1.七瀬はパフェを平らげる

(1)


 ブラウン管テレビの中で、髭を蓄えた紳士は芝居がかった台詞でまくし立てていた。

よくもこれだけの早口で舌を噛まないものだと、七瀬ななせは感心した。だがそれだけだった。


 七瀬は映画に疎い。

本物の人間が、架空の物語の為に動かされているその様を見るのが、気恥ずかしく思えてくるからだ。


 やがて、紳士の台詞は彼女にとってノイズに変わった。

七月の暑さもあり、彼女は次第に苛立つ。


 眠気覚ましのコーヒーを淹れる気にもなれず、テーブルに放置されたペットボトルの麦茶を飲むが、すっかりぬるくなっていた。


 下の階から、柱を蹴りつける音が三度、響いた。


 昼食の知らせだ。

乱暴な音からかんがみるに、家主の機嫌はあまりよろしくないらしい。

仕事の依頼がなく、暇を持て余しているか。あるいはけちな報酬で無理難題を押し付ける輩がいたか。

直近一週間の出来高からして、おそらく前者だろう。


 七瀬が坂崎探偵事務所さかざきたんていじむしょに転がり込んでから、二ヶ月が経とうとしていた。

彼女にとって、主人の顔を見るまでもなく、彼が撒き散らす生活音から、その機嫌をうかがい知ることなど、今や造作もないことだった。


 手早く薄墨うすずみ色のパジャマから部屋着に着替え、いつもより入念に、髪をとく。

主人の坂崎さかざきは、だらしない女性をひどく嫌った。

かんしゃく持ちではないが、柱の音を聞く限り、八つ当たりされる可能性も大いにあった。

七瀬は十五という年齢のわりに、自分の身に関わることにだけは目敏めざとかった。


 ▼


「遅い」


 七瀬が降りてくるなり、坂崎は吐き捨てた。

舌打ちをしながらも、コーヒーをれる彼の所作には、乱暴な中にどこか品があった。


「部屋の掃除をしてたのよ」


 まったくのでたらめだった。

午前十一時を回るまで呑気に寝過ごしていたし、起き抜けの一時間など、ベッドから一度も出ておらず、寝ていたも同然だ。


 坂崎は、どうせ嘘だと感づいていたが、それ以上何も言わなかった。

だが、いつだったか、髪もとかず、寝間着姿のまま降りてきたことがあったが、今日もそのようなだらしないなりをしていたら、怒鳴りつけてやろうと考えていた。


 七瀬は事務所の表に休憩中の札をかけ、外の熱気を追い出すように、さっさと扉を閉める。

そして客人用のソファに座るなり、一口大に切り分けられたホットサンドを口の中に放り込んだ。

遅れて、坂崎も同じように、ソファに深々と背を預ける。

二つのマグカップのうちの一つを、七瀬に手渡した。


「気が利くわね」


「殺すぞ」


 淡白で、ぶっきらぼうな会話だ。

それが二人の日常であり、上っ面の悪態や、棘のある言葉など、互いにとっては気に留めるようなことではない。


 七瀬は、湯気立つコーヒーを、空気を飲み込むようにして冷ましながらすする。

香り高い苦味の中に、角砂糖二つ分の甘みを感じつつ、彼女は昨日とまったく変わらない場所に置かれた帳簿を見つめた。


「何かめぼしい仕事はあった?」


「本当に嫌味な女だなお前は」


 坂崎はまだら模様に染まった金髪を掻き上げながら、鼻を鳴らす。つまりはそういうことだった。

七瀬とて、事務所の経営不振を知らないわけではなかったが、中学校を卒業してすぐに放蕩ほうとう生活に飛び出した彼女に、経営の助けになるような学は無かった。

彼女に出来ることといえば、いつもの調子となんら変わらぬ態度で坂崎と接することで、気持ちよく悪態をつかせてやるくらいだ。

それでも、そうすることによって、坂崎は多少なりと苛立ちを発散することが出来た。

七瀬は、どこまでも自分の身に関わることには目敏かった。


 昼食を終えて、二人はしばらく各々の仕事をこなしていた。

坂崎は、ぶっきらぼうな声色を無理矢理抑え、変にうわずった声で営業の電話を飛ばす。

しかしその大半は、彼が挨拶の口上を喋り終えぬうちに切られてしまうようで、その度に仰々しい舌打ちが響く。


 七瀬は黙々と伝票を整理していた。

彼女がこの事務所に転がり込んで以来の帳簿管理は、それなりに出来てはいるのだが、それ以前に関してはでたらめだった。

彼女が今後働きやすいように環境を整えようと思えば、細かな作業も含めて、やるべき事は膨大にあった。


「そんな昔の伝票引っ張り出して、一体全体なにをしようってんだ」


「あんた、昨年対比とか見たことないの?」


「ねぇな。過去には囚われない主義でね」


「経営破綻するバカほどそういうことを言うのよ。覚えておきなさいな」


「こ、の、クソガキ……」


 経済学、会計学に疎い七瀬から見ても、坂崎の事務所経営は明らかに杜撰ずさんだ。

きちんとネクタイを締めたこの二十五歳の青年が、七瀬には時折、自分と同年代の少年にすら見えた。

容姿も若々しく、そして何よりその向こう見ずでぶっきらぼうな性格が、坂崎という男を幼くする。


 自分がしっかりしなければ、と、七瀬はこれまで何度も、胸の中で決意を固めた。


 坂崎自身、自分が経営者という立場に立つことに適していない人間だという自覚があった。

クソガキと悪態を吐くだけに留め、それ以上何も言い返せないのは、そういうことだ。


 今まで七瀬がいなくても一人で食い扶持を稼げていたのに、今や仕事の大半は、七瀬がこなしている。

その事実が、坂崎はたまらなくむず痒かった。


「ちっ、外回り行くぞ。お前もついて来い」


「いやよ。一人で暑い思いをすればいいんだわ」


 七瀬は心の底から嫌がった。

坂崎が一人で行ってしまえば、自分は涼しい事務所でもう一眠り出来る。

それに、わざわざ外回り用のスーツに着替える手間すら、今日はわずらわしかった。


「いやよ、じゃねぇんだよ。事業主は誰だ?」


「……あんたよ」


「そう、その通りだ。そしてお前は雇われの身だ」


 立場を引き合いに出されては敵わない。

七瀬は両手を上げ、掌をひらひらと振った。

お手上げだという彼女の意思表示を見るなり、坂崎は八重歯やえばを出して、意地の悪い笑みを浮かべる。

隙を見て、背中を蹴り飛ばしてやろうと、七瀬は思った。

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