(2)
紳士は早々に去っていった。
どうやら商談があったらしい。穏やかな雰囲気だったが、内心気が急いていたそうだ。
「早速で悪いんだけど、荷物は一旦裏の倉庫に置いて、手伝ってくれるかい? さっさと仕事を覚えた方が気持ちも楽だろう」
「は、はい!」
「そんなにかしこまらなくていいさ。肩肘張るのは嫌いでね」
店主がけたけたと笑うから、私は途端に恥ずかしくなった。
言われたとおり倉庫に荷物を置き、ついでにダメージデニムとTシャツに着替えた。
しばらく髪を切っていなかったので腰まで伸びてしまった髪の毛を、貰った飾りで留める。
「普段使いには派手だろうに。使っててくれたのかい」
気付いてもらえるだろうかと内心期待していたけれど、いざ言及されると気恥ずかしくなって、自然と照れ隠しの笑みが漏れた。
作業は想像していたよりもずっと多かった。
店頭に並んでいる多くはよそから仕入れているのだが、一部は自分で育てている。
店の裏口から店主の持ち家に続いていて、そこでハーブ類を栽培している。
それらの肥料を運ぶ作業が恐らく一番の重労働で、情けない話だけれど、明日の朝には腰が痛くて立てなくなっているかもしれないと思うくらいには過酷だった。
それとは打って変わって、店頭に並ぶ花々の管理は緻密で、今度は逆に身体ではなく頭が茹だってしまいそうだ。
重労働と管理作業に追われつつ、調理用のハーブを買いに来た客の相手をした。
笑顔がぎこちないと少し手厳しく叱責され、気が重くなったが、そんなことでくよくよする暇もない。
日が暮れて、営業時間が終了する頃には、纏めた髪の毛まで濡れるほど汗をかいていた。
「お疲れ様」
片付けを終えて椅子に座り込んでいると、店主がお茶を差し出してきた。
冷えた麦茶が飲みたかったけれど、とにかく喉が渇いて仕方がない。
湯気立つお茶を一息に飲み干すと、爽やかな香りが鼻を抜けた。
今まで飲んだことのない不思議な味のお茶だ。
しかしどこかで味わったことがあるような、妙な雑味もある。
それがなんだったか思い出せずに考えこんでいると、店主は空になった湯飲みに同じお茶を注いだ。
「うちのハーブを煎じた茶だよ。疲れが取れる。それと、鼻詰まりもよくなるな。ナナちゃんは鼻炎なんか持ってるかい?」
「いえ……」
呼ばれ慣れていないあだ名の気恥ずかしさから逃げるように茶を啜る。
美味しいかと言われるとそうでもないのだが、なぜか後を引く味だ。
「普通なら飲めたもんじゃないんだが、身体には良いからね。どうにかして飲めるようにと色々試行錯誤したものさ」
自分は飲まないのか、と勧めると、店主は「売り物だからね」といたずらっぽい笑みを浮かべた。
「メシにしよう。今日は皆出払ってるから寂しい夕飯だけど、明日には他の従業員も紹介出来るよ」
▼
夕飯はシチューだった。
支度を手伝うと申し出たけれど、店主は座っててくれと言って聞かなかった。
あまりしちくどくするのも、好意を無碍にしてしまうような気がしたので、大人しく従った。
美味しくも不味くもなかった。
しかし、自分で言う話ではないが、過度の偏食家である私は好みの食べ物以外は本当に受け付けず、二口ほど手をつけただけで食欲は失せていた。
久しぶりに銭湯以外の風呂にも入った。
住宅と店舗が分かれているにもかかわらず、不思議なことに風呂は店内にあった。
浴槽にはうっすらと濁った湯が溜まっていて、明らかに最初に湛えられていたでたろう量から目減りしているように見えた。
店主はまだ風呂に入っていないのに、だ。
浴室内に立ち込める石鹸の匂いが、やけに生々しく思えた。
気味が悪いので、シャワーで済ませることにした。
慣れない作業をしたものだから、頭が重い。
さっさと髪を乾かして寝てしまいたかった。
「まだ空いた部屋の片付けが終わってなくてさ。明日には間に合わせるから、今日はここに泊まってくれるかい?」
「ゆっくりで大丈夫ですよ。野宿よりよっぽど快適だから」
つい最近辞めた人が荷物も纏めず、さっさと出て行ってしまったらしい。
今私が着ているビロード生地のガウンもその人のものだ。
着心地はいいけれど、湛えた血のような赤色はどこかいやらしく、名も知らぬ彼女のセンスに思わず溜息をついてしまう。
やがて、視界が霞んできた。
とにかく頭が重くて、手足を動かすのも億劫だ。
