割れた花瓶と植木鉢

永坂暖日

前編

 俺のせいにしたかったんだろう? ――だから、してやったんだよ。お前が望むように。


      ●


 割れた花瓶の破片を隠すように、植木鉢の破片と土が散らばっていた。

 その場にいた誰もが絶句し立ち尽くす中、青い目の彼はこちらをちらりと見て口角を少しだけつり上げ、何事もなかったように行ってしまった。左手から血を流したまま。


      ●


 藤代丈が丸子翔と初めて会ったのは、小学校五年生の、二学期の始業式の日だった。転校生の彼の存在は、四クラスあった学年中にあっという間に知れ渡った。もちろん、転校生だからという理由も大きい。だけど、彼の容姿――特に目の色が珍しかったことも、大きな要因だった。

 丸子翔は目鼻立ちがはっきりとしていた。それだけでなく、同性の丈から見ても均整の取れた、格好いい顔立ちだった。男子よりもませている女子が、それに気がつかないわけがない。丸子翔はあっという間に女子児童の間で話題となり、一見するとそれほど日本人離れした顔立ちではないのに、瞳ははっきりと青い色をしていることが、人気に輪をかけた。

 丸子翔は、父親が外国人だったらしい。でも小学校に上がる前に両親が離婚して日本人の母親に引き取られたのだと、女子たちがひそひそと話しているのをたまたま聞いてしまった。

 彼女たちが本人から聞き出したのか、噂話をしていたのかは分からない。ともかく、黒い目の中に突如現れた青い目を持つ丸子翔という存在は、その顔立ちも相まって否応なく目立っていた。

 女子児童たちにとっては羨望の的。しかし、男子児童たちにとっては、女子の人気を独り占めするいやな奴で、人気とは関係なしに、自分たちとは違う青い目を持つ異物だった。

 転校してきたばかりの頃こそ、男女関係なく、新しい仲間に何かと関わり打ち解けようとしていたが、丸子翔は他人と関わることに興味がないのか、話しかけられても返事は短く、いつまでたってもクラスになじむことはなかった。

 女子は、それでもクールで格好いいなどと言っていたようだが、男子は、つまらない奴だと見切りをつけて、一ヶ月もたつ頃にはほとんど話しかけなくなっていた。

 その頃、丸子翔と言葉を交わしていたのは積極的な女子と、出席番号が近くなったために一緒に日直当番をする丈くらいだった。

 丸子翔はとても人見知りで、一ヶ月ではクラスにまだなじめないのかもしれないと、丈はなるべく丸子翔に話しかけていた。下の名前が、じょうとしょう、一字違いで響きがよく似ていたから親近感を抱いていた、というのもある。

 ある時丸子翔にそれを言ったら、

「確かに似てるね」

 と、口の端をちょっとだけ持ち上げ、小学五年生とは思えない笑みを浮かべたのだった。丸子翔の大人びた笑みに、丈は何故か頬がほんのり熱くなるのを感じた。女子たちが、彼は格好いいときゃあきゃあ騒ぐ理由がその時はっきりと分かった。いや、もしかしたら女子たちよりも明確に、知ったかもしれない。彼女たちも、丸子翔がこういう笑い方をするなんて知らなかっただろう。

 前よりも丸子翔に話しかける回数は多くなり、そして彼に話しかける男子はクラスでは丈くらいしかいなかったから、丸子翔といちばん仲が良いのは丈だ、といつしかクラスメイトはそう認識していたし、丈自身もそう思っていた。

 とはいえ、丈も三十数名からなる集団の一員にすぎない。しかも、決してリーダー格にはなり得ず、気弱なところのある性格だった。いわゆるガキ大将的存在に媚びへつらうことはなかったが、彼の言うことに逆らえるほどの気概も根性もない。

 丈より快活で気の強い他の友人たちも、丈たちのクラスのガキ大将である相沢雄摩(あいざわゆうま)には逆らえなかった。相沢雄摩は学年でいちばん体が大きかったし、小学一年生の時から柔道をしていた彼は、五年生にして中学生相手にも勝ったことがあるという、本当の強者だったのだ。

