第三十七話 絶望
「お兄ちゃん! お兄ちゃん!」
凛花は必死に呼びかける。体中から血を絞り尽くされた望夢の瞳は、すでに焦点も定まらずに虚空を彷徨っていた。その瞳には一体何が映っているのだろうか。息遣いが徐々に小さくなっていく。
凛花は血だらけの望夢の右手を涙を流しながら強く握りしめる。
「お願いだから私を一人で置いていかないで。ずっとずっと一緒だったじゃない。私の家族はもうお兄ちゃんしかいないんだよ。わたし一人ぼっちで生きたくないよ……」
意識の混濁した望夢には妹の哀願もすでに届かない。望夢の口が微かに揺れた。何か言っているようだ。凜花は慌てて望夢の口元に耳を寄せる。
「え、なに! お兄ちゃん!」
「あ…あ…ま……い…も……の」
ほとんど聞き取れないような声だが確かにそう繰り返していた。
「ちょっと待っててね!」
凜花は望夢のリュックを逆さまにして荒々しく上下に揺らす。中身が全て地面に散らばった。小さな銀紙の包みに見覚えがあった。凛花は震える手つきで銀紙の包装を開ける。丸いチョコレートだった。それを手で摘まむと、望夢の真っ赤な口の中へとそっと入れた。
「お兄ちゃん、チョコだよ。大好きだったよね」
血だらけの口の中で僅かに舌が動いた。
「あ…ま…い…ね…はち…み……た……ぷ…り……お……し…い……お…かあ…さ――」
残された望夢の翡翠の瞳に涙が滲み頬を伝った。最後に幸せそうに柔らかく微笑むとそのまま動かなくなった。
「お、置いていかないで、お兄いちゃん!」
泣きながら望夢の体を揺さぶり続ける凛花。その傍らで立ち尽くすエリカもいつのまにか泣いていた。彼の命が尽きるのをただ呆けたように見ている事しかできなかった。エリカはそんな自分が口惜しかった。もう少し早く駆けつけることができたら。そう思わずにはいられなかった。もし凛花と同じように翔を失ったら自分はどうなってしまうのだろうか。そう考えると胸が強く締めつけられた。
突然、大きな音がして地面が揺れた。森の外からだ。エリカは反射的に体が動いていた。地面を強く蹴り上げ、空中へと舞い上がる。嫌な予感が止まらない。頭の中で翔の名を繰り返し叫ぶ。矢のように木々の間を抜ける。顔や手に擦り傷ができようが一向に構わなかった。
森の外へと飛び出したエリカは胸を撫でおろす。とりあえず彼女の想い人は無事だった。翔の前方には巨大なヒグマが立ちはだかっていた。成体のヒグマのシェイドだ。しかもこれまでセイビーが戦っていたものよりも数段大きかった。その頭上を一人のセイビーが牽制するように飛び回っていた。ヘルメットを見たエリカは安堵して翔の傍に降り立つ。
呆然と立ち尽くしていた僕の隣に誰かが舞い降りた。
「おおエリカか! 無事で良かった。怪我はないか?」
「大丈夫」
「こちらはちょっと、いや、かなりやばい状況だ」
「あいつ何?」
「列車を取り囲んでいた六体のシェイドはセイビー隊が全て片付けることに成功したんだ。セイビーもかなりの犠牲を出したけどな。やっと助かったって思った直後、これだ」
顔を顰めて言い淀む僕。隣の秀人が言葉を引き継いだ。
「森の影から突然現れたんだよ。あれは本当にまずい。体長は十メートルを超えているし体表のほとんどが黒色で覆われているから」
「かなり、進行している?」
「うん。明らかにステージⅤ直近の状態だよ」
「他のセイビーは」
「それが、残っていたセイビーの隊員もここに駆けつけたんだけど……」
「もう、あそこにいる徹さんしか残っていない」
