ラムダラムダ
木本雅彦
第一章
その病院には、エレベータが二基ある。片方は外来や見舞いの客が主に使い、片方は裏手にあって、医師や看護師などのスタッフが移動したり、入院患者が売店に買物に行ったりするために使われている。
俺——
俺は次のフロアに移動した。内科だ。同じように廊下を歩く。こっちは外科ほど混んでいないようで、空きベッドがちらほらと見える。ナースステーションの横を歩いていたら、腕時計が振動した。『当たり』だ。周りに人がいないことを確認して、踵を返して廊下を戻る。
男性用トイレに入り、ここでも他に人がいないことを確認し、掃除器具置き場からバケツと洗剤を出してきた。バケツに水をため、洗剤を入れてよく溶かす。
「これじゃあ足りない。リアリティ」
水が綺麗すぎるのだ。俺は雑巾を濡らし、洗面台の掃除を始めた。ほうら、ぴっかぴか。いや、掃除が目的ではなく、掃除して汚れた雑巾をバケツで洗い、汚れた水が目的だ。汚水の入ったバケツの縁に雑巾をかけたら、ほらほらなんとも自然な掃除のおばさんの忘れ物。
俺はバケツの取っ手を握り、トイレのドアから廊下に顔を出し、左右を二度確認し、そっと外に出た。他の人への影響が小さいように、廊下の中でもオーラの弱い片隅を選んでバケツを置く。そこから離れて角を一つ曲がった階段に降りる陰のところで、じっと様子を伺う。
待つこと五分。廊下の向こうから、中年女性看護師が歩いてきた。人の良さそうなおばちゃんだ。俺はさも階下から上がってきたばかりという顔をして、廊下に出て歩き出す。もちろんバケツがある側だ。おばちゃんと会釈を交わしてすれ違う。よし、ここまでは普通の人。そして二秒後にはバケツから一メートルと間合いを詰めて、床を蹴って一気に全力で命懸けで、前のめりに前のめる。
ガラガラガシャンという音とともに、バケツに顔を突っ込んだ。中の汚水が辺りに飛び散り、バケツ仮面と化した俺はその汚水を飲んで、リアルでマジで飲んで、盛大に咳き込んだ。そりゃ洗剤なのだから、咳き込むのも当たり前だ。それどころか、そんなもんを飲んだら、命が危ない。洗剤の説明書にだってお子さまの手の届かないところにって書いてあるくらいだ。そして俺はまだ未成年で一皮剥けてさえいないお子さまだ。そりゃあ危険ってものだ。
ごほごほごほごほごほ、つーか、おえおえおえおえおえおえおえ。
吐く。予想以上にきつい洗剤液のダメージに、吐く吐くこれ絶対吐くと思いながら、廊下でのたうち回っていたら、ようやくさっきすれ違ったおばちゃん看護師が助けに来てくれた。
「ちょっと、あなた、大丈夫?」
おえおえ。
「いま先生呼んでくるから。あと水持ってくるから飲みなさい、とりあえず薄めないと」
さすが適切な処置だぜ、おばちゃん。
そして俺は診察室に運ばれた。
そうこなくっちゃ。
医者は軽く言い放った。
「んじゃ、胃洗浄しますから」
げろげろ。
とは言え、仕方がない。計画通りとは言え、やらないと死ぬとは言え、あんまり気が進まないけれど。どっちにしても、俺は演技でなくずっとぐったりとしていたので、治療は医者にされるがままだった。意識があるのが、サイコーに不幸だ。
胃洗浄は本当に死ぬかという思いだった。しないと確実に死んでたけど。こういう時に、中性洗剤ってのは、中和しようがないから困るよな。ホントかよ。
結局俺は、点滴を受けながら一晩入院していくことになった。もちろん計画通りだから、異存はない。健康保険証も携帯しているしな。
「さて。次。いや本番」
ベッドの中でつぶやいた。
点滴のために片腕はあまり動かせないが、残りの半身の自由は効く。ベッド脇に無造作に置いておいたショルダーバッグを、ベッドの中に引きずり込んで、頭から毛布をかぶった。
バッグから携帯端末と無線LANカードを取り出して、電源を入れる。ふむ、感度は良好、暗号もかかってない。腕時計は嘘をつかないね。さすが特注品。支給品だけどさ。
病院という場所は情報化が遅れていることで有名だが、それでも予算があって情熱を持った若手医師がいる大きな病院などでは、医療情報のデータベース化が進んでいて、カルテや
ベッドの中で端末を操作し、フロアのネットワークをスキャン。とりあえずトラフィックを眺めると、巡回の医者がカルテを参照するのに、無線携帯端末を使っているらしいことが分かった。ふつうこの手の環境で攻撃対象を探すには、アドレス解決や名前解決のパケットからネットワーク内のホストの情報を集めて、アクセス傾向やホスト名からデータが集まっているサーバを特定するのだが、その手間がまるごと省けそうだ。医者の携帯端末がアクセスしているカルテサーバを重点的に調べれば良いのだから。
胃洗浄したかいがあったというものさ。