 しかしそんな彼であっても、丸子翔はクラス内の勢力図に無頓着で無関心だったから、相沢雄摩はその他大勢のクラスメイトとなんら変わりない存在だったようだ。

 相沢雄摩は、当然ながら自分になびきもしない丸子翔が気に入らなかった。相沢雄摩が密かに思いを寄せていた女子児童が丸子翔に夢中だったのも、気に入らない大きな理由だったに違いない。

 相沢雄摩が黒と言えば白も黒くなる――ほどではなかったにせよ、彼を取り巻く子分ともいえる友人たちは、ボスである相沢雄摩に倣って丸子翔に冷たく当たった。もっとも、丸子翔は丈や一部の女子以外とほとんど会話らしい会話も交わしていなかったので、あからさまに丸子翔を無視しようとする相沢雄摩たちの方が、むしろ滑稽に見えた。

 本人たちもすぐにそれに気がついたようで、次は直接的に嫌がらせをするようになった。丸子翔が通り過ぎようとする直前に足を出して転ばせようとしたり、画鋲の針を上に向けてイスに置いたり、授業中に後ろから消しゴムのかけらを投げてみたり、と教師には見つかりにくい、小さな嫌がらせをあれこれやっていた。

 しかし丸子翔は、相沢雄摩たちの足に引っかかることはなかったし、座る前に画鋲の存在に気がついたし、消しゴムのかけらくらいでは眉一つ動かさなかった。

 丸子翔が相沢雄摩に嫌がらせをされているのはクラスメイトの誰の目にも明らかだったが、やめなよとは誰も言い出せなかった。刃向かえば相沢雄摩の目の敵にされるのは分かりきっていたから、丈ももちろん止めることはできず、嫌がらせをしているところを見てわずかに顔をしかめ、胸の中でやめればいいのにと呟くのみだった。

 相沢雄摩が丸子翔を標的に嫌がらせを始めてからも、丈は丸子翔に話しかけていた。彼にとってはそれが相沢雄摩への精一杯の反抗心で、丸子翔の味方だというアピールのつもりだった。あくまで、つもりだったのだ。

 二学期の終わりに近づいても、相沢雄摩は丸子翔への嫌がらせをやめなかった。丸子翔は何をされてもいっかな気にする様子がなく、涼しい顔をしていた。

 相手の反応がなければ、なんとかして反応を引き出そうと嫌がらせはエスカレートする。このころには、相沢雄摩は丸子翔の靴や教科書を隠したり汚したりしていて、完全にいじめだった。丸子翔はやはり顔色一つ変えず、教師に言いつけることもしていないようだったから、いじめではあるものの相沢雄摩の独り相撲のようでもあった。

 だが、それはある日突然終わりを迎えた。

 二学期の終業式が間近に迫った寒い日で、教室の窓から見える夕焼けがとてもきれいだった。授業が終わり、多くの児童は下校していたが、丈と丸子翔は連れだって図書室へ行っていた。おのおの気になる本を借りて教室へ戻ると、相沢雄摩とその子分たち五人ほどが、室内だというのにドッジボールのボールを投げて遊んでいた。

 他のクラスメイトはみんな帰ったらしく、丈たちが前のドアから入ると、視線の集中砲火を浴びた。けれどそれは一瞬で、相沢雄摩がまっさきに視線を外して、ボールを持っていた男子に早く投げろよと横柄に言った。

 ランドセルは机に掛けてあるから、教室全体を使ってキャッチボールする彼らの間を縫うように取りに行かなければならない。

 気まずく、ボールが当たるかもしれないという恐怖心があったが、ランドセルを取らなければ帰れない。相沢雄摩たちもそれは分かってくれるはず。そう期待しながら、おっかなびっくり自分の机に向かう。こんな時でも、丸子翔は涼しい顔をしていた。