僕は唇を噛みしめる。シェイドの足元は凄惨の一言に尽きた。両手足が引き千切られた体や胴体を半ば失った肉片など。一見すると四つの亡骸とすら判別がつかなかった。
ヒグマに目を向けたエリカも身震いした。これまでのシェイドとは比べものにならなかった。その巨体からは想像もつかないほどの俊敏さだった。四本の手が鞭のようにしなり空中を飛び回る徹を叩き落そうとする。徹はそれを紙一重で躱していた。
「大丈夫、徹さんは、しっかりと見切ってる」
今のエリカには彼が追い込まれているわけではないことがよくわかる。シェイドの動きを見切っていた。スカイムーブの六つのノズル噴射を巧みに操り最小限の動きで躱しているのだ。安心すると同時に見せつけられた現実に歯ぎしりする。自分とは全く異なる次元の戦闘だった。加勢したところで逆に徹の邪魔になるだけだとわかったからだ。
ここまで回避行動に撤していた徹が攻勢に転じた。体力が無限かと思われたシェイドだったが、攻撃を続けているうちに若干動きが鈍くなったのだ。
徹は隙をついてシェイドの懐へと突入する。それを迎撃しようとシェイドの左腕が振るわれるが身を捩りながらそれを躱した。徹の手中のブラッドが赤い光を放つ。普段よりも数倍長い刀身だ。脅威を感じたシェイドが吠えながら右腕を振り下ろす。徹はその腕の下をかいくぐり刀身を狙った部位に斬りつけた。
「おお! 徹さん凄いっ!」
弾丸をも通さない緑の固い装甲で覆われた太い腕。それがたて続けに大きな音を立てて地面へと落ちた。ブラッドの出力を上げて伸ばした刀身で二本の太い右腕の付け根を一度に斬り落としたのだ。
痛みを感じないはずのシェイドが一際大きな咆哮をあげた。塵のような存在が自らの右腕を切り落としたことに激高したようだ。
一方の徹さんは冷静だった。シェイドと交錯した後、スカイムーブを巧みに操り、瞬時に百八十度方向転換する。シェイドの背後は無防備だ。首筋に向かって再び赤い刀身を斬りつけた。
ヒグマは背後からの徹さんの動きは見えていなかった。ヒグマの首と胴体が斬りおとされる。僕はそう思った。しかし僅かに残る生存本能が背後から迫る脅威を感知し咄嗟に左腕で首筋を庇った。糞、もう少しだったのに。残念ながら首を斬ることは叶わなかった。しかしその代わり左腕を斬りおとしすことには成功した。
「よし! あとは左腕一本だ! 頑張れ徹さん!」
その言葉が届いたのか徹さんは僕らの上空まで近づく。親指を立て自らを指した後に、エリカを指さした。どうやら、これから止めを刺すからその技を目に焼けつけるようにということのようだ。師匠としてエリカに見せたいようだ。僕は徹さんに認められたエリカが羨ましかった。
徹さんの影が急速に小さくなっていく。スカイムーブを最大出力にして地面と垂直に遥か上空へと駆け上がっていった。
「うわっ! なんだ!」
空気を震わせるほどの大きな咆哮が耳をつんざく。僕は両耳を押さえ顔を歪めながら発生源に目をやる。鋭利な牙が生え揃った口をこれでもかと開き、胸を張り上げて吠え続けるヒグマのシェイド。体表に僅かに残っていたオリジナルの動物の証が全て漆黒へと塗りつぶされていく。赤く血走っていた瞳がさらに燃え盛る炎へと変わった。爛々とした瞳に見据えられた僕は恐怖のあまり身動きができなかった。
遥か上空からそれを見下ろす、徹。ヒグマの周囲には凄惨な戦いの傷跡が残されていた。徹はこれまでにないほどの強い怒りにうち震えていた。
「俺の大事な部下を一瞬で奪いやがって。絶対に許さん!」
手塩にかけてここまで育ててきた部下たちの姿が想い浮かぶ。そして副長の最期の顔が忘れられない。
