第五話 現世(うつつよ)

男鹿おがの容態はどうだ?」


 討議の間で月読つくよみと向かい合った覇夜斗はやとは、不安気な表情で問いかけた。

 一瞬黙り込んだ月読は彼から視線を外し、苦し気に小さな声で答えた。


「まだ、意識が戻らぬ」


 それを聞いて覇夜斗は、重いため息をついた。


「咄嗟にかわしたようで、思ったほど傷は深くないが、戦うのに邪魔だったのだろう。刺さった矢を自分で引き抜いたようだ。そのせいで傷口が広がり、出血が激しい」


「ばかものが」


 覇夜斗は舌打ちをして、拳で床板を強く叩きつけた。


牛利ぎゅうりが魏で学んできた医学を駆使し、懸命に手当てをしているが、あとは本人の体力次第のようだ」


 月読も目を閉じ、眉を寄せて唇を噛み締めた。

 その顔を見て、覇夜斗は少し考えを巡らせて問い直した。


大王おおきみは……?」


「祈祷の間に篭もったきりだ」


「奴が助かるよう祈っているのか。いじらしいな」


 苦笑する覇夜斗に、月読は首を振った。


「いや。一心に戦の勝利を祈っている」


「……?」


「男鹿のためにも懸命に自分の役目を果たそうとしている。それが逆に痛々しい」


 しばらく言葉を失っていた覇夜斗は、やがて膝に置いた手に力を込めた。


「とにかく、予定通り私は出雲に戻り、筑紫島つくしのしまを目指す。奴のためにも勝機を逃さず、必ず狗奴国くなこくを取り戻さねばならぬ」


「ああ、こちらでも準備を進めている。兵達の士気が高まっている間に、勝負をかけなくてはならぬ」


 二人の男は決意を込めて見つめ合い、互いに腕を絡ませて戦の勝利を誓った。






 その日のうちに、覇夜斗達の一行は出雲へと旅立った。

 宮殿の門まで彼らを見送り、引き返そうと身を翻した月読の前に、伊予国の役人が息をつきながら駆け寄って来た。


「王が副官の処分を決めるため、皇子様の意見を賜りたいとお呼びです」


爾岐にぎの?」


 何が起こったのか状況がつかめず、月読は首を傾げながらも謁見の間へと急いだ。





「どのような処分も、甘んじて受ける覚悟です」


 謁見の間の中央でひれ伏した爾岐は、額を床につけて絞り出すような声で言った。

 伊予国王に呼ばれた月読は上座で眉を寄せ、目の前の男を見つめていた。


「貴様が入国を許した者達によって、大王の命が危うかったのだぞ」


 普段は温厚な伊予国王が、珍しく荒げた声を大男に吐きかけた。


「申し訳ありませぬ」


 爾岐は一層身を低くすると、声を震わせて詫びた。

 今回の件で受け入れた兵が狗奴国が送り込んで来たと思われる暗殺者であったことで、彼はその責任を問われていたのだ。

 爾岐の隣には邪馬台国の役人として入国作業を手伝った野猪のいも、参考人として呼ばれていた。


「あの者達の態度が誠実そうに見受けられましたので、信用してしまいました」


 入国を許可した理由を尋ねられ、爾岐は苦し気にそう答えた。


「野猪。お前も同じ意見だったのか?」


「……あ、あの……、私は……その……」


 不意に月読に声をかけられ、野猪は身を固くして言葉を詰まらせた。

 彼は神の子と言われる皇子を初めて目の前にし、その存在感に圧倒されていた。


「その者は躊躇しておりました。しかし、私がそれを聞き入れなかったのです」


 少し頭をあげた爾岐は野猪の方を見て、彼の代わりに答えた。


「野猪。なぜお前は、あの者達を不審に思ったのだ」


 再び月読に尋ねられ、野猪はおどおどしながら答えた。


「剣です。いまだ銅剣が一般的だと思われる阿波国あわのくにの兵が、鉄剣を携えておりましたので」


「お前は細かいところまでよく見ているのだな」


 月読に褒められた野猪は、膝の衣を握る手に力を込めて首を左右に振った。


「いえ、私はただ、男鹿様を真似ただけで……。あの方はいつも、物事をあらゆる角度から見て判断されていましたので」


「男鹿が……」


 野猪の意外な答えに月読は息を呑んだ。

 そしてしばらく考え込んだ彼は、伊予国王の顔を見て落ち着いた低い声で言った。


「所詮見る目の無い男に、入国審査の責任者など無理だったのでしょう」


 身もふたもない皇子の言葉に、爾岐は再び床をなめるほど身を低くした。


「野猪。お前がこれからは港を守れ」


 突然月読にそう言われ、野猪は呆けたように目と口を丸くした。


「大王がここにいる限り、またいつ敵が刺客を送って来るかわからぬ。言葉通り、これからはお前が水際でそれを食い止めるのだ」


 皇子の言葉に、野猪は身を低くしてうなずいた。

 それを見ると月読は、再び爾岐の方へ向き直り、険しい表情で大男を見つめた。


「爾岐、お前の間違った判断により、数十人の兵が死傷した。辛うじて大王の身は守られたが、代償として、邪馬台国の審神者さにわである男鹿も深手を負い、いまだ意識が戻らぬ。その責任の重さは、十分感じておろうな」


