第九話 月の神

 季節が秋めいてきた頃、吉備国で遠征の準備をすすめる月読つくよみのもとを、出雲国王が武装した小隊と麻布を被せた大きな荷車を引き連れて訪ねて来た。

 即位して以来、彼がこの国を訪れたのは初めてであったが、吉備国の人々は冷ややかな目を若い王とその一行に向けていた。

 彼らは出雲国に対して渡来人に媚びて発展した国という印象を持ち、軽蔑にも似た感情を抱いていたのだ。

 ことさら、王らしからぬ純白の裾の長い衣装と長い髪を垂らした出雲国王の姿は、彼らには奇異なものと映ったようで、誰もが怪訝な顔つきで町中を闊歩する彼を見送った。

 そんな吉備国の人々の態度とは対照的に、知らせを聞いて宮殿の門まで出迎えた月読は、笑顔で王と拳をぶつけ合い、再会を喜んだ。

 月読と共に出迎えた吉備国王は、簡単に挨拶を交わしたあと、訝し気に若い隣国の王の様子をうかがっていた。

 これまでは使者を通してのみ関わってきたため、彼にとっても本人を目にするのは初めてのことであったのだ。


「内陸育ちのそなたに、海人族あまぞくが牛耳る伊予国への遠征は心許ないと思ってな。私も同行させてくれぬか。北の荒波に比べれば、南の海など水溜りのように穏やかだがな」