気を紛らわせようと深く息を吐いてはみたけれど、瞼を開ける力すら保っていられなくなる。
「眠いのかい?」
「いえ――」
大丈夫です。
そう続けようとした声は喉の奥で力尽きて、お腹のあたりに落ちる。
瞼を閉じて、外側から削り取られるようにして、私の意識は薄れていった――
▼
目を覚ますと、とにかく頭が痛かった。
それに伴って吐き気が込み上げてきて、しとどに吐き散らしそうになったが、それを堪える。
部屋は、青白く頼りない照明一つに照らされるのみで、暗さに慣れるまでは殆ど何も見えなかった。
打ちっ放しコンクリートの、がらんどうな部屋。かなり広い。
私以外に六人、ぼろを着た女がもののように、部屋の隅に佇んでいた。
彼女らは私が咳き込むなり、一斉に視線を向けてきた。
しかしその視線の生々しさが、混乱した私の頭を、逆に鎮めてくれた。
私は花屋のソファで寝てしまったはずだ。
本来ならば、再びあの心地良いふかふかなソファの上で目を覚まし、きっとろくに髪を乾かさなかったことに後悔してあの髪留めとゴムで纏めるのだろう。
しかし現実はそうではなくて、私は打ちっ放しコンクリートの冷たい部屋の中で目を覚まし、六人の女から哀れみの視線を受けている。
「初日で吐かなかった人は初めてだよ」
部屋の角で座り込んだ女が口を開いた。
と同時に、他の五人の視線が一斉に泳ぐ。
よく見ると、彼女らは皆手首に鉄枷を嵌められていた。
勿論、今口を開いた女の右手首にも。
そして、私の右手首にも。
引っ張ってみると、鎖は甲高い音を立てて伸び切った。
「なんなの、これは」
「なんなの、これは。だとさ! 傑作だ。この子、自分が暖かいベッドの上で目を覚ませると思ってたらしいよ!」
角の女がけたけた笑い声を上げた。彼女以外に、笑っている人間はいなかった。
やがて笑い声は鎮まり、角の女は力なくうなだれて、大きなため息を吐く。
私はと言うと、今、自分が置かれている状況を概ね理解した上で、他の女の様子を窺いながら(皆一様にうなだれているだけなので、しばらくしてからは最初に話しかけてきた女の方をずっと見ていた)、コンクリートの床の冷たさにじっと耐えていた。
「私、騙されたのね」
「ああ、そうだよ」
虫が良すぎる話だったけれど、自分で口に出してみると、現実はどっと肩にのしかかってくる。
「ここは売春宿だよ。正確には、待機所になるのかな。完全予約制で、予約が入る内は部屋を与えられる。外側から鍵をかけられた上、手枷だって外れやしないけどね。でも、毎日風呂に入れるし食事だって一日二食ついてくる。天国だよ」
饐えた臭いが気にはなっていた。
言われてもう一度女達を一瞥してみる。皆、垢に塗れて肌が黒ずんでいた。
「新人のうちはエルが積極的に客に口利いてくれるからさ。しっかり客掴んどきなよ。初日でこけたら、ここではおしまいだからね」
「でも、ずっと客が来てくれるわけじゃない」
私が言うと、女は下卑た笑みを浮かべて、喉を鳴らした。
水物商売はつまり、そのまま人気商売と言ってもいい。
そしてあらゆる事に流行り廃りがあるように、ずっと一定の成果を上げ続けられる者などいないのだ。
一時的な需要に縋り付き、己の身を削りながら駆け上がるのは、この場で言う所の処刑階段。
女の顔立ちを見るに、元々は華やかな美人だったのだろう。
今でこそ見るに堪えない酷い有様だけれど、つまり、彼女は既に自分の需要が無くなったことを悟った出涸らしのようなものなのだ。
「あんたは随分と余裕だね。ま、精々長く向こうにいられるよう頑張りなよ」
足音が、一人分。
段々近付いてくるそれは、一定のリズムで鳴り響く。
「お生憎様」
私の手首を縛る枷は、私の領域の中にいる。
そして私の領域に在るものを、私は拒絶することが出来る。
枷が小刻みに震える。
手首に、意識を集中させる。拒絶、私を尖らせ、解き放つイメージ。
私の左肩の向こう側。鉄扉のノブに手をつける。そんな気配を感じた直後に、枷は、ガラス細工のように砕けて飛び散った。
「雇われるなら毎日三食と甘いものを。そう決めてるのよ」
鉄扉が開く。
隙間から見えた腕に向かって、私は考えるよりも先に駆けていた。
手首を掴んで部屋に引きずり込み、そのまま右腕を背中に回す。
ドアを開いた男の正体が店主であることを確認したのは、その後だった。