 爾岐は大きな体をこれ以上ないほど小さく丸めて、震えながら何度もうなずいて見せた。

 月読の強い口調に、彼は打ち首さえ覚悟した。


「どう処分致しましょうか」


 厳しい姿勢を見せる月読に、伊予国王が遠慮気味に問いかけた。

 そんな王の顔を見て、月読は微かに表情を緩めた。


「人を見る目は無いが、その者には牛利も一目置くほどの戦闘能力があります。今回の件については、戦いに貢献することで償ってもらいましょう」


 月読の言葉に、爾岐は思わず頭を上げて皇子の顔を見た。


「そのかわり、副官の身分は剥奪し、危険を承知で最前線に赴いてもらう。そこで思い切りお前の能力を発揮して来い。よいな」


「はい! 必ずや、お役に立ちます!」


 爾岐は両手を顔の横につき、深く頭を下げて大声でそう宣言した。






 夕刻、たちばなが男鹿の寝所を訪れた。


「具合はどうだ?」


 橘の問いかけに、男鹿の枕元に座った牛利は、少しやつれた表情で首を横に振った。


「ようやく血は止まったが、まだ意識が戻らぬ」


 死んだように静かに横たわる少年の顔を、橘は哀れむような目で見下ろした。


「この子の看病は私が代わろう。おぬしは皇子様のもとへ行け」


 橘はそう言って、牛利と向かい合うように男鹿の枕元にどかりと腰を下ろした。

 彼女の申し出に、牛利は首を傾げた。

 気持ちは有り難かったが、戦において最初に派遣される傭兵を束ねる彼女に、そのような余裕はないはずだった。


「お前もそろそろ、傭兵を出陣させる準備をせねばならぬだろう」


「ああ、いいんだ。私は首になった」


 さばさばとそう答える彼女に、牛利は目を丸くした。


「傭兵の大将は、兄が務めることになった」


「爾岐が?」


「おぬしの皇子様が兄を副官から罷免し、傭兵の大将に任命したのだ。おかげで私はお払い箱さ。まあ、もともと私は、死んだ亭主の代わりを務めていただけだからな」


 爾岐が暗殺者の入国を許したことを聞いていた牛利は、「ああ」と、小さくつぶやいた。

 不意に、橘は何かを思い出したかのように鼻で笑った。


「兄貴の奴、随分張り切ってしまって。もう手がつけられん」


「?」


 副官からはるかに身分の低い傭兵の大将に降格されて、爾岐が張り切っているという彼女の言葉に、再び牛利は首を傾げた。


「私達兄妹は、貧しい農民の出でな。幼い頃両親を亡くしたため、兄が傭兵になって私を育ててくれた。そして戦で手柄を重ねて、副官の地位までのぼり詰めたんだ」


 そんな苦労をして手に入れた地位ならば、尚更つらい思いをしているだろうにと、ますます牛利は眉をひそめた。


「だが腕は立っても学も無い、育ちも良くない兄に、所詮役所仕事など水が合わなかったのだよ。それをあの皇子様は見抜いていたようだな。一度は命をもって償うしかないと思えるほど、罪の深さと無能さを責められたらしいが、最前線で能力を発揮して来いと言われて、水を得た魚のように、すっかりその気になって帰って来た」