 出雲国王は荷車にもたれかかって腕を組み、豪快に笑った。


「気持ちは有り難いが、そなたの留守中、出雲国は大丈夫なのか?」


 月読は王の厚意を嬉しく思う反面、一国の王が国を離れて戦に赴くということに不安を覚え、複雑な表情を浮かべた。

 そんな月読の傍らで、吉備国王は親し気に話す二人の様子を目を丸くしながら黙って見つめていた。

 王は話が通じない偏窟な男と思っていた出雲国王が、皇子を相手に快活な様子で話す様に驚いていたのだ。


「国は夕月ゆづきに任せて来たゆえ、心配はいらぬ」


「夕月殿に?」


 月読はその名の響きに胸騒ぎを覚えながらも、努めて冷静を装った。


「私の存在がなければ女王になっていたかもしれぬ者だ。憂うことはない」


 出雲国王は、誇らし気に妹である巫女の話をした。

 そして空々し気に澄まして見せている月読の顔を見て、にやりと笑った。


「そなたが惚れるほどの女だ。心配ない」


 王の言葉に月読は一気に顔を赤らめ、慌てて吉備国王の表情をうかがった。

 彼は王の娘を妻にしている手前、気をつかったのだ。

 しかし、二人より年長者の王は、微笑まし気に彼らのやり取りを聞いていた。


「私の兵も航行には馴れておりますが、海上での戦いに馴れた出雲の兵は心強い。ご同行いただいたらいかがです? 船はこちらで用意いたしますゆえ」


 吉備国王の提案に、月読は顔を赤くしたまま、頭を掻いてうなずいた。

 半島に近い出雲国では、攻め入ろうとする渡来人と水際で一戦を交えることも少なくない。

 そんな経験豊富な兵士らの同行は、確かに心強いと思われた。


「ところで牛利ぎゅうり。おぬし、大陸ではなかなか名が通っているらしいな」


 出雲国王は、続いて月読の後ろに控える牛利に声をかけた。


「魏からの渡来人がおぬしの名を聞いて震え上がっておったぞ。呉の兵相手に、百人斬りと名を馳せていたそうではないか」


 名誉なこととは思えず苦笑いする牛利に、出雲国王は珍しく真剣なまなざしを向けた。


「その腕で、なんとしても皇子を守ってくれよ」


 牛利は一瞬言葉を失った。

 殺人鬼と恐れられた自分に、敵を斬ることではなく命を守れと言う者などこれまでなかった。

 牛利は月読への態度からこの王に反感を持ったこともあったが、皇子と打ち解けてからの彼には人間として魅力を感じていた。


「もちろん、そのつもりです」


 言いながら歯を見せて笑う牛利を見て、王も安心したように笑った。


「出雲国王……」


 話しかけようとする月読を、出雲国王は掌で制した。


「私の名は覇夜斗はやとだ。これからは名で呼んでくれ」


 それを聞いて月読は微笑み、呼び名を改めた。


「覇夜斗、その荷車に積んで来たものは何なのだ?」


 月読の問いかけに覇夜斗は得意げに鼻を鳴らすと、そばにいた兵に手振りで麻布を取るように命じた。

 ばさりと音をたてて布が取り払われた荷台の上には、無数の弓矢や矛、盾といった武器が積まれていた。


「船上での戦いは距離が縮まるまでが勝負だ。まずは弓で敵の数を減らし、近付くにつれ矛で敵の侵入を阻止する。そして互いの船に乗り移ってから初めて剣がものをいうのだ。そなたらは鉄剣には不自由していない様子であったので、それ以外の武器を用意して来た」