あのヒグマが襲いかかってきた時、徹は別のシェイドを斬り伏せた直後だった。体勢が乱れた隙をどこからか現れた奴に狙われたのだ。凶悪な爪が己の体を引き裂く。そう諦めたとき体に強い衝撃が襲った。吹き飛ばされる徹の目に映ったのは、体を二つに引き裂かれる副長だった。副長は笑みを浮かべていた。隊長の徹を無事に守ることができたことに満足したような笑みだった。
「あいつらの想いは決して無駄にしない。全身全霊であの悪を叩き斬る」
徹は正面から倒れこむ。頭を下向きにして落下し始めた。ブラッドを両手で掴み、前方へ漆黒の棒を突きだす。足裏のノズルからは最高出力で圧縮空気を噴きだす。標的に向かって矢のように急降下する。
「あ、これは、あのときの……」
疾風のごとく舞い降りてくる徹を見て、エリカはすぐに気がついた。初めて出会った時のあの技に違いない。おそらく勝負は一瞬だろう。瞬きすらするわけにもいかない。エリカは徹の動きに集中する。
ヒグマと接触する直前に徹は体勢を入れ替えた。一瞬で体の上下を反転させたのだ。猛スピードで落下する中、驚異的な技術といえた。頭上にブラッドを掲げる。上段から振り抜く構えだ。ブラッドの漆黒の棒が眩い光に包まれる。
ヒグマは残った一本の左腕に渾身の力を込め徹を叩き落とそうと腕を振りかぶる。その動きはこれまでとは比較にならないほど速かった。恐ろしいことにシェイドはここに来て進化したのだ。タイミングはこれ以上ないほどに合っていた。
まずい。これでは直撃が避けられない。エリカは息を呑む。ヒグマの腕が振り抜かれる、まさにその瞬間だった。徹のブーツの底からエアーが勢い良く噴射された。落下スピードが僅かに落ちる。それで十分だった。タイミングをずらされたヒグマの腕が徹の体の下を空振りして通り過ぎる。徹はその勢いのままシェイドの左腕を肩から切断した。
足裏からのエアー噴射を最大出力のまま落下する、徹。落下の勢いは止まりそうにない。このままでは地面へ衝突してしまうとエリアは思った。しかし地面とブーツが接触するその直前に落下から急上昇へとその動きが反転した。水素ブーストだった。まさに神業ともいえる難易度の技にエリカは目を瞠る。
それは瞬きする時間のずれさえ許されないのだ。早いと対象を斬り下ろせないし、遅ければ高速で地面に叩きつけられる。スカイムーブの操作を一瞬でも見誤ると五体満足には済まないだろう。しかもベクトルが逆に反転するため体への負荷は想像を絶する。現在の北都防衛軍の隊員でこの超高速の切り返しをできる者は徹をおいて他にはいなかった。
爆発的な逆噴射によって上昇に転じた反力。徹はそれをも利用して振り抜いた赤い刀身を斬り返す。狙う先はヒグマの首。最後の脅威であった左腕は胴体と切り離され、重力に従い地面へと落ちていくところだ。無防備な首と胴が切断される――。
その瞬間、徹の姿が翔の視界から消え去った。
「え、なんで――」
僕には何が起きたかわからなかった。そもそも早すぎて何が起きていたのかさっぱりだった。
わかったことは、斬り落とされたと思わしき左腕が大きな音とともに地面に落ちたこと。それにもかかわらずヒグマの左腕が無防備な徹さんの体を横殴りにして吹き飛ばしたことだ。
「あ、あ、ま、まさか、そんな――」
秀人がブリッジに手をあて体を震わせていた。
「ヒデ、どうした!」
「さっきの咆哮のときだよ。あの時にステージⅤに進化したんだ。そして新しい腕を生やしたんだ」
「いや、でも腕は一本だけだったじゃないか」
「よく見て。腕の生えている位置」
「なんてこった。あれが生存本能の成す術だというのか」