「……月読様らしい」


 牛利はため息まじりに苦笑した。

 社会的制裁を下しながらも、本人が一番納得し、活躍できる場に月読は導いたのだ。

 その手法がいかにも彼らしいと思った。

 不意に橘が、真剣な表情を牛利に向けて座り直した。


「兄の誤った判断で、この子をこんな目に遭わせてしまった。私にもせめてもの償いをさせて欲しい」


 橘はそう言うと深く頭を下げた。

 しかし、なおも男鹿の顔を見て戸惑いを見せる牛利に、橘は力を込めた瞳を向けた。


「おぬしが今いるべき場所は、ここではなく皇子様のおそばであろう。さっさと戦を終わらせて静かな隠居暮らしをするんだろ。この子が望んでいたように」


 橘の言葉に、牛利は目が覚めたように両目を見開いた。

 その顔を見て、橘は小さく笑った。


「安心しろ。戦で怪我人の世話には馴れている。おぬしの大事な息子は必ず目覚めさせる」


 牛利は腰に挿した剣の柄を握りしめ、力強くうなずくとその場にすっくと立ち上がった。


「こいつを頼む」


 牛利は深く頭を下げ、部屋を飛び出すと、回廊を風のように駆け抜けて行った。





 祈りを捧げるため組んでいた指をほどき、壹与いよは大きくため息をついた。

 いくら戦の勝利を祈ろうとしても、男鹿のことが頭から離れず、どうしても集中することができなかったのだ。


「少し、外の風にあたって来ます」


 立ち上がった壹与は、共に祈りを捧げていた巫女達にそう告げ、祈祷の間から回廊へ出た。

 すっかり日は暮れ、部屋から漏れる松明たいまつの灯りだけが、彼女の背を橙色に照らしていた。

 彼女は欄干に手をかけ、無意識に顔を右に向けた。

 暗闇に吸い込まれるように続く回廊の先の角を曲がると、男鹿の寝所がある。

 思わず引き寄せられそうになる心を、彼女は胸に拳を当てて留めた。

 命を賭して自分を守ってくれた男鹿の思いに報いるためにも、巫女としての役目を果たさなくてはならないと自分に言い聞かせ、邪念を払うように首を振った。

 そんな彼女の背後から、若い男の声がした。


「男鹿様のおそばへ付いて差し上げないのですか?」


 振り向くと、そこには野猪がいた。

 彼は拳を握りしめ、責めるような瞳を壹与に向けていた。


「大王は、もう男鹿様のことを何とも思ってはいらっしゃらないのですか?」


 そう言って、野猪は涙の滲んだ目を手の甲で拭いた。


「月読様に再会されれば、あの方はもう用済みなのですか?」


 泣きながら強い口調で言う野猪の言葉に、壹与の心は大きく乱れた。


「……どういうこと?」


「月読様は、あなた様の初恋の方なのでしょう?」


「男鹿がそう言ったのね」


 そう言うと、壹与は顔を夜空に向けて目を閉じた。

 彼女は野猪の話の内容から、男鹿が自分から距離を置こうとしていたことを感じていた。

 黙り込んで涙をこらえる女王の姿に、野猪は静かに続けた。


「あなた様の伴侶として、月読様以上にふさわしい方はいらっしゃらないと。でも、それはあの方の本心ではありませぬ」


『……それは、本心ですか?』


 突然、壹与の頭の中に、以前男鹿が彼女に投げかけた言葉が響いた。

 それは、彼に縁談が寄せられていると知り、思わず「承諾すればいい」と言った彼女に向かって男鹿が発した言葉だった。

 あの時は、見たことがない彼の険しい表情と、手首を掴む強い力に怯えることしかできなかった。