 覇夜斗は荷台から弓と矢を一組取り出すと、馴れた手つきでそれを構えた。

 背丈以上もある大きな弓を引き、背筋を伸ばした彼の姿は、清々しいほど凛として美しかった。


「牛利よ。おぬしは弓も得意なのか?」


 覇夜斗は片目を閉じて構えた矢先を牛利に向け、不敵な笑みを浮かべた。

 その様子に吉備国王は目をむいて驚いた。

 戦以外で人に武器を向けるなど、彼の常識の範疇はんちゅうにはなかったのだ。


「いいえ、私にはこいつを振り回す以外に能はありませぬ」


 覇夜斗の性格を把握している牛利は、笑いながら腰の剣を軽く叩いて見せた。


「それなら私にも出番がありそうだな。弓には少々心得がある」


 構えていた弓を下ろし、覇夜斗はそれをそばの兵士に手渡した。


「兵も弓の名手を揃えて来た。きっと役に立つ」


 力強くそう言う覇夜斗に、月読も覚悟を決めたように目に力を込めてうなずいた。





 それからしばらくして、月読達は伊予国をめざし吉備国の港から出発した。

 先頭に覇夜斗が率いる出雲の兵を載せた第一船団、その後方を月読の率いる第二船団が続いた。

 航路をまっすぐ南に定め、連なる島々の間を縫うように進行していくと、じきに巨大な伊予之二名島いよのふたなのしま(四国)の島影が姿を現した。

 秋の高い空は晴れ渡り、海原は凪いで不気味なほど静かだった。

 途中何隻か小さな船が行き過ぎたが、いずれも漁夫が操業するものだった。

 漁夫達は巨大な船が十数隻も連なる船団を目にすると、驚きの表情を見せ、船上でひれ伏した。

 船の作りや兵士の姿から、語らずとも高貴な者が率いる船団であることが感じられたのだろう。


「静かすぎるな……」


 月読は舳先で穏やかな風を受けながら、五感を集中させて周囲を見回していた。

 これほどの船団が近付いていて、未だ伊予国が気付いていないはずがない。

 歓迎されようとされまいと、とっくに相手が姿を見せていい頃だ。

 だがいくら耳を澄ましても、船が波を切る音しか聞き取れず、必死に目を凝らしても怪しい船は一隻も見当たらなかった。

 だが、最後の島を通りすぎようとした瞬間、前を行く第一船団の兵が一斉に左舷に盾を並べ、弓を構えるのが見えた。


「敵が現れたぞ!」


 一気に周囲に緊張感が走った。

 船の側面から攻めるべく、敵は島陰に身を潜めて彼らを待ち構えていたのだ。

 しかし先頭を航行していた覇夜斗が率いる船団はそれを予測し、攻撃される前に盾で防御態勢をとったのだった。

 人の背ほどある木製の大型の盾が左舷に壁を作り、それらの隙間から無数の鏃が顔を出していた。

 姿を現した敵の船団は異国のもののような様相をしていた。

 船首部分には、赤や黄、緑など、鮮やかな色で巨大な目玉のような模様が描かれ、船体はなめらかな流線型をしていた。

 船上に目を向けると、日焼けした肌に入れ墨を施し、髪を頭頂部でひとつにまとめた男達が弓を構えていた。


「奴らは、伊予国の兵なのか?」


 息を呑みながらそう言う月読のそばで、牛利は青ざめた顔で剣の柄を握りしめていた。


「……あれは、呉の船です。なぜこんなところに呉が……?」


「呉の……?」


 十年もの間、魏との国境で呉と戦っていた牛利が彼らの船を見間違うはずがない。

 月読は予想だにしなかった事態に困惑しながらも、腰の剣に手をかけて身構えた。

 次の瞬間、第一船団と敵の船団との間の宙を無数の矢が飛び交い、互いの兵士が射られ、倒れる様子が見えた。


「あれは……?」


 左舷で始まった戦闘に奪われていた視線をふと前方に向けると、伊予之二名島の方向から新たな船団が近付きつつあるのが見えた。

 そちらの船は、月読達の船と同じく、白木の直線的な形状をしていた。


「まずい! 右舷が手薄だ。急いで前の船団の右に船を付けよ」


 彼らは慌てて第一船団の右側に船を付け、右舷側に盾を並べた。

 しかし、新たな船団は、予想に反して月読達から見て左に進路を変えると、呉のものと思われる船団へ近付いて行った。


(合流して、一気に攻撃するつもりか?)


 一瞬苦戦を覚悟した月読だったが、意外にもその船団は呉の船を弓で攻撃し始めた。

 船首側と右舷側から、同時に攻撃された呉の船団は、防衛が二方向へ分散されて隙ができた。

 その隙を突いて、覇夜斗の兵は雨のように矢を射込んだ。

 そのまま彼らは攻撃を緩めることなく、徐々に敵との距離を縮めていった。

 同様に前方から来た船団も、じりじりと呉の船を追いつめていった。

 二つの船団は、渦を巻くように呉の船団に向かって集まり、船同士が渡り合えるほどに近付いていった。

 月読が率いる第二船団は、第一船団の右舷側に平行に船をつけ、牛利に鍛えられた手練てだれの兵達が隣の船へと移動していった。

 月読も覇夜斗の船に飛び移り、剣の柄を握りしめて状勢を見守った。

 呉の兵は敵の侵入を防ごうと長槍で抵抗したが、覇夜斗の兵は矛でそれを押さえ、一層距離を縮めていった。


 やがて、剣を手にした味方の兵が呉の船へ雪崩込み、不安定な船上で刃と刃をぶつけ合う戦いが始まった。

 そんな混乱に紛れて、月読達を乗せた船にも呉の兵が次々と乗り移って来た。

 牛利は月読のそばで、主を守るべく剣を構えた。

 そして弾かれたように駆け出した大男は、突進してきた敵の刃を掬うように振り払い、一旦遠ざけると、身を翻して背後に迫っていた別の兵士を斜めに切り裂いた。間髪入れずに、再び体勢を整え直してきた正面の兵に向き直り、その胸を突き刺したかと思うと、また別方向から迫る敵へと飛びかかって行った。


「敵にはしたくない男だな」


 噂以上の超人的な牛利の身のこなしに、覇夜斗は感嘆して口笛を吹いた。

 だが感心している暇もなく、彼も次々と襲いかかる敵兵と刃を交えることを余儀なくされた。

 月読と覇夜斗は、どちらからともなく、互いの隙を埋め合うように敵の攻撃に応酬していた。

 敵と刃を絡め合う覇夜斗の背後から斬りかかろうとする兵の前に、月読が割って入った。

 迫りくる敵の刃を水平に構えた剣で受け止めると、鉄剣同士が激しくぶつかり、金属音とともに火花が散った。

 重なり合う刃の向こうには、敵の血走った目があった。


「牛利、ここはよい。敵の船へ乗り移り、味方の援護をしてくれ。必要以上に犠牲者を出したくない!」


 十字に刃をこすり合わせながら敵を睨みつけて言う月読に、牛利は動きを止めることはなかったが戸惑いの表情を見せた。

 あるじを守ることを使命としている彼は、その命令に従うべきか躊躇していたのだ。

 次の瞬間、月読は剣ごと相手を押し返し、身を屈めて懐をくぐり、背後に回り込んだ。

 そしてその背を一気に斬り捨てると、そのままの勢いで覇夜斗が交戦していた敵の脇腹を突き刺した。


「ここには覇夜斗とその兵もいる。私なら大丈夫だ!」


 敵兵の体から剣を引き抜きながら、叫ぶように月読は言った。

 以前とは別人のような動きを見せる月読に、牛利は意を決したようにうなずくと、行く道に立ちはだかる敵兵を切り捨てながら、船と船とを股に掛け、呉の船へと向かって行った。