ヒグマが腕を生やした位置。それは最後の一本だと思っていた左腕と同じ高さだった。違うのは生え際が背中側ということだけだ。生やした腕を死角となる背中に隠していたのだろう。
「そ、それよりも徹さんだ!」
地面に叩きつけられて蹲る徹に僕らは急いで駆け寄った。
「徹さん! あぁっ、なんてことだ」
僕は絶望に顔を覆う。徹さんの両足は膝から先が無かった。そこからは未だ血が勢いよく噴き出ていた。
「か、翔、に、逃げるん…だ」
「でも、徹さん、敵は奴だけじゃない」
線路を挟んだ反対側の未だ燃えさかる森へと目を向けるエリカ。彼女には全てが見えていた。
「お…お前…わかった…のか。流石だ…な。どう…やら……このシェイド…人為的に誘き出され…たよう――」
徹さんの口から血が溢れ言葉が途切れた。地面に強く叩きつけられた際に内臓も破壊されてしまったようだ。徹さんの命はもう長くない。僕にもそれはわかった。
「おい、エリカ! いったい何の事だ。話がまったく見えない」
二人の会話に困惑した。それは僕だけではなく秀人も同じだった。エリカは黙って徹さんのヘルメットを指さす。トレードマークのヘルメットの側頭部が割れていた。徹さんがシェイドに薙ぎ払われたのは下半身であったにもかかわらずだ。
「徹さん、躱せた。邪魔さえ、なければ……」
ブラッドを斬り返す動作の最中に突如現れた新たな腕。それが自らに迫り来るのを徹は捕捉していた。不味いと瞬時に悟る。それでも緊急退避用として水素ブーストを一つ残していた。それによって紙一重で回避は可能だった。しかし、ブーストは作動しなかった。脳からスカイムーブへの指示が伝わらなかったのだ。なぜなら、それを仲介するヘルメットが森の方角からの狙撃によって破壊されたからだ。
「誰がそんな馬鹿なことを……。一体なんの得があるっていうんだ」
地響きのような揺れ。僕は視線をあげた。ヒグマが腕の付け根から緑色の血をしたたらせながらこちらに迫って来る。自らの勝利を確信したのかその動きはどこか悠然としていた。
「くっ! 翔とヒデは逃げて! 私が囮になる」
「エリ…カ…お……お前の…手には…負えな――」
徹さんが引き留めようとしたがエリカは一瞬で空に飛び立った。ヒグマの上空までいくと威嚇するように旋回し始める。ヒグマは上空を気にかけはするものの僕らに近づく動きを止めることはなかった。本能的に感じ取っているようだ。徹さんとは違いエリカは自分の脅威ではないと。
「あ、あれ……。く、くっ…そ」
いつのまにか僕の尻は地面についていた。歩み来る巨大で狂暴な暴力。心の支えであった徹さんはもはや虫の息。知らずのうちに圧倒的な恐怖で腰を抜かしていた。
「翔! 駄目っ! 立ち上がって、逃げて!」
上空でエリカが必死に呼びかけてくる。でも、動かないんだ。頭では逃げないとと考えているのだが、体がそれにシンクロしない。
このままでは翔が殺されてしまう。そう思ったエリカは軌道を変えヒグマに斬りかかる。しかし、ヒグマの攻撃範囲に入った途端。狂暴な腕が鞭のようにしなって彼女に襲いかかる。エリカはそれを反転して躱すことしかできなかった。攻撃の糸口が見つからない。が、彼女は諦めるわけにはいかなかった。角度や方向を変えて何度も攻撃を仕掛ける。その都度、ヒグマは煩い蠅を追い払うかのように左腕を振るう。エリカの今のスピードでは近寄ることさえままならなかった。
「エリカちゃん! 僕が陽動するからその隙に攻撃して!」
声の主はヒグマと僕の間に立っていた。いまにもヒグマの攻撃範囲に入ってしまうほどの距離だった。
