第5幕 祈りと邂逅


 ―サン・セヴラン教会―


 日曜日の朝、家の近くにあるサン・セヴラン教会へ赴いた。

 サン・ジャック通りに面している自宅から徒歩約一〇分の距離にある、実にこじんまりとした教会である。


 自宅のアパルトマンの正面扉は樫でできており、かなり重い。

 しかし、わたしの心の重さの方が勝っているだろう。だって、もうあのパサージュにビスクドールの彼はいないのだから。



 教会でミサが始まり、聖歌をうたう。

 二列前で歌っているエリゼの歌声があまりにも美しくて、周囲の人びとはエリゼの独唱を願っているかのように口をパクパクと動かしていることに気がついた。エリゼの右隣りにいる男性も、鼻の下を伸ばして熱心にエリゼを凝視している。



 エリゼは、わたしと違ってなんでも持っている。

 整った容姿、素晴らしい歌声と歌唱力、貴族と並んでも引けをとらない気品、挙げればきりがない。


 わたしと血の繋がる双子の妹なのに、わたしには優れたところが一つもないだなんて。祭壇で聖パンを拝受していると、老神父がわたしに気づき、少し首をかしげながら「はて……」と呟いたのを聞き逃さなかった。


 席に戻り、お布施のカゴが回ってきたのでチャリンと一フランだけ入れる。カゴの中を見ると、五フラン、一〇フラン硬貨が多くて、羞恥心が募って隣の人にすぐさまカゴを手渡した。


 ミサが終わり、出口へ向かう人びととは反対に祭壇へ近づいた。

 厳かな雰囲気に包まれた教会内に、雰囲気を和らげるかのようにステンドグラス越しから柔らかい朝陽が差し込んでいる。

 祭壇の左側には大きなロウソクが一本あり、弱々しい火が息づいている。その隣には、老神父がこちらに背を向けて佇んでいた。


「神父様、あの…先程は、その――」


 腹の底から出したはずの声が、想像以上にか細い声で落胆する。

 老神父はゆっくりとこちらへ顔を向けた。切れ長の目がわたしを一瞬だけ視界に捉え、すぐさま逸らされた。

 失礼なことをしてしまっただろうか。

 そういえば、先程お布施を1フランしか入れなかったことが知られてしまったのだろうか。

否、真面目に聖歌をうたっていなかったことだろうか。

再思三考していると、老神父は重い口をやっと開いた。


「バレ家の長女、アリシア・バレ殿じゃの。ふぅむ……」

「は、はい。そうですが、あの……?」

「おっと、失敬。なにか用でも?」


 薄汚れたエプロンの前で指を交差させながら、老神父の首元を見つめる。


「先程、聖パンを拝受した際になにかおっしゃいましたがどうなさったのですか?」


 老神父の喉仏が上下する。

 張り詰めた空気に思わず身震いしてしまいそうになった。

白い吐息が、差し込む朝陽に溶けていく様子を目で追いつつ老神父の返答を待った。


「――いや、神父がミサ中に他所事を考えるなど言語道断じゃが、少々考え事をしててのぉ。ちょうどその時に、アリシア殿がおっただけじゃよ」

「そう、ですか」

「ああ。じゃが――ひとつだけ忠告がある」


 老神父の後ろに置いてあったロウソクの火が前触れもなくふっと消える。

 老神父の顔は、先程とは打って変わってまるで生気を失ったように錯覚した。


「もうじき、復活祭がおとずれる。春分の日の後にくる、最初の満月の次の日曜日じゃ。イエス・キリストの復活を祝うのは人間じゃが、それを好ましく思わん連中もいる。分かるかの?」

「……?」

「ふむ、その様子からすればわからんようじゃの。要するに、パリ中に人間以外のものが暴れだすじゃろうから気をつけなさい。特に、アリシア殿のようなものを連中は好むからのぉ」


 人間以外のもの? 連中? 

 老神父は一体なにを言いたいのか、この時のわたしにはさっぱりわからなかった。



 ―サン=セヴラン通り―


 サン・セヴラン教会から出て、サン=セヴラン通りを歩いていると、数メートル先に見覚えのある人物がこちらへ向かって歩いてくることに気がつく。


 目を凝らして見るに、やはり間違いない。あの骨董屋でビスクドールの彼を買っていった金持ちのお嬢様であった。

 栗色のウェーブのかかった髪がそよ風で美しく靡いている。後ろにいるおつきの人も、あの時ビスクドールを抱えていた人に違いない。

 この通りの先にある、異国情緒ただようサン・ジュリアン・ル・ポーヴル教会からの帰りとみた。あそこの教会はパリで大きな店を経営している富裕層や異国の信者が多いときく。


 なんという偶然か、通りを挟んで隣の教会に彼女がミサに来ていたと誰が予想しただろう。予想外の邂逅(かいこう)に心臓が暴れだす。

 歯がガチガチと震え出す。彼女とすれ違う際、声を振り絞った。ボンジュールと小声で言うと、彼女は一点の曇りもない目をきょとんと丸くさせ、「あ、あの時の!」と大きな声を出した。


「貴方、骨董屋にいた子ね! もう、顔色が悪かったから心配していたのよ?」


 すごい剣幕で話しかけられ、気圧(けお)される。どうやら喜怒哀楽の激しいお嬢様のようだ。ひしっと両手を優しく包み込まれ、たじろぎながら謝罪の言葉を口にした。


「あ、えと、すみませんでした。あの、実は骨董屋で貴方が買われたドールについて――」

「あら、あれは売ったわよ」

「うっ……た?」


 しれっと売ったと言い放った彼女に、目を白黒させた。

 売った? うそでしょう?


「なぜ、ですか?」

「なぜって――あのドール、右のドールアイがなかったでしょ? ドールアイさえあれば完璧なのにって思いながら見ていたら、すぐに飽きちゃった」


 悪びれもせず端然と笑顔で言う彼女に、ふつふつと得体のしれないなにかがこみ上げた。


「あ、あの、どこへ売ったのでしょうか!」


 彼女に負けないほど大きな声で問うと、彼女は手をパッと離して驚愕していた。ミサ帰りの人たちが集ってコソコソと様子をうかがっている。


「ど、どこって? そりゃあ、あの骨董屋に決まってるじゃない。でも貴方、買い直すならやめたほうが――」


 「あの骨董屋」と聞いた途端に、足は勝手にあの骨董屋へ向かっていた。なぜかわからないが、無性に彼に会わないといけない気がしたのだ。

 後ろで彼女が呼び止める声が聞こえたが、走る速度は落とさず一心不乱に走り続けた。

 もしかしたら、またあのドールと出会えるかもしれない!

わたしは運命なんて信じていないけど、この時ばかりは運命の共時性を感じざるを得なかった。


「あの子、よりによっていわくつきのドールに心を奪われるなんてねぇ」

「全くですなぁ。ベルお嬢様がせっかく注意をされたというのに」

「それにしてもジョルジュ。さっきの彼女の声、すごく張りのある魅力的な声だったわねぇ。ふふっ、あんな音のオルゴールがあればいいのに」


 ジョルシュと呼ばれたおつきの人は肩をすくめた。

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