 だが、今思い返せば、あの言葉と険しくも悲し気な表情こそが、彼の本心であったのではないかと思えた。

 次の瞬間、壹与は男鹿の寝所に向かって走り出していた。




 壹与が戸口から室内に目をやると、しとねの上に寝かされた男鹿と、その傍らで彼を見守る見慣れない女の姿が目に入った。

 女王のあとを追って、少し遅れて野猪もやって来た。


「大王……」


 兵士のような衣を身に着けた女は、突然現れた女王の姿に、一瞬驚きの表情を見せた。

 壹与はそんな女の顔から視線を男鹿へと移した。

 相変わらず彼は生死の判別もできぬほど、血の気の無い顔で静かに横たわっていた。


「……まだ、意識は戻らないの?」


「……はい」


 弱々しく横たわる男鹿の姿に、いたたまれない気持ちになって、壹与は潤んだ瞳を隠すように彼女に背を向けた。


「大王!」


 今にも逃げ出しそうな壹与を橘が呼び止めた。

 振り返った壹与の顔を見上げた橘は、訴えかけるように言った。


「しばらく、この子のそばにいてやってください。あなた様の声なら届くかもしれませぬ」





「未来の約束もできぬのに、自分のために生きてくれとは言えぬ。この子はそう言っていました」


 落ち着かない様子で男鹿の枕元に腰を下ろした壹与に、橘は少年の額に滲んだ汗を拭いながら優しく語った。

 壹与は眉間を寄せて膝の衣を握りしめ、少年の顔に視線を向けた。


「私、この人のそういうところがきらい。ふさわしくないとか、約束できないとか。そんなこと何も求めていないのに」


 しばらく睨むように少年を見ていた壹与の顔が不意に緩み、潤んだ瞳が愛し気に彼を見つめた。


「でも、そういう不器用なほど、いつも真剣なところが好き……」


 そう言うと、彼女は両手で少年の右手を包み込んだ。


「だけど、今はどんな言葉でもいい。声が聞きたい……」


 男鹿の手を自分の額に押し当て、彼女は声を押し殺して泣いた。

 絹の上掛けの上に、ぽたぽたと無数の涙の雫が落ちた。

 少年を挟んで女王に向かい合うように座る橘も瞳を潤ませ、静かに泣く少女の姿を見守っていた。

 戸口に立ったままその様子を見つめる野猪も、しきりに目をこすっていた。


 ふと壹与は、男鹿の手に微かに力が込められていることに気が付いた。

 そして、涙に濡れた瞳を少年に向けた彼女は、小さく叫び声を上げた。

 そこには、まだ夢現ゆめうつつをさまよいながら、うっすらと開いた瞳で天井を見つめる男鹿の姿があった。


「……男鹿……」


 壹与が小さく呼びかけると、彼の顔がゆっくりと彼女の方へ向けられた。


「……壹与様……。お怪我は……?」


 壹与の顔を確認すると、男鹿は途絶え気味に弱々しい声で尋ねた。


「ばか! ちょっとは己の心配をしなさいよ!」


 顔を真っ赤にしてそう言い放ち、壹与は部屋を飛び出した。


「大王!」


 その後を橘が立ち上がり追って行った。

 二人と入れ替わるように室内に入った野猪は、男鹿の枕元に腰を下ろした。


「大王は、心底あなたのことを心配されていたのですよ」


 軽く責めるように言う野猪の言葉に、男鹿はしばらく天井を見上げたまま、何かに思いを巡らせているようだった。

 やがて彼はゆっくりと瞳を閉じ、小さくつぶやいた。


「助かってしまったか……」





