■7.〝おれはこんなに楽しいんだ〟って顔で走ってやれ 1

「で、事情を知っている私たちに事前通知ってわけね。まあ、それは構わないけど、結局行き着くところはひとつしかないんだったら、わざわざ遠回りなんてしないで、はじめから最短ルートを選べばよかったじゃない。こういうときにつくづく思うんだけど、男の子の考えることって、なんだかたまに突拍子もなさすぎてアホに見えるよ」

「おい紫帆、それじゃあおれもアホに見えてるってことじゃねーか。……と、まあ、部活前ミーティングの時間を使うのは、おれもべつに構わないし、いよいよかーって感じだけど。みんながどう思うかは正直おれにも想像がつかないってことだけは、先に言っておこうと思う。特に短距離と長距離種目のやつらの反応は、どっちに転ぶか運次第なところがあるかもしれない。みんな、昨日の福浦の棄権で気持ちがどっか浮き足立ってるんだ。そこに本当のことを言えばどうなるか、ちょっとわからん。もし、おれたちはただ利用されてただけだったんだって思ったとしたら、おれには擁護できないかもしれない」

 昼休み。

 紫帆と部長の友井を呼び出し、部室前の廊下で事情を話すと、歯に衣着せぬ物言いの紫帆にとりあえずといった様子でツッコミを入れた友井は、複雑に表情を曇らせて言う。

 部員として三年の付き合いにもなれば、お互いに性格を把握しているのだろう。アホと一括りにされても特に気を悪くしているふうもない友井は、紫帆が塩っ辛いのは元からだからという許容範囲が、やはり付き合いのぶんだけ広くできているようだった。

「……まあ、陸部としても福浦を利用させてもらうって言っておいて、あれだけど」

 そして、申し訳なさそうな苦笑。友井は本当に人がいい。後輩相手に大きな態度に出るようなこともないし、言わなくてもいいようなことも、ぽろっと言ってしまう。

「友井君、そんなこと言ってたの? 呆れた。だから男の子ってアホなのよ」

 その途端、紫帆が心底冷めた目で友井を見やる。

「売り言葉に買い言葉ってやつだって。だってちょっと生意気だろ、挑発されたから挑発し返しただけだし。だいたい、そこまで本気で利用しようなんて思ってねーよ」

「どうだか。『福浦翔琉が聖櫻に入ってきた』って一番喜んでたのは友井君じゃない。ほかのメジャーな部にばっかり新入生が行っちゃうのが悩みの種なのは私も同じだけど、福浦君だって選ぶ権利は平等なんだよ? それを毎日毎日、陸部に入ってくれって頼みに行って。私はある意味、福浦君を利用しようとしてるように見えてたけど、違った?」

「いや……正直、福浦がいれば陸部が強くなって、部員もたくさん集まるかも、って考えなかったわけじゃないけど……。なんだよ、そこまで言うことないだろ……」

「ほら。やっぱりそうなんじゃない」

「……紫帆怖ぇえ……」

 そして、この有り様だ。友井がしどろもどろになりながらも精いっぱい釈明するが、いとも簡単に言い負かされてしまい、部長としても男としても面目丸潰れである。

 つーか、もう付き合っちゃえばいいのに。ふたりを見て、康平は思う。

 そう思うのはきっと、ふたりが並んでいる姿や距離感がとてもしっくりきているからだろう。部長はいつ告白するんだろう、なんて野暮な詮索をしている場面ではないのに、意識して口元を引き締めていないと思わずぷっと吹き出してしまいそうだ。

 前に翔琉に面白半分で冷やかされたこともあり、康平は実際に紫帆をどう思っているんだろうと考えたことがあった。が、ふたりの息の合った様子を見ても特になにも思わないことから、紫帆を〝先輩マネージャー〟として慕う気持ちしか持っていないことが証明された。翔琉に意味のわからない優越感が湧いて、ちょっとばかり鼻が高い気分だ。

 ただ紫帆は、右足首と心に消えない傷を抱えている。あれからずいぶん経つのに、まだ動揺したままなのだろうか。ハイソックスの下に隠れたアキレス腱の傷跡が今もなお目に鮮烈に焼き付いて離れなくて、康平の胸にツキンとした痛みをもたらす。