とりあえずサーバのサービスを一通りスキャンするが、まあログインは無理だろうな。じゃあDBプロトコルの脆弱性の路線だな。……はい、ビンゴ。このパターンの脆弱性なら既にスクリプトがあるし、スキーマに至っては携帯端末から流れているのをそのまま使えばいいだけだ。あとはデータベースから自分の端末にデータを流し込むだけのこと。
「回診の時間です」
部屋の入り口で看護師の声がした。そりゃそうだ。今まさにその回診の通信内容を盗み読みしているんだから。俺はスクリプトが走ったままの端末を鞄に放り込んで、ベッドの下に戻し、毛布から首を出した。
さっき俺に胃洗浄をかましたばかりの医者が、点滴の様子をチェックして脈を取る。
「どうですか? まだ気分が悪いですか?」
「いや、順調。すげー順調」
順調にダウンロード中ですがな。
「そうですか。まあ夕食は普通に摂っても大丈夫でしょう」
医者はニコニコしながら去っていった。もちろん俺もニコニコと見送る。サンキューな。
どうやら隣のベッドもその医者の担当らしい。カーテンの向こうから次の往診の様子が聞こえてきた。
「お母さんの体調は快方に向かっています。先日の検査でも、ほとんど正常値でしたし」
「はい」
隣人は付き添いに娘がいるらしい。
「問題なのは心のほうですね。いまだに返事をしませんか」
「私たちも話しかけているんですけどねえ」
看護師が割り込んだ。なかなかに複雑そうな隣人だ。
「母は、朱雀の方角に三十三タリオンの距離を置いています。彼の地で幸福に暮らしているようです。戻ってくるには少しばかりのエネルギーが必要で、五百十二段の階段を上り、新たな盾を手にしてから帰路につくつもりなのでしょう」
「それは大変だね。あなたは、そんなお母さんを待つつもりなんですね」
「それが、私が精神の幹たるラムダラ様の意志であるのなら」
「そうですか。まあもうしばらくは様子を見ることにしましょう」
医者は次の部屋に移っていった。
おいおい、隣人どころか、隣人の付き添いのほうが病人なんじゃないのか?
病院食ってのは、実は噂で言うほど悪くない。少なくとも俺はそう思う。
巷に溢れる毒にまみれた食べ物の数々に比べたら、なんと健康的なことか。しかし足りない。明らかに、十八歳の若い身体には物足りませんよ。
しくしくと、早くも哀愁を漂わせつつある胃袋を押さえながら横になっていたら、看護師が隣のベッドを訪れた。
「
「あ、お願いします。すいませんすいません」
「いいわよ。じゃあ簡易ベッド、用意するわね。準備しておいてあげるから、お風呂入ってきなさいよ。もう他の患者さんは入り終わったから」
「すいませんすいません。こんな私のことを、ラムダラ様は許して下さるかしら」
「それは私は分からないわねえ。私はその神様とお話しできないからねえ」
「どうなのかしらどうなのかしら」
隣の娘の気配が、いや正確にはぶつぶつと呪いの呪文のように自問する声が、俺のベッドがあるブースを通過して外に出ていった。
俺は仕切りのカーテンを少し持ち上げてみる。簡易ベッドを広げる看護師のおばちゃんと目があった。
「あら、胃洗浄のお兄さん。どう大丈夫?」
「快調。すっかり快調。それより、さっきの何?」
「ああ、あの子のこと? 可哀想と言えば可哀想なのよねえ。まだ高校生なのに」
おばちゃんは広げたベッドをぱんぱんと叩いて言った。
そして横のベッドの上の女性に視線を投げる。俺もつられて見てみたが、その女性の目は天井に向いたままで、なるほど昼間の会話のように何の反応もしていないように見えた。
「高校生。父親は?」
「それが亡くなったばかりなのよ。しかも自殺でねえ。そのショックでお母さんが心も身体もおかしくなっちゃって、ここに運ばれてきたってわけ」
「どっちかっつーと、あの子もやばい」
「まあねえ。でも、宗教みたいなのについては、病院は口出しできないしねえ。輸血させないとか、そういうのならこっちも困るけれど、そういうのはないしねえ」
「だからって泊まる必要は?」
「借金取りが来るそうなのよ、家のほうには。お父さんが友達の保証人になっていたとかでねえ。でも不思議なのよね。お父さんが自殺した理由って、借金じゃなくて過労による神経症らしいのよねえ。だから、労災申請を出そうと思えば出せて、その補償金で借金を返すこともできて、そのために親戚の人が走り回ってくれてはいるみたいなんだけど、なんせ唯一まともな娘でさえあの調子なんで、色々困っているみたいよ」
「ふーん。コンプリケイティッドって奴」
「よかったら話し相手になってあげて。と言っても、あなたは明日には退院でしょうけど」
「金か、ねえ」
さあ、と肩をすくめて出ていった看護師と入れ替わりのように、付き添いの娘が戻ってきた。初めてちゃんと顔を見たわけなんだが、なんだ意外と可愛いじゃないか。
髪が濡れているのが三割増しくらいに見せているのだろうとは思うけど、細身で小柄で、何よりも目が澄んでいる。
あー、そうか。借金取りね。こんな子が下手に借金取りに捕まったら、割と悲惨かもな。親戚の人がわざと逃がしているのかもしれない。