 丈は少し離れたところを通り過ぎたボールに過剰にびくつき相沢雄摩たちに笑われたが、なんとかランドセルを回収してそそくさとボールの飛んでこない、教室の前へ避難した。

 丸子翔は無事ランドセルを取れただろうかと振り返ると、ちょうど相沢雄摩がボールをキャッチしたところだった。相沢雄摩は意地の悪い笑みを浮かべ、彼に背中を向けている丸子翔を見る。彼の机は窓際から二番目の列のいちばん後ろで、ランドセルを取ろうと少し前かがみになっていた。その背中に向かって、相沢雄摩はボールを投げた。

 勢いはたいしたものではなかったが、背中の真ん中にボールの直撃を受けた丸子翔は、少しよろけてイスに足をぶつけた。相沢雄摩が声を立てて笑い、子分たちもくすくすと笑った。

 それでも、丸子翔は顔を上げず振り返りもしない。

 転がったボールを、近くにいた子分の一人が拾うと、相沢雄摩が自分に渡すように言う。器用に片手でキャッチすると、丈の名前を呼び、それを投げた。

 軽く放られただけだったので、丈でも難なくキャッチできた。だが、戸惑いは隠せない。もしもいま教師に見られたら、丈も一緒に遊んでいると思われるだろう。そんな巻き添えはごめんだが、相沢雄摩は、丈を巻き込むつもり満々だった。

 顎で丸子翔を示し、彼に投げろと言ったのだ。小さく首を横に振り、ささやかに抵抗してみたが無駄だった。にらまれ、投げろ、とさっきよりも強い調子で言われた。

 これ以上逆らったら、後で何をされるか分からない。それに、丸子翔に投げるだけだ。さっきの相沢雄摩みたいに、後ろからぶつけるわけではない。

 丸子翔はかがめていた体を起こし、丈をじっと見ていた。ボールをキャッチしようと身構えてはいない。だが、きっとキャッチしてくれる。

 丈は運動神経がいい方ではないが、これくらいの距離なら届くだろう。早く投げろと言う相沢雄摩の視線に押され、丈はボールを投げた。

 丸子翔をめがけて投げたつもりだった。でも、ボールは大きく右にそれて、窓際にあった花瓶に直撃したのだった。

 花瓶は、丈と丸子翔の真ん中あたりの床に落ちて大きな音を立てた。大小さまざまな破片と生けてあった花、水が飛び散る。

 ボールを投げた姿勢のまま、丈は固まった。顔から血の気が引く。

 丸子翔は、やはり顔色一つ変えずに床に散ったものに視線を落としていた。おそるおそる相沢雄摩を見ると、彼は先ほどよりも意地の悪い笑みを浮かべていた。してやったり、という表情だった。

 まったくタイミングの悪いことに、残っている児童を早く帰すため、見回りをしている教師が近くにいたらしい。花瓶の割れるけたたましい音を聞いて、教師が駆けつけたのは言うまでもない。

 学年でいちばん若い隣のクラスの担任で、いまのは何の音だと血相を変えていた。

「丸子くんがボールを投げて、花瓶を割ったんです」

 ややあらげた声の教師に、すかさず丸子翔を指さして答えたのは、相沢雄摩だった。

 床に散った破片とその近くに転がるボールに気がついた教師は、険しい顔で丸子翔を見た。相沢雄摩が言ったことは本当なのかと問われ、丸子翔は当然ながら違いますと答える。すると教師は相沢雄摩に視線を移す。

「丸子くんがやったんです。ぼくらみんな見てました」

 相沢雄摩の言葉に合わせて、子分たちがうなずく。

 丈は生きた心地もしなかった。相沢雄摩たちは、丈をかばっているのではない。丸子翔のせいにしたかったのだ。それが教師に露見したら、丈が怒られてしまう。花瓶を割ったこと、教室でボール遊びしていたことを。

 でも、丈は巻き込まれただけだ。ボールを投げて遊んでいたのは相沢雄摩たちで、丈はたまたまその場に鉢合わせして、投げろと命令されたから投げただけなのだ。

 違うと否定するのは丸子翔だけで、後はみんな、丸子翔がやったと言い張っている。丈は、否定も肯定も、本当は自分がやったとも言えなかった。だが教師は、丈が黙りこくっていることに気がついていないようだった。