 こうして友井とじゃれ合う姿は、どこからどう見ても普通の女子高生なのに。そのことを思うと、ふたりの微笑ましさに笑ってしまいそうだった口元は途端に力を失くした。

 おそらく友井は、足首のことを知っているだろう。知らないのは翔琉だけだ。誰も隠すつもりはないだろうが、わざわざ言うことでもない。きっとそういうことなのだ。

「それも覚悟の上ですよ。康平と駅伝をやりたいっていうのがおれの本心ですから、誰になにを言われても、この気持ちだけは偽るわけにはいかないんです」

 すると、その翔琉が凛と通る声で話を本筋に戻した。一瞬にして場の空気ががらりと変わり、紫帆と友井は翔琉に視線を移し、康平も反射的に背筋が伸びた。

 ――そうだ、おれたちはふたりに部活前ミーティングの時間を貸してもらえないかと頼むために呼び出したんだ。はっとすると同時に、康平はふたりに口火を切る。

「もちろんおれだって覚悟は決まってます。それに翔琉は、長距離にもすごいものを持ってるんです。そのことは、まだどこの部活にも入ってなかった頃、高松の池の遊歩道を一緒に走ってたおれが一番よくわかってます。部活のみんなにも必ずわかってもらいます。だって、トップスピードをどんどん上げても必ず付いてくるんですよ。それも、歩幅も歩調も、なんなら息遣いや腕の振りだってぴったり合わせて。テレビでマラソンや駅伝大会を観ても、そんな選手はいないじゃないですか。単純にほかの選手の脅威になると思うんです。翔琉のこの特徴は、長い駆け引きが必要な駅伝でこそ花開くと思いませんか」

 一息で言いながら改めて思い返してみると、途端に全身が恐怖で粟立つ。

 勝負を持ち掛けられて、こてんぱんにしてやるつもりで乗った七キロ勝負。ラスト数百メートルでようやく引き離したと思った。しかし、すぐ近くに翔琉が走っていた。

 あの恐怖は、実際に体験したやつじゃないとわからないと思う。知っている康平ですらいまだに得体の知れない薄ら寒さのような感覚を覚えるというのに、手の内を知らない他校の選手なら、それはなおさらだ。それを聖櫻の武器にしないでどうするんだと思う。きっと、何度やっても毎回同じように恐怖する。試合のたび、その恐怖が付きまとう。

 誰をターゲットに翔琉がその特徴を発揮させるかは、言い換えればロシアンルーレットのようなものだろうか。初めて七キロ勝負をしたときは、もちろん康平しかターゲットはいなかったが、本番のレースとなると事情は変わる。誰が狙われるかわからない恐怖は、そのうち〝要マーク〟として警戒されるようになるかもしれない。そうなれば、県内で右に出る者はいない一学を打ち負かせる可能性だって、もしかしたら見えて――。

 というのは、さすがに気が早いと言わざるを得ないけれど。でも必ず、翔琉にしかないこの特徴が聖櫻の大きな武器になることだけは断言できる。そのことに悔しさを感じないわけではないが、長距離においても翔琉はそれだけのセンスを持つ逸材なのは間違いない。

「……そんなことって」

「あるの……?」

 対して友井と紫帆は、顔を見合わせながら半信半疑に問う。紫帆はもともと短距離が得意だったし、友井は走り高跳びが専門だ。信じていないわけではないだろう。ただ、そう簡単に自分自身で体験できるようなものではないので、その点で不安なのかもしれない。

 翔琉のその特徴は、お互いの体力が限りなくゼロに近くなってからが、いよいよ本領の発揮どころなのだ。そのためには自ずと、相手も翔琉と同等か、もしくはそれ以上の実力者でなければ実際に体験することは叶わない。残念ながら友井や紫帆では役不足だろう。

 康平は、そのことがひどくもどかしい。でも、七キロ勝負の際の康平のように、まさにリアルタイムで翔琉のその特徴を感じないことには、どうしようもない。

「でも、おれたちに嘘をつく必要も理由も……な?」

「そうなんだよね。戸塚君がそう言うなら、きっとそうなんだろうし……」

「! ありがとうございます!」

 複雑そうな顔で目を見合わせるふたりに礼を言いながら、けれど康平はそれでも実際に体験してもらえないことが残念でならなかった。でも、こればっかりは、そうなんだと思ってもらうしかないのだ。恐怖すら覚える驚異的な翔琉のラストスパートは、本当の本当にラストじゃないと最大限の効力を発揮してくれないのだから。

