「おい、福浦じゃねーか」

 そんなとき、前方から声がかかった。そちらを見ると、店の入り口に知らない男子高校生が四人、どこかせせら笑っているふうな様子でじっとこちらを見つめている。

「……知り合い?」

 紫帆が少しだけテーブルに身を乗り出し、声を潜めて翔琉に尋ねる。小さく頷いた翔琉はテーブルの下の手を白くなるほど握りしめ、そのまま俯いてしまった。

  ――あ、こいつらが前に言ってた北園中の……。

「にしては、なんかあいつら……」

 康平がピンとくるのと、彼らと翔琉の様子を見比べた友井がそう言うより早く、四人は康平たちのテーブル席の前に顔を連ねる。胸に校章が刺繍された揃いのワイシャツに、揃いのネクタイ。揃いの制服のズボンに、揃いのエナメルバッグがこちらを見下ろした。

 口々に「久しぶりだなあ」「元気してた?」「この前の県総体でも一位だったな」「やっぱ福浦はどこに行ってもすげーんだなー」と久しぶりの再会を喜ぶような言葉をかけていくが、やはりその声や態度からは、どう安く見積もっても不快感しか湧かなかった。

「……あ、ああ、おれらは聖櫻の陸部で、おれは三年の部長の友井。こっちはマネージャーの藤沢で、同じ三年。福浦の隣は一年の戸塚っていうんだ。よろしくな」

 気を取り直した友井が、なんとか場の空気を変えようと順番に紹介していく。紫帆が一応、簡単にだがぺこりと頭を下げたので、仕方なく康平もそれに倣う。

 けれど、雰囲気は良くなるどころか、あからさまに白けていく。

「おれらも陸部っすよ」

「福浦とは同級生で、部活も一緒で」

「走りを買われて途中入部してきたんですよ。あっという間にエースになって。な?」

「そうそう。おかげでおれら、今の陸部でも〝あの福浦翔琉〟と同級生だったってだけで先輩たちからめちゃくちゃ期待されてて。部活がきつくてなんないっすわー」

 彼らは、体よく空いていた、通路を挟んで隣のテーブル席につくなり、こちらに身を乗り出すようにしてヘラヘラ、ニタニタと気味の悪い薄ら笑いを浮かべたのだ。

 まるで、翔琉と一緒にいるやつを見つけたら言ってやろうとあらかじめ用意していた台詞のように。絶妙な間と見事なバトンパスで、こちらが口を挟む隙さえ与えず。

「って言っても、先輩たちからしたら、おれらごときじゃ役不足ってやつっすよ。早い話がハズレくじを引かされたようなもんなんすから、期待外れ感が痛いのなんのって」

 そして自分たちで自分たちを卑下し、なにがおかしいのか、最後は声を上げて笑った。

 大きかろうと小さかろうと、下品な笑い声はそれだけで容易に耳に残って離れない。言っていることは特に翔琉を攻撃しているようなものでもないはずなのに、彼らが醸し出す雰囲気が、その笑い声や態度が、なにより翔琉の蒼白しきった横顔が。彼らが翔琉をどんなふうに思い、どんなふうに責めてやろうかと考えていることを如実に裏付けている。

 彼らの目的は、おそらくひとつだ。

 こいつに仲間意識を持ったって無意味だ、だって誰よりも速い化け物だから――それをなにも知らない康平たち三人に印象付け、と同時に過去をほじくり出して翔琉に恥をかかせるつもりなのだろう。それこそが、雨で客足も鈍く空席が目立っているにも関わらず、彼らがわざわざ康平たちが座る隣のテーブルに腰を落ち着けた理由だ。

 きっと、翔琉の周りに親しそうな人間がいる機会を窺っていたに違いない。

翔琉がひとりでいるところでも、複数人で囲めばそれなりの効果はある。けれど、周りに人がいれば、その効果は計り知れない。だって知られたくないことを知られてしまう可能性が大きくなるのだ。翔琉にとってそれは苦痛以外のなにものでもない。

 そして彼らは、翔琉や友井たちの様子を見て、まだ知らないと直感したのだろう。まるで重箱の隅をつつくようにネチネチ、グジグジと、暗に〝翔琉のせいで試合で走れなかった〟ことを示し、自分たちこそ可哀そうなんだと被害者面をしている。

 なんてクズなやつらなんだ。ぐっと奥歯を噛みしめながら、康平は思う。

 翔琉に短距離の才能があったのは、翔琉のせいじゃない。

 試合で一度も走れなかった康平にだって、彼らの気持はわからなくもないけれど。正直わかるところだらけだけれど。でも、恨んだり妬んだり、ましてやそれらを自分たちの都合のいいように捻じ曲げて正当化するなんて、性根が腐っているとしか思えない。

 中学時代、あれだけ翔琉を傷つけたというのに、まだ足りないのだろうか。

 それでも陸部に入っているのは、単なる腹いせか、逆恨みか、それとも県内の大会で顔を合わせたときになにか言うために陸上を続けているのか。はたまた、本当は陸上が単純に好きだからなのか。どれにしても、あまりに幼稚で、不快で不愉快で、意地汚い。

「あ、そうだ。部長さん、知ってます? 福浦の東北大会の結果。棄権ですよ、棄権。おれらを差し置いて試合に出まくってたっていうのに、急になんなんすかね」

「各県でもけっこう話題になってるみたいですよ。特に宮城の田上なんかは『高校に上がったら急に腑抜けになってて、福浦にはガッカリさせられることしかない』なんて優勝インタビューで答えてて。新聞にも記事が載るようなそんな場で、しかも名指しであそこまで言われるなんてどうなんですかね? 聖櫻としてヤバくないです?」