 一人以外みんな丸子翔がやったと言う。教師は民主的だった。

 ずっと淡々とした表情だった丸子翔が、眉間に小さくしわを寄せて違うと言っても、教師はもはや聞く耳を持たなかった。花瓶を割ったのは丸子翔だと断定して片付けをするように言い、相沢雄摩たちには教室でボール遊びをするんじゃないと叱った。

 思惑通り丸子翔に罪をかぶせるのに成功した相沢雄摩だったが、自分たちまで叱られるのは想定外だったようだ。丸子翔の手伝いをしなさいと言われた相沢雄摩は、ますますふてくされた顔になって、丈をにらんだ。お前がやれと言うことか。でも割ったのは丈だから、自分がやるのは当然だ。

 丸子翔は動かなかった。教師がほうきや雑巾を持ってくるように言っても、割れた破片を見つめている。いじけてうつむいているようにも見えた。

 丈は掃除道具入れからほうきとちりとりを取って、破片の散らばる場所へ向かう。子分の一人が、さすがに何も手伝わないのはまずいと思ったのか、雑巾を持ってきた。

「丸子くん……」

 近づいて声をかけても、丸子翔はこちらを見ないし顔を上げなかった。こわごわと再度声をかけようとしたら丸子翔がいきなり動き出して、丈は声を上げそうなくらい驚いてしまった。

 丸子翔が動いたのは、ほうきやちりとりを受け取るためではなかった。

 彼は、窓際に近づくと、さっきまで花瓶があった場所の隣にある植木鉢に拳を叩きつけた。

 拳を叩きつけられ、窓枠にぶつかり、鉢が音を立てて割れる。丸子翔はそれだけのみならず、植木鉢の中身と大きな破片をつかむと、花瓶の破片が散らばるところに投げ捨てた。三度目となるけたたましい音が響き、破片がいくつもの破片にわかれ、土が飛び散った。

 この行動には、教師も相沢雄摩も、もちろん丈も、言葉をなくして立ち尽くした。

 しんと静まり返る中、丸子翔は机に戻った。ランドセルを背負い、丈の横を通り過ぎる。教室の中には、彼の立てる小さな物音しかなかった。

 丸子翔と目が合った。通り過ぎざま、彼が丈を見やったのである。

 青い目に射抜かれ、丈は固まった。一瞬しか見えなかったが、彼の口元は、かすかに笑っていたのだ。だが、目はその色の印象通りに冷ややかだった。

 丸子翔が教室を出てから、教師はやっと気を取り戻したのか、あわてて丸子翔を追いかけた。けがをしているだろう、と大声を上げながら。

 固い植木鉢を素手で殴ったのだ。彼の左手から血が流れているのは、丈も気づいていた。だが、突然の思いがけない出来事に麻痺した頭は、赤いものがついている、という程度の認識しかなかったのだ。

 そして、あのとき丸子翔が見せた笑みがどういう意味か、冬休みが終わっても丈が知ることはなかった。終業式の日まで聞くに聞けずにいて、年が明けたら今度こそ聞こうと決めたのに、年が明けたら丸子翔は転校していたのだった。

 自分が割ったと言えなかったことを謝れないまま、丸子翔は丈の前からいなくなってしまった。謝れなかったこと、本当のことを言えなかったことの罪悪感は、丸子翔との思い出とも言えない思い出とともに、小さな棘のように丈の心に突き刺さり、いつまでも抜けなかった。

 成長するにつれ、棘の存在感は薄れてはいった。だが、決して抜けることはなく、ふとした折りに、丈は丸子翔という存在と、それに付随する罪悪感を思い出すのだった。

 彼がどこに転校したのか担任は教えてくれなかったが、遠いところだとほのめかされた。クラスでいちばん仲が良かったはずの丈に行き先を教えてくれないなんて水くさいと思い、喪失感に囚われもしたが、あんな仕打ちをした丈に、丸子翔はもはや友情を感じていなかったのだろう。

 あの後も会話はあったが、どこかよそよそしさがあったのは否めない。転校することもその行き先も教えてくれないのは、当然だった。

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