「そのままゆっくりしゃがんで、左手を床につけなさい。私が言った通りにしないと、この腕折るわよ」
店主の緊張が、肌越しにも伝わってくる。
暫くそのまま立ち尽くしていたけれど、腕を握る手に力を込めると、すぐにしゃがみ込んだ。
「そのまま、ゆっくりうつ伏せになりなさい」
私の言葉通り店主がうつ伏せになるのを確認し、肘を抑える。
そして手首を掴み、思い切り外側に引いた。
手応え、響いた音から、確認するまでもなく綺麗に腕が折れたことが分かる。
のたうち回ろうとする店主の力は思いの外強い。暴れる左腕を掴みながら、背中に座り込む。
店主の悲鳴は部屋中に伝染し、女達が一斉にどよめく。
「私の荷物はどこ?」
どうしてこんな商売をしているのか。いつから始めたのか。建前上花屋を辞めたとされている女は、何処に行ったのか。
疑問自体は山ほど浮かんだけれど、それら全てがどうでもよくて、私は手っ取り早く必要な答えを聞き出す為に、店主の左腕も同じようにへし折った。
「そっ、倉庫にっ、そのまま!」
絶叫の合間に潜り込んだ言葉を拾い、もう一度、部屋の女達を一瞥する。
店主の叫び声がうるさかったので、髪を掴んで床に叩きつける。
叫び声はうめき声に変わり、それはそれで煩わしかったが、私の声が、彼女らに届かないということはなかった。
「出たい人」
左手を挙げ、同じようにここから出る意思を表すよう促したけれど、手を挙げる者は一人もいなかった。
「どうして?」
少しの沈黙。そして、角の女がおずおずと口を開いた。
「私らみたいなのが今更ここを出てどうするんだい。無一文で、汚らしいだけさ。その辺をほっつき歩いて乞食でもやるかい?」
「…………」
「分かるよ。あんたも旅の芸者か何かだろ? もしくはおてんばな家出娘か、センチメンタルを拗らせたか……ま、そのへんはどうでもいいさ。つまり、私を含めて、ここの奴らは皆、身寄りが無くてね」
「身寄りがないからここから出ないっていうの? やりたくもないことをやらされて? 正気じゃないわ」
「そうさ、正気じゃないんだよ。でも、それはあんたも同じさ」
「ばっかみたい」
「まあ聞きなよ。あんたは目が覚めてないだけさ。私だって、他の皆もきっとそうだったと思うけど、一人っていうのは本当に気楽で、自分が何にでもなれそうな気がして、どんな不便さえも愛おしく思えてくるもんだよ。でもね、でもねあんた。そういう、自由ってやつはさ、存外心を消耗するんさ。心を少しずつ削って、燃やしてないと、頭がおかしくなっちまう。なあんにもないが、だあれもいないが、私を食っちまう」
私はあの探偵の言葉を思い返して。
彼女の目は、あの時の彼と同じだった。
「少なくともここなら一人じゃない。おかしいのかもね、おかしいさ。たとえ出涸らしみたいになって死んでゆくとしても、こんな惨めな姿でほっぽり出されて、寒空の下凍え死ぬよりかはよっぽどいいって思えちまうんだ。死ぬ時に一人じゃないことが、多分私らに残された唯一の幸せさ」
そんなこと、と言いかけた。
その声を飲み込んで。部屋には店主のうめき声だけ。
自由というものに魅せられて、世間はこんなにも不自由がいっぱいなのに、自分だけはそういうものから抜け出せると信じてやまない、前のめりで滑稽なパラノイア。
そんな風に蔑まれているような気がして、息が詰まる。
「……そう」
ようやっと絞り出せた声。
彼女には、どんな風に聞こえただろうか。
胸を掻き毟られるような吐き気を堪えて、立ち上がる。
店主は両腕をだらしなく伸ばしたまま、膝を立てた。
「あんた、綺麗な子だね。きっと美人になるよ」
ドアノブは冷やっこい。
ちょうど私の方に向いた店主の尻を蹴飛ばして。
「ありがとう」
▼
私の荷物は手をつけられていなかったようで、そのまま残っていた。
多分探せば店主が荒稼ぎした金がどこかにあるのだろうけれど、手をつける気にはなれない。
今はとにかく、少しでも早くこの場から離れたかった。
店主から貰った髪留めの存在が脳裏を過ぎったけれど、取りに戻るなんて馬鹿な真似はしない。
私は謀られたのだ。けれど、私は、私は――
「髪留め、ありがとう」
あの時、本当に、嬉しかった――
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