「おいおい、よいのか? 奴に比べれば、我々の剣術など赤ん坊の遊びみたいなものだぞ」


 覇夜斗は剣を構えて月読と背を合わせると、不安気につぶやいた。


「己の身ぐらい、己で守るさ」


 月読は鋭い視線を敵の動きに定めてそう言い、なおも次々と乗り移って来る兵に向かって駆けて行った。


「顔に似合わず、血の気の多い男だな」


 覇夜斗はあきれ顔でそうつぶやき、再び表情を固めると、月読の後を追って行った。





 牛利が呉の船へ辿り着くと、伊予之二名島の方からやって来た船団の兵も、呉の船に乗り移って戦っていた。

 そこでは牛利に年と背格好が似た大男が大鉈おおなたを振り回していた。

 並の男なら持ち上げることさえ困難そうな大きな鉈を、その男は軽々と操り、次々に敵の首をはねていった。

 その攻撃力に牛利は思わず目を見張った。

 彼にとって、他人の戦いぶりに目を奪われたのは初めてのことだった。

 相手の大男も、流れるように宙を切り、確実に敵を捉える牛利の見事な剣さばきに感嘆の表情を見せていた。


「おぬし、やるな」


「おぬしもな」


 戦いながら近付いた瞬間、二人の大男は背中越しに互いを讃え、歯を見せて笑い合うと、再びそれぞれ敵に向かって行った。





 二方向から攻められた呉の船団は徐々に兵力を失い、余力のある何隻かは敗北を確信したのか、西の方向へと逃げるように去って行った。

 やがて、あたりはもとの静けさを取り戻した。

 穏やかな凪の海原には、無数の兵の遺体が浮かんでいた。

 その殆どは入れ墨をした男達のものだった。

 剣についた血を振り落とし、鞘に納める月読のもとへ、大鉈を振り回していた大男が船を近付けて来た。


「我は伊予国軍の副官、爾岐にぎ。そちらは邪馬台国の皇子の率いる皇軍か?」


 大鉈を肩に担ぎ、爾岐と名乗った中年の男は野太く腹に響く声で尋ねてきた。


「いかにも。私は邪馬台国の皇子、月読。そなたらは伊予国の船団であったか」


 月読は伊予国が敵ではないとわかり、ほっと息をついて答えた。


「月読……?」


 月読の名を聞いて、爾岐は一瞬驚いたような表情を見せた。

 そんな様子に月読が首を傾げると、彼はすぐに思い直して大鉈を下ろすと、手をみぞおちに添えて頭を下げた。


「皇子様を丁重にお迎えするよう、王より仰せつかって参りました。どうぞ、共にお越しください」





 伊予国に上陸した月読達は、王の宮殿へ通された。

 宮殿のある町の周囲には環濠(掘)が掘られ、その縁に造られた高い土塁(土手)の上には、鋭角に削られた杭が柵のように廻らされていた。

 さらに、宮殿の周りにも同様の設備があり、王の住居は二重に守られていた。

 このような様子から、この国が常に何らかの敵から攻撃される危機に面していることがうかがえた。


 謁見の間に通された月読と覇夜斗は、褐色の肌をした年配の王と対面した。

 月読が伊予国王に覇夜斗を紹介すると、王は大きく目を見開いた。


「出雲が邪馬台と共に戦うことになったという噂は、まことだったのですね」


「先ほどの呉の船団との戦い振りも、見事なものでございました」


 爾岐が王にそう報告すると、覇夜斗は照れくさそうに鼻を掻いた。


「なぜ、呉の船が我々を襲って来たのでしょうか。狗奴国は呉に支援されていると聞いたことがありますが、そのことと関係があるのですか」


 月読が尋ねると、伊予国王は大きく首を振った。


「呉に支援されているのではありませぬ。狗奴国を治めているのは、呉からの渡来人そのものなのです」


「何ですって?」


 驚く月読に王は続けた。


「我々の先祖は元来、狗奴国のある筑紫島つくしのしま(九州)を治めておりました。しかし、大陸での戦が激化し、戦いに破れて迫害された者達が、安住の地を求めて筑紫島へ押し寄せて来たのです。大陸の技術によって作られた、優れた武器を持つ彼らに、我々の先祖は祖国を追われ、この地に流れ着いたのです」