 それでも彼らは攻撃の手を緩めない。ご丁寧にスマホで記事を呼び出し、その画面をこちらに向ける。そして、決まって最後は耳にも心にも不快な下品な笑い声を立てる。

 しかも、友井も紫帆も露骨に嫌な顔をしたり顔を背けたりして聞く耳を捨てているのに、気づいていながらお構いなしだ。というか、聖櫻としてヤバいって一体なにがだろうか。そうやって不必要に不安感を煽る真似をすることこそ、人としてヤバいだろうに。

 あまりの腹立たしさと翔琉への侮辱の数々に頭がどうにかなりそうだ。

「え、だから? それがなんなわけ?」

 するとそこに、静かな、けれど場の空気を一掃するような声が響いた。いよいよ堪忍袋の緒が切れ、バン‼とテーブルを叩いて立ち上がろうとした矢先のことだった。

 けして大きくはないその声は、それでも十分に彼らの耳にも康平たちの耳にも届き、全員の顔が一斉にそちらを向く。テーブルを思いっきり叩こうとしていた康平の手は寸前のところで止まり、テーブルの面すれすれの中途半端な形で空中に置き去りになった。

 そこには、もうとっくに帰っているはずの中村や川瀬や、二、三年生の部員の顔がほぼコンプリート状態で並んでいた。どうやら考えることは似たり寄ったりだったらしく、夕飯前にちょっと小腹を満たそうと、康平たちや彼らより先に中に入っていたようだった。

 男子高校生は、いくら食べても常に腹が減っている生き物だ。雨のためにほとんど筋トレしかできずに部活が早く終わったからとはいえ、腹の空き具合にそう大差はない。

 驚きに目を瞠る康平たちに構わず歩み寄った中村たちは、通路を塞ぐようにして席の前に立つ。向こうは立っていて、こちらは座っているぶん、物理的な迫力が増す。

「こんなやつら相手に部長の先輩が言い返せなくてどうすんですか」

 中村が言う。

「さっきから聞いてりゃ、負け犬が遠吠えしてるだけじゃねーか。なあ、一年坊主」

 そう言うのは、やや迫力に欠けるが川瀬だ。

「棄権したからってなに? そんなに悪いことなわけ? こんな記事が出てるからって聖櫻うちのなにがヤバいの? なあ、誰かおれらにわかるように言ってくんない?」

 畳みかけるように言い、親指で自分の後ろを指すのは副部長の桑原拓篤くわはらたくまだ。縦にも横にもデカい桑原は聖櫻で唯一の槍投げ選手であり、言わずもがな、常に腹が減っている自分たちの倍の勢いでよく腹を空かせている。

 やはり食べる量も倍で、近い体型は小兵力士だろうか。とにかく、その体格は日々の食べ物の賜物と言っても過言ではないだろう。

「……」

「……っ」

 そんな桑原を筆頭に総勢八人の大所帯で見下ろされた彼らは、さっきまであれほど饒舌だった口を軒並み閉じた。悔しそうに顔を歪め、下唇を噛み、顔を背ける。

 言い返せないのは、思わぬところから聖櫻の部員が出てきて虚を突かれたことと、きっと彼ら自身にもなにがヤバいのかわかっていないからだ。ずっとひとりだった翔琉に今はこんなにも仲間がいて、無条件に庇っていることにひどく驚いたのもあるだろう。

 ところ変わればなんとやら、とはよく言ったものだと康平は思う。四人が四人、見事なアホ面を下げて言葉を失くしている様は、見ていてとても気分がよかった。

「福浦となにがあったのかは知らないけど、福浦の様子を見てれば、おまえらが勝手に恨んでるようにしか見えねーよ。負け犬が寄ってたかってアホらし。そんなんだからおまえらはハズレくじなんじゃねーの? とにかく、そっちの先輩たちにも言っとけよ、福浦はもうおまえらの仲間じゃなくて〝おれらの仲間〟だからって。わかったら負け犬は負け犬らしく尻尾巻いてとっとと帰れ。福浦をバカにするやつはおれらが許さねーぞ」

 凄みを利かせて言った桑原の台詞に、さすが桑原先輩は威圧感が違う、と康平は内心で舌を巻いていた。残念だが、友井や康平ではそうはいかない。いくら同じ台詞で追い払おうとしたところで、どうも格好がつかずに逆に凄まれるのがオチだろう。

 走り高跳びや長距離ランナーは、ひょろ長いほうが向いているのだ。その点、槍投げは体つきががっしりしているほうが体重が乗ってより遠くへ槍を飛ばせる。競技の特性がそうさせるのか、体型によって向き不向きが決まるのか。とにかく、ぱっと見ただけで『強そう』と思わせる風体は、敵にすると勝ち目はないが味方となると頼もしくてならない。

 そんな桑原に最後のダメ押しを食らった四人は、聞こえよがしに「福浦のくせに」とかなんとか捨て台詞を吐いて去っていった。それはまるで本当に尻尾を巻いて退散していく負け犬ようで、店に入ったのに注文もせずに店員を困らせていた彼らには、これ以上ないほどのうってつけの姿だった。これでもうこの店には恥ずかしくて入れないだろう。

 べつに店員に顔を覚えられたというわけでもないだろうが、精神的に出禁を食らったようなものだ。目撃者もいる。どちらに非があるかは一目瞭然と言えるだろう。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る