 回廊に飛び出した壹与は、欄干に寄りかかって泣き崩れた。

 彼女を追って来た橘は、背後からその肩を優しく包み込むように抱いた。


「……よかった……」


 身を翻した壹与は、小さな子どものように橘の胸にしがみつき、何度もそう繰り返して泣いた。

 橘もいたわるように少女の頭を撫で続けた。

 だが突然、そんな橘の目が鋭く光った。





「野猪! 来てくれ!」


 部屋の外から尋常ではない橘の声がして、野猪と男鹿は同時に戸口の方へ目を向けた。


「うあ!」


 次の瞬間、男の叫び声と共に、人が倒れる物音がした。

 思わず身を起こそうとした男鹿は、胸の激痛にうめき声を上げ、再びしとねの上に倒れた。


「男鹿様、どうかそのまま。私が様子を見てきます」


 男鹿の肩をしとねに押さえつけ、野猪はそう言うと、剣の柄に手をかけて回廊へと出て行った。




 野猪が回廊に出ると、橘が二十人ほどの見慣れぬ男達に囲まれていた。


「野猪! 大王をたのむ!」


 壹与を壁に寄せた背で庇いながら、橘は敵と刃を交えていた。

 野猪は震える手で剣を握り、壁伝いに橘の背後に近付くと、壹与の手を掴んで引き寄せた。

 目の前では次々と襲いかかる敵に、橘が巧みに剣をさばき、ばさばさと斬り捨てていた。

 それでもなお迫り来る攻撃を、野猪は悲鳴を上げながら弾き返した。


「大王! 中へ!」


 寝所の戸口に近付いた野猪は、壹与の体を突き飛ばすように中へと押し込んだ。

 室内に倒れ込んだ壹与が顔を上げると、男鹿が枕元に置かれていた剣を杖にして、立ち上がろうとしていた。


「男鹿、やめて! 今度こそ本当に死んでしまう!」


 叫ぶ壹与の前で、体を左右に揺らしながら立ち上がった男鹿の足元に、血がぽたぽたと落ちた。

 おろされた長い髪の間からのぞく瞳は、苦痛に歪みながらもまだ見えぬ敵を睨みつけていた。

 そんな彼の前に、壹与を追って一人の敵が現れた。


「なんだ、死に損ないが一人か」


 漁夫のような粗末な身なりをした男は、男鹿の様子を見て鼻で笑った。


「とどめを刺して、楽にしてやろう」


 そう言って男が振り下ろした剣を、男鹿も剣で受け止めた。

 押さえ込もうと体重をかけてくる敵に、男鹿の腕は小刻みに震えた。

 その顔は苦痛に歪み、胸元の衣には血が滲み始めた。

 やがて、自分の体がこれ以上は耐えきれないと感じた彼は、力を振り絞って男を押し返した。


「ふん。死に損ないの割には手強いな」


 男はそう言って剣を両手で握り直すと、再び振り下ろす体勢をとった。


「待て!」


 ぜいぜいと喉を鳴らせてよろめきながら立つ男鹿の前に、壹与が両手を広げて立ちはだかった。


「お前達の目的は私であろう。私こそ邪馬台国の女王壹与だ。殺したければ殺せばよい。この者は関係ない」


「壹与様……!」


 壹与の前に出てなおも庇おうとする男鹿の体を、少女は背中で押し返した。

 少女の押す力にさえ男鹿はよろめき、腰から崩れた。


「殺しはせぬ。生け捕りにしてくるようにとの王の命令だ。王の妃とするために」


「……?」


 男の言葉に、壹与の顔から一気に色が消えた。

 身を起こそうとする男鹿の表情も凍り付いた。


「邪馬台国の女王を妃にすれば、自ずと倭国は狗奴国のものになるということだ。いい案であろう」


 そう言って男は呆然とする壹与を強引に引き寄せ、首に腕を回した。