 確かに狗奴国の中心地である日向国ひゅうがのくにから、東側の海を渡れば伊予国へ近い。

 彼らの先祖がこの地に命からがら逃げて来たとしても不思議ではない。


「最近では、奴らは筑紫島だけでは飽き足らず、肥沃なこの伊予之二名島の地まで侵略しようと兵を送ってくるようになりました。戦に明け暮れる母国を捨て、移住してくる者が後を絶たず、仲間の腹を満たすために農耕に適したこの地を欲するようになってきたのでしょう」


 あの二重に張り廻らされた環濠や土塁は、狗奴国兵の侵入を防ぐためのものだったのだ。

 邪馬台国のもとで倭国の国々が結束して攻め入られては、彼らは住む場所を失いかねない。

 そのため月読達を襲って来たのだろう。

 倭国内の戦だと思っていた狗奴国との戦いは、実は他民族との戦いであったのだ。

 想像だにしなかった戦の規模の大きさに思いを巡らせ、黙り込んだ月読の顔を凝視していた伊予国王は、やがて絞り出すように語りかけてきた。


「それにしても……、あなた様のそのお名前……」


「……私の名が何か?」


 先ほど爾岐も彼の名を聞いて驚いていたことを思い出し、月読は怪訝な顔を見せた。


「失礼ながら、その名はどなたが?」


「私は生まれて間もなく両親を亡くしましたので、姉の卑弥呼が付けてくれたと聞いております」


「卑弥呼様が……」


 感慨深気な表情を浮かべて、伊予国王は黙り込んだ。


「卑弥呼とは、日の巫女の意と言われています。そんな姉を月のように影となって手助けするべく、この名が付けられたのでしょう。しかし実際は、姉は私にとって月が追い続けても決して追いつけぬ、まさに太陽のような遠い憧れの存在でした」


 苦笑しながら遠い目をして、月読は今は亡き姉に想いを馳せた。

 伊予国王は、そんな月読をまぶしそうに目を細めて見つめ、ひと言ひと言噛み締めるように語り始めた。


「我々海人族が信仰するのは、月の神、月読なのです」


「……」


「我々は時の感覚が麻痺する海上において、月の満ち欠けから日数を読んでいます。そのため月の神を月読と呼び、敬っているのです。また、月により起こる潮の満ち引きに伴い、命の誕生と死が繰り返されると信じています。我々にとっては、月こそが万物の命と時間を支配する神なのです。卑弥呼様は、いずれ海人族をも支配する王となるべく、あなた様にその名を授けられたのではないでしょうか」


 伊予国王の意外な言葉に、月読は目を見開き、言葉を失った。






「以前、そなたが渡来人によって出雲の地が倭国でなくなるかもしれぬと言っていたこと、私は今になって、初めて真に理解できたかもしれぬ」


 謁見の間を後にし、夜の帳が下りた回廊を歩きながら、月読は並んで歩く覇夜斗に語りかけた。

 宮殿の周りを覆う草間からは、秋の深まりを伝える虫の音が響いていた。


「海に面していない邪馬台の地にいては実感がなかったが、私が想像していた以上に倭国は危機に瀕しているのだな」


「私も狗奴国を治めているのが渡来人だとは気付かなかった。鉄の取引で彼らと言葉を交わすこともあるが、倭国の言葉を話し、見た目も我々と何ら変わらぬ。何代も倭人として暮らしていれば、もう渡来人と呼ぶべきではないのかもしれぬ」


 覇夜斗は真面目な表情でそう語り、夜空を仰いだ。


「だが、我々の倭人としての魂を冒涜し、この国を我がものにしようとする者達を受け入れるわけにはいかぬ」


 覇夜斗の言葉に月読は大きくうなずいた。長く渡来人と共存してきた彼の言葉には、説得力が感じられた。


「それにしても、そなたの名が神のものであったとはな」


 覇夜斗は一転して、からかうような笑顔を月読に向けた。

 月読は頭を掻きながら苦笑した。そんな彼の顔を見て、覇夜斗は再び真面目な表情になった。


「しかし改めて思えば、神の末裔といわれるそなたにふさわしい美しい名だ。神託に頼らず、かといって倭国らしさを失うことなく、これから我々がどう生きていくのか。先の見えない闇の中を、そなたが唯一照らす月明かりなのだ」