「ヒデ! 駄目、逃げて!」
普段臆病で慎重な秀人の無謀ともいえる果敢な行動にエリカは驚愕していた。
それは僕も同様だ。恐怖に腰を抜かして怯えていた自分が恥ずかしい。秀人の勇気に奮い立たされた僕は震える膝を手で押さえながらもなんとか立ち上がった。
「ヒデ! 無茶だ。戻ってこい!」
「だ、大丈夫! エリカちゃん! 合図を送ったら迷わずに突っ込んで!」
ヒグマの歩みが止まっていた。ヒグマにとっても意表をつかれた行動だった。まさか目の前の脆弱な獲物が自分に向かって飛び出すとは考えてもいなかった。小刻みに震える獲物が一体何をするのか興味を惹かれたのだ。
秀人が手をヒグマの方へと向けた。恐怖を振り払うように叫ぶ。
「三、二、一、いっけぇぇえ!」
彼の手元から眩い光が放たれた。青白いレーザー光がヒグマの赤い瞳を貫いた。苦しそうに呻き、残された左手で光を遮るヒグマ。秀人の右手には北都で購入した超強力懐中電灯が握られていた。焦点を最大まで絞ったその光線はそのままでも人の眼を失明させかねない。それでもシェイド相手では心許ないはずだった。しかし、現に今もシェイドは目を押さえて苦しんでいた。
「あ、あれは…。あいついつの間に」
秀人は左手に黒いケースを持っていた。スカイムーブの動力源だ。徹さんのバックパックからそれを取り外し、懐中電灯の外部バッテリーとして直接接続したのだ。シェイドコアから生み出された出力。それは懐中電灯の内臓バッテリーとは桁違いだ。流石のシェイドも、この強烈な光には耐えられなかった。
一瞬にして電球は焼き切れたが問題はなかった。あくまでシェイドの気を逸らすのが狙いだった。エリカは一瞬でヒグマの背後に迫っていた。緊急用にとってあった水素ブーストを使用したのだ。ブラッドを振り上げ首を薙ぎ払う。秀人の作りだしてくれた一瞬の隙を彼女が見逃すはずがなかった。
「おお、やった!」
ヒグマの首筋から大量の鮮血が迸った。
「くっ、駄目!」
しかし僅かに浅かった。一刀両断まではできなかった。エリカの今の力量ではブラッドの刀身の長さをヒグマの太い首筋に最適化できなかったのだ。
渾身の一撃でバランスを崩したエリカにヒグマの左腕が襲いかかる。危ないと僕は叫ぶ。驚異的な反射神経でエリカはそれを回避した。それでも完全には躱しきれなかった。ヒグマの腕がエリカの体に僅かに掠る。たったそれだけなのに。衝撃は凄まじかったようだ。吹き飛ばされ僕とヒグマの間に墜ちると地面を勢いよく転がった。
空気がビリビリと震えた。ヒグマが怒りを爆発させたような咆哮をあげたのだ。ひ弱な虫けらに大きな傷を負わされたことに我慢ならなかったようだ。
それを目の前で浴びせられた秀人は腰が砕けて尻餅をつく。その手から懐中電灯が滑り落ちた。人生最大の勇気を振り絞った秀人の起死回生の策。それは有効であったがあと一歩届かなかった。目の前に仁王立ちするシェイドを秀人は絶望の眼差しで見上げていた。
「おい、エリカ! 大丈夫か!」
地面に横たわる彼女の上半身を両腕で抱え起こす。
「か、翔、お願い…に…逃げ…て――」
「馬鹿いうな! 俺達のために傷ついたエリカを置いていける訳ないだろ!」
「私の番なの……。昔、翔に、命を救ってもらったの、覚えてる?」
「は!? こんな時に何言っているんだ!」
「あの時、わたし、約束した…よ。次は、私が、翔を、絶対に守る…って……」
「馬鹿野郎! そんな約束を今まで気にしていたのかよ。それでエリカが死んだら助けた意味がないだろ!」
声を荒げる僕の頬にエリカが手を添える。その手は冷たかった。エリカは潤んだ瞳で僕を見つめる。