 同時に血相を変えた男鹿が、剣を片手に吠えるような声を上げて立ち上がった。


「こいつ、まだやる気か」


 殺気立った顔で剣を構える男鹿に、男は壹与の首に腕を回したまま反対側の手で剣を構えた。

 壹与には、相手が片手しか使えないとしても、今の男鹿に勝ち目があるとは思えなかった。


「その者を殺せば、私も舌を噛んで死ぬ。生け捕りできねば計画は成り立たず、お前もただでは済むまい」


 壹与は男の顔を見上げて強い口調で言った。

 男は一瞬、そんな女王の顔に見入った。


「させるか!」


 男鹿は、剣先を敵の男に向けて突進した。


「こいつ、どこにそんな力が……!」


 男は男鹿の剣を振り払うと、少年のみぞおちを膝で蹴り上げた。

 男鹿は海老のように背を丸め、その場に倒れた。


「男鹿!」


 叫ぶ壹与の首元に剣を突きつけ、男は彼女を睨みつけた。


「要望通り殺してはいない。大人しく来てもらおうか。女王様」


 男鹿は薄れてゆく意識の中、力を振り絞って手を伸ばした。

 だが間もなく力つき、その手は床にぱたりと落ちた。

 意識を失う直前、男鹿の瞳には、壹与を肩に抱えた男が窓から出て行く様子が映った。





 騒ぎを聞き月読と牛利が駆けつけた時、回廊では橘と野猪、そして数人の護衛兵が刺客らしき男達を相手に戦っていた。

 二人は言葉を発する間もなく剣を抜き放ち、男らに向って行った。

 牛利は橘が刃をからめていた男の背に剣を斜めに振り下ろし、間髪入れずに背後から襲いかかる敵を次々に斬り捨てた。

 月読も野猪のそばへ行き、彼に対峙していた男の背中を剣で突いた。


「月読様、中に大王と男鹿様が!」


 叫ぶように言う野猪の言葉に、月読は戸口に顔を向けて身を翻した。





「男鹿!」


 月読が室内に駆け込むと、左手を窓の方向へ伸ばした状態で男鹿が倒れていた。

 右手に握られた剣から、彼が一旦意識を取り戻したことは推測できた。


「何があった? 壹与は?」


 月読に抱き起こされた男鹿は、すぐに意識を取り戻した。

 咄嗟に立ち上がろうとした彼だったが、足元がふらつき、再び崩れるようにうつ伏せに倒れた。


「無理をするな」


 少年の肩をしっかりと掴み、月読は諭すようにそう言い、それを聞いた男鹿は肘を床についた体勢でうなだれた。


「……申し訳ありませぬ……。壹与様は狗奴国の男に連れ去られました……」


「なんだって……!」


「申し訳ありませぬ……。私が不甲斐ないばかりに……」


 男鹿は同じ言葉を繰り返した。

 床の上で固く握られた拳は力が込められ、小刻みに震えていた。

 月読はそんな少年の肩を強く抱きしめた。


「その体では無理だ。お前は充分、これまであの子を守ってきてくれた」


 月読は壹与を守ることができなかったことで、自分を責めている男鹿を気遣った。

 だが男鹿は大きく首を振り、より一層うなだれた。


「あの方を守るどころか、逆に命を救われてしまいました……」


「……」


「あの方を早く……! 狗奴国王の妃にされてしまいます……!」


 月読の腕にすがりつき、男鹿は訴えかけるように懇願した。

 彼の言葉を聞いて、月読の顔も凍り付いた。

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