 そう言って覇夜斗は、青白く輝く月を静かに見上げた。

 月読も秋の夜空を見上げ、叶わぬことと知りながら、卑弥呼に自分の名を付けた真意を尋ねてみたいと思っていた。





 同じ頃、牛利は爾岐に誘われ、彼の寝所で酒を酌み交わしていた。

 船上で呉の兵と共に戦った時にお互いを認め合った彼らが、心を開き合うのに時間は要さなかった。


「年や背格好が似ているらしく、これまで渡来人によくおぬしと間違えられ、恐れられたぞ」


 豪快に笑いながら、爾岐は牛利の盃に酒を注いだ。


「それは迷惑をかけたな」


 牛利は一気に酒を喉に流し込み、小さく笑った。


「とんでもない。名誉なことよ。百人斬りの牛利と間違われるなど」


 空になった盃に再び酒を注ぎながら、爾岐は愉快そうに笑った。

 その呼び名を快く思っていない牛利は、少し表情を曇らせて苦笑した。

 そんな牛利を見て、爾岐は少し神妙な顔つきになって言った。


「お互い、好きで人を斬ってきたわけではないわな」


 牛利は盃を唇に運びながら鼻を鳴らして笑った。

 多くの場合恐れられ、これまで対等な立場で語り合える仲間がなかった彼にとって、爾岐との出会いはこの旅の大きな収穫だった。


「ところでおぬし、ねんごろな女はおらぬのか?」


 突然、話題を変えて来た爾岐に、牛利は思わず口に含みかけた酒を吹き出した。

 彼はむせながら口元をぬぐい、やっとの思いで答えた。


「……昔、妻を亡くして以来、独り身だ」


「それはいかんな。これほどのいい男であるのに」


 爾岐は真剣な表情で腕を組み、牛利の顔を見つめた。


「妻は生涯で一人と決めている。あとは遊女あそびめでもあれば充分だ」


 努めて落ち着きを取り戻し、澄ました顔で再び盃を傾ける牛利の肩を抱き、爾岐は語りかけた。


「我々はもう若くない。次の戦がおそらく最後の戦いだ。隠居してからの独り身は寂しいぞ」


 牛利は少し迷惑そうに眉間に皺を寄せ、爾岐の顔を見た。

 彼は弥鈴みすず以外に妻を迎える気など、まったくなかったのだ。


「私には唯一の肉親である妹がいる。戦で夫を亡くした出戻りだが、もらってくれぬか? 妻にせずとも、側女でもかまわぬ。兄として将来を案じている。おぬしのような男にもらってもらえれば安心だ」


 真剣に訴えかけてくる爾岐に牛利は閉口した。

 この無骨な大男が、その妹のことを誰より大切に思っていることがひしひしと伝わり、邪険にはできぬと感じていた。


「気持ちは有り難いが、次の戦いで私は皇子をお護りするため、命を差し出す覚悟でいる。おぬしの大切な妹を、再び未亡人にすることはできぬよ」


 それは牛利の本心だった。

 狗奴国との戦いに際して、未練を残しそうなものは何も抱えたくなかった。

 これで彼としては遠回しに断ったつもりだった。


「では、戦を終え、無事帰還した暁にはもらってくれるか?」


 だが爾岐は、鼻があたるほど顔を近づけ、嬉々とした表情でそう切り返してきた。

 思いがけない反応で詰め寄られて、牛利は戸惑いながらも思わず小さくうなずいていた。


「よし! なんとしても、次の戦いは勝って還ろうぞ!」


 牛利の肩を抱く手に一層力を込め、嬉しそうに酒をあおる爾岐の顔を見て、牛利はしばらく呆気にとられていたが、ふと我に返ると、ため息をつきながら苦笑した。

 そして、心の中で弥鈴の面影に語りかけていた。


(弥鈴、お前以外の者を妻とすることを認めてくれるなら、戦から生きて還らせてくれ。そうでないのならお前のもとへ連れて行ってくれればいい)


 だが、牛利の中の弥鈴の面影は、ただ優しく彼に微笑みかけるばかりで、何も語ろうとはしなかった。

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