「お母さん、待ってる。だから、大丈夫。わたしの、命、無駄、したら、怒るから。たまに、たまにでいい。心の中で、わたし、思い出してくれると、嬉しいな」
エリカは照れたように微笑む。
「おい! 何言っているんだ。 あっ!?」
エリカが両手で僕を突き飛ばした。僕は後方へと勢いよく転がる。彼女は体に僅かに残る力を振り絞って立ち上がった。そして秀人とシェイドに向かって走り出した。
「待てよ! エリカ! 行くな!」
僕は彼女の背に向かって手を伸ばす。しかし、その手は空を切るだけで大事な人を掴むことはできなかった。
ヒグマは視界の隅から走り寄るエリカの姿に気づいていた。しかし、一切の脅威を感じなかった。まずは目の前に置かれている食事を楽しもう。左腕をゆっくりと伸ばし鋭い爪先でか弱い獲物を摘まみ上げた。
◇◇◇
大いなる意思の欠片は目の前を飛び交っている病原生物を観察していた。その挙動はこれまでの病原生物よりも明らかに活発かつ頑強だった。これまでは抗生剤に飲み込まれると瞬時に分解されるか接触しただけで破裂していた。それに対し、この個体は傷つき弱りはするものの直ぐに破裂するようなことはなかった。
しかも、飛び交うその個体と同様と思わしき個体が二体もいた。やはり病原生物が変異したのかもしれない。抗生剤に取り込ませて自らが成分分析をしてみる価値がありそうだ。
手始めに抗生剤に目の前の雄の個体を取り込ませた。動かなくなった病原生物を捕捉するのは簡単だった。成分分析をするには液体にまで完全に分解しなければならない。前処理が必要だった。このため体内に取り込む直前に荒く噛み砕かせる。耳障りな音がしたが気にせずに抗生剤へと取り込ませた。さてまずは主要成分の解析からだ。意識するだけで様々な成分のデータが流れ込んでくる。想定していた結果とは違った。既存の病原生物と比較して明確な差は見られない。
もしかすると微量成分に差があるのかもしれない。先程取り込んだ病原生物は完全に分解されてすでに排出されてしまった。新たな検体病原生物が必要だ。
手の届く範囲に雌の検体がいたのでそれを使うことにした。ただ微量成分の分析にはどうしても時間がかかる。抗生剤に対して思念を送る。一度に取り込まないようにしなければならない。捕まえた病原生物を体内に取り込む前に複数個に分割させた。それを一つずつ細かく噛み砕き、時間をかけて解析していく。
意思の中に膨大な情報が飛びかう。それを既存の病原生物のデータベースと比較していくのだ。ある領域の解析結果に差し掛かったときだ。これは――。
目を見張る結果が得られた。ある元素が高濃度で検出されたのだ。しかし、それはあり得ないはずだった。なぜなら、これは既存の病原生物には一切含まれていない元素なのだ。それどころか自らの肌上に多様に存在する全ての生物に検出されるはずのない元素なのだ。
なぜなら、この元素は大いなる意思自らが新たに創出した抗生剤に特有の元素であったからだ。
これは一体どういうことなのか。大いなる意思は暫し考える。もしかしたら取り込む過程において汚染したのかもしれない。抗生剤の一部が剥がれるなどして取り込まれた可能性があった。
再分析して確認する必要がある。幸い少し先にもう一体、雄の病原生物がいるではないか。次は汚染しないように十分に気を配って処理しよう。
大いなる意思の欠片は解析結果の信頼性を検証するため、抗生剤に新たな思念を送った。
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