「――じゃあ、まあ。とりあえず、みんなが集まったら、おれが福浦と戸塚から話があるって話の水を向けるから。それからのことは、おまえらで頑張ってくれよな」

 そのとき体よく昼休みが終わったチャイムが鳴り響き、友井はそう締めくくると「また部活で」と言って踵を返した。その隣を当たり前に紫帆が並んで歩いていく。

「部長のあれ、もうほぼほぼ紫帆さんが好きだろ。どうすんだよ、こーへー」

「さ。おれらもさっさと戻るべー。部活までにもう一度、気持ち固めておかなきゃな」

 ふたりの姿が曲がり角に消えると同時にかけられた茶化す気満々の翔琉の声には無視を決め込み、康平も足を校舎に向かわせる。その後ろを翔琉がちょこちょこ付いてくる。

 鉄は熱いうちに打てと言う。昨日の今日で陸部のみんなが翔琉が土壇場で棄権した理由を知りたがっている今こそ、正直になにもかもを打ち明けるチャンスだろう。


 *


 かくして、放課後。

「今まで隠してて本当にすみませんでした。昨日のレースを棄権したのも、これ以上はどうしても自分の気持ちに嘘はつけないと思ったからなんです。おれが本当にやりたいのは駅伝です。康平や川瀬先輩や、助っ人に入ってくれる人たちと聖櫻の襷を繋ぎたい。その気持ちしかないんです。みなさんが嫌な思いをするのはわかってます。その覚悟で話してます。けど、おれ、本気なんです。そのことを、どうかわかってくださいっ」

「お願いします。翔琉とおれには駅伝しかないんです。それに翔琉は、長距離にもすごいものを持ってるんです。だから、どうかおれたちにレースを走らせてください。必ず証明してみせます。おれたちをここに……聖櫻陸上部に置いてくださいっ」

 昼休みの打ち合わせどおり、部室に全員が集まると友井が話を切り出してくれ、康平と翔琉はそれぞれ、めいいっぱいの思いを部員たちにぶつけて頭を下げた。途端、水を打ったように静寂に包まれる部室内は、屋根に打ち付ける雨音だけが断続的に響いてくる。

「……おれは正直、心強い気持ちのほうが今は強いかもしんないです。戸塚からは、自分が駅伝をやりたいから福浦に協力してもらったって聞いてたんで、福浦もやりたかったことには驚いてますけど。でも思い返せば、校内マラソン大会のときだって、春先に駅伝部を作るって走り回ってたときだって、福浦は戸塚以上に、いい顔をしてたんですよ。あれだけ騒げば、どうしたって目に入るじゃないですか。ただでさえおれらは〝あの福浦翔琉が聖櫻に入ってきた〟って目を輝かせてたわけですから、そのときは気づかなくても、今思い返して思い当たるところは、みんなそれぞれあるんじゃないでしょうか」

 ややして、最初に口を開いたのは川瀬だった。

 誰もがどうリアクションを取ったらいいか測り兼ね、探り合う空気がそこかしこに蔓延する中、おずおずと手を上げ、床に体育座りをしたまま川瀬は一息に言う。

「それはおまえが長距離をやってるからだろ。おれは今、頭の中がぐちゃぐちゃで、気持ちはわかる部分だってあるけど、実際はどうしてそうまでして駅伝なんだってわからない部分も多い。いきなり頭を下げられても、ぶっちゃけ整理が追いつかねーよ」

 それに異を唱えたのは、短距離チームの二年、中村勇利なかむらゆうりだった。

 先の県総体では、一〇〇、二〇〇とも予選、準々決勝、準決勝、決勝と勝ち上がっていくうちの準々決勝で惜しくも敗れている。花形種目の4×100メートルリレーではリザーブに回り、レースは個人戦の二本のみと悔しい結果に終わっていた。

 部員の総数がもともと少ない聖櫻では、エントリーすれば全員が個人戦に出られる。けれど、リレーは速い者が選ばれるのはどこの学校でも同じだ。三年生ふたり、二年生ひとり、一年生に翔琉ともうひとりという短距離チーム五人のうち、その日はレースの結果や体の動き具合を総合的に判断した似内が、中村をリザーブに回したのだった。

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