」

 そして、ニールは優しく柔らかく笑う。


 涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔で僕はこう答えるんだ。


「……グレイプ」

 

 ニールはキャンディを僕に手渡し、余ったキャンディのオレンジ色の包みを剥がすと口に頬張った。

 このやり取りは、僕が泣き出すと必ずだった。今考えると、とても照れくさいエピソードだった。


 ニールは多くを語らない。

 とてもカッコイイ兄だった。



 ――そう、過去形だ。

 

 それから月日は流れ、僕の大学受験の前日の夜にニールは突然、姿を消した。

 

 無駄に広く感じる家に、僕と母さんの二人きりになってしまった。


 そして、次にニールが帰ってきた時には、カッコイイ兄はいなかった。見た目はだらしなく、無愛想で寡黙な男に成り下がっていた。

 そのくせ、僕を子供扱いし、口うるさいオヤジのように接してくるのが嫌で嫌で仕方がなかった。


 ―――――数ヶ月前

 

 僕は大学院の研究所に泊まり込みで何日も家を空ける。研究に没頭していた僕は、母さんと久しぶりに家で一緒に食事をする約束をした。

 三日後の誕生日も兼ね、母さんの好きな真っ白な大きなユリの花束を抱え、家路を急いだ。

 帰る途中、母さんから連絡が入る。「ワインを買ってきて欲しい」と頼まれ、僕は近所の店に車を停めた。

 

 店の外の公衆電話で、ニールが真剣な面持ちで話をしていたのを僕が偶然見かける。ニールは僕に気が付き、少し驚いた顔で電話を急いで切り駆け寄って来た。焦った僕は、咄嗟に母さんの誕生日の祝いだと伝えると、ニールは苦笑いで承諾し、一緒に食事をする事になった。

 赤ワインとロゼを一本ずつ買うと、いつになく、ぎこちない言葉が続く。ニールは頷く素振りだけで、きっと僕の話は、うわの空だったと思う。

 家に着くまでの間、僕のワンマン・ショーが繰り広げられるだけの退屈なものとなった。

 ガレージに車を入れ、荷物を抱え呼び鈴を鳴らすが反応が無い。もう一度と鳴らそうとする僕に「料理で、きっと手が離せないんだろう」と、ニールが代わりに鍵を開けた。

 ふたりで、リビングに入るとソファーに座る母さんが見え、テーブルにはワイングラスとテーブルセットが三つずつ用意されていた。

 それを見たニールは少し照れくさそうに、「ああ、こんな所でうたた寝して、風邪引くよ」

 そう声を掛けて肩を揺さぶる。母さんの頭が項垂れるようにガクンと揺れ、ボールのように転がった。


 僕は、それを咄嗟に僕は受け止める形となった。ニールは僕の顔を見るなり大声で

「シモン離せ! それを触るな!」

 と、僕の名を久しぶりに呼んだ瞬間だった。


 呼び鈴が叫び泣くようにリビングに響き渡る。ニールは、すぐにその呼び鈴に反応した。

 僕はベッタリと両手に付いた母さんの真っ赤な血液と体液を見て、声にならずに呆然とするしかなかった。しばらくすると足元で鈍い低い音が鳴る。その音に下を見ると、さっきまで母さんだったモノの頭部が眠るような顔で上を向いて転がっていた。力なく持っていたせいで僕の手のひらから転がり落ちたのだ。

 床に広がる血色のいいモノは、さっきまで生きていたと頷ける程にまだ生々しさを醸し出し、ツンとした鉄の匂いと、どこか生温い水の匂いを部屋に撒き散らす。

 その間にも、呼び鈴は無情にも鳴り続け、ニールは苦虫を奥歯で噛み砕く表情で、一度舌打ちをした。わざとらしく大きな足音を鳴らすかのようにリビングから出ていってしまった。

 僕は勢いよく閉まる玄関の扉の音に、ビクッと身体を揺らした。縮こまるように首を竦め壁を背に立ち尽くしか僕には出来なかった。母さんだったモノの身体は、ソファーにゆったりと全身を預け、今にも体勢を変え動きそうに目に映る。

 

 すると、リビングに向かって足音が近づいてきた。それはひとつではなく、ふたつだった。僕の隣で、その音が止まり「シモン」と、声がする。僕はゆっくりと声の方向に顔を起こした。

 僕の目には、あの写真立ての影が陽炎のように揺れる。意識していない大粒の涙が零れ落ち、床に染み込み、次第に真新しいシミを作っていく。ずっと我慢していた何かが崩れ、その場に腰から落ちた僕を両手で受け止め、しっかりと腕を掴むニールに、僕はとうとう大声を上げる。うまく声にならないそれは、いつしか叫び声に変わっていた。何も言わずに、ニールは僕の肩に顔を起き、僕の背中を数回優しく叩く。


「シモン、よく聞け。父さんは一度しか言わない」

 父の低く落ち着いた声は、僕に向けられ淡々と続けられる。

「母さんは 『ヤツラ』に殺られた。今回、お前達ふたりを狙うつもりだったんだろうな」

 今回、その言葉の意味が解らなかった。僕は必死で動こうとするが、脚は鉛の鎖が絡まったように動かない。

「シモン、お前達兄弟は天使と人間のハーフだ。羽根を折られ堕ちてきた、アメリアの子だ」


 その言葉に父さんとニールを交互に見た。

「こんな時にどういう冗談?」

 僕は半笑いの皮肉った声で父さんに言葉をぶつけた。


「何年も家をあけて帰ってきたと思ったら、久しぶりに会った息子に天使? 母さんが誰かに殺されたっていうのに。父さんはいったい何を言っているの?」

 と、思い出した様に床とソファーを見るが、そこにあったはずの母さんだったモノが首の取れた真っ黒な人形にすり変わっていて僕は言葉を止めた。

 

 目を大きく見開き驚く僕の肩に手を掛け、

「さっきのアレは、『トリック・ドール』だ。『まじない』の仕込んだ人形だ。オマエを守るように俺が用意したが期限切れか、それを超えるほどのヤツラが来たかだな」

 父さんは、とても強い口調で話をする。


「ニール、シモン。お前達兄弟は俺の愛したアメリアの正真正銘の息子だ。それは嘘じゃない」

 父さんはワインをグラスに注ぎ、芳香を楽しむ。次にそれを一気に飲み干した。アルコールが入ったことで少し落ち着いたのか父さんは、ゆっくりと大きなため息をついた。

 

 部屋には、ふんわりと甘く、そして少しだけ渋味あるあの香りがして、僕の鼻をくすぐった。

 

 やっと口を開くニールが「シモン、ずっと黙っててごめん。実は今夜は久しぶりの集まりの予定だったんだ。それがこんなカタチになるなんてな」 そう言ってから僕の顔を下からのぞき込む。


「もう平気か?」

 あの時の面影で、あの時の優しい口調で続けて、「ロゼと赤どっちがいい?」と笑った。

 

 真っ赤な目をした僕は、「グレイプ」と照れ臭そうに、ニールを見る。


「んなもん、ねえよ……」

 ワインを僕に差し出し、自分はもうひとつのグラスのワインを一気に喉に流し込んだ。


 


 あの やり取りで。

 


 ―――そして物語は、ここから始まる。












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