「なあ、あんた」
タオルで髪の毛を挟むようにして乾かしていた娘が、俺のほうを振り返った。
「あんた、名前、何?」
「……友田
「なあ、明美。あんた、もしかして当座の金に困ってたりしないか?」
「お金は流れる水だから、血液だから、ラムダラ様の意志のままに生まれて流れて消えていくの」
ラムダ? ラムダネットワーキング? いいや、相手にしないのが吉だ。
「アルバイトだ。現金。日払い。明朗会計。待ったなし。つーっても何も危ないことはない。家に籠もって仕事ができる」
「家にはバリアがないから。私もまた朝日の昇る金星十二度の方角、五十タリオンの距離の先にある階段を、一段一段と丁寧な足取りを繰り出して、上り詰めたところで新たな盾を得られるのです。そうして初めて家が故郷へと再帰するの」
「そっちは大丈夫だ。俺が話しをつける。俺の上の人の力を借りる。あんた、家に帰れ」
「ラムダラ様は、時間というものの尺度を与えてくれます。星と方角を見るように私に言いました。私に与えられた尺度は、星の動きによります」
「難しい話はいらねえ。イエスかノー。二者選択」
明美は首を斜めに傾けたりしながらしばらく考えた後、
「はい」
と答えた。
「オッケ。これで話は成立だ。明日を待て。今日は寝ろ」
俺はそれだけ言って、カーテンを閉めた。カーテンの向こうでは、「偉大なるラムダラ様のお導きにより」とかなんとか、寝る前のおまじないが始まっていたが、俺は気にせずに眠りに落ちた。
「はい、問題なし、帰っていいですよ」
午前の回診でそう言い渡されて、俺は晴れて家に戻ることになった。もっとも最初から二泊以上するつもりはなかったが。
点滴の後がかゆかったりするのを我慢しつつ、荷物をまとめていると、隣のベッドの横に座った明美と目があった。なんだか心配そうに、こちらを盗み見ている。
俺は鞄を肩にひっかけて、親指を立てた。
「また来る。待ってな」
アイルビーバックってな。
アパートに帰宅した俺は、とりあえずシャワーを浴びて着替えた。みそぎは終了。
携帯電話の住所録の一番に入っている番号に発信する。
「
相手は俺の上司っつーか、雇い主だ。
「例のバイト、一人見つかった。マシンは俺のを貸す。それと頼みがあるんだけど」
俺は明美についての事情を、知っている限り伝えた。バッグから端末を取り出して、ネットワークにつなぎ、机の上のマシンからその中身にアクセスした。カルテデータベースには、当然明美の母親の情報も入っていて、俺はそのレコードを龍見さんに送信した。
「よろしく」
さて次は宝探しだ。押し入れから段ボール箱を三つほど引っ張り出し、埃を掃除機で吸ってから蓋を開ける。五分かかって古いノートPCを見つけだし、十分かかってバッテリー、十五分かかってACアダプタを発掘した。電源を入れてOSが立ち上がるところまで確認し、バッグに詰める。最後に引き出しに並ぶPHSカードの一枚を取り出して完了。
再び病院に向かった。
「あら、おかえりなさい」
看護師の言葉に、冗談じゃないと答える。まあ相手が冗談で言っているのは分かっているし、実際冗談であってほしい。
携帯電話がぶるっと振動したのを感じて開くと、龍見さんからのメールが入っていた。
——借金の件は片付きました。大した額ではなかったので、うちで肩代わりしておきました。どうせ労災認定が下りれば戻ってくるのですから、問題ありません。
メールだってのに丁寧な人だ。この人はきっと、一年中ネクタイを絞めているような人なんだ。
まあいい。
顔を上げたら、今にも何か言いたそうな顔をしている看護師と目が合って、あわてて携帯の電源を切った。電波でいかれるようなすげえ機械がこの界隈に転がっているのかどうかは知らないが、マナーはマナーだ。俺はマナーも携帯するマナーマンなんだ。
今度は本当に見舞い客ですよという顔をして病室に入ったら、明美は見舞いで貰ったらしい花束から花を一本ずつ取り出して、丁寧に花びらをちぎっては投げちぎっては投げ。ベッドの上はビジュアル系バンドのPVと化してましたとさ。パンクだな。
「あんた」
俺はバッグからノートPC一式を取り出すと、花びら舞い踊るベッドの上に並べた。もちろんその下には、物言わぬ彼女の母親が天井を見つめて横たわっている。
「仕事の道具。持って家に帰れ。話はついた」
明美は花を持ったまま、ノートPCと俺の顔を行ったり来たりと見比べている。俺は親切にもノートPCの蓋を開けて、見せてやった。
「パソコン。これで仕事するんだ」
そしたら明美はキーボードの上に花を添えて、両手を合わせてナームー。
仏壇じゃねえっての。
そしてぽつりと、
「わかった。ありがとう」
つぶやいた。
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