康平は翔琉のことを、おれとは根本的に心の構造が違うんだと思っていた。違う人間なんだから当たり前だけど、才能があるとかないとか、なにに向いていているかとかも関係なく、ただ真っ直ぐに〝自分のやりたいこと〟に本気になれる心の造りをしているやつなんだと。けれど実際の福浦翔琉は、実はそうでもないのかもしれない。

 未知のことに踏み出す怖さ、実際にひとりで走ってみて初めて知った孤独。自己流で練習を積み重ねてきたことへの不安、勝てる見込みはゼロでも勝負をするその気持ち。

 ――その全部に、康平も覚えがある。

 昨日、南波には結束力に飢えていると言われたが、本当にそのとおりだと思う。ひとりでは誰とも結束できない。結束のしようがない。ひとりきりで走っていると、その孤独が不安と直結する。笑ってしまうくらいに。泣きたくなるくらいに〝ひとり〟なのだ。

「やっとわかったか」

 フンと鼻で笑ってやりながら、康平はその鼻の奥がどうにも痛かった。徐々に真上の星がぼやけて見えて、それが恥ずかしくて俯くと、込み上げるものを必死でこらえる。

 きっと、ずっとずっと〝誰かと走る〟ことに飢えていたんだと思う。

 競い合えるやつがいる嬉しさ、苦しいときに声をかけ合える頼もしさ、誰かと一緒に走ることで分かち合える、様々な気持ち……そういうものに、ひどく、ひどく。

 それらをやっと共有し合える相手が翔琉というのが、やっぱりまだ少しだけ気に食わない気もする。でも今は、ようやく楽になれた気持ちのほうが、ずっとずっと大きい。

「遅ればせながら」

 少しの呆れを含んで薄闇の向こうから返ってきた声は、どこまでも優しかった。


 それからふたりは、場所を青山駅の構内に移した。夕方のこの時間は発車時刻を待つ周辺の高校の生徒で賑わい、朝と同様、一時的に人口密度が過密化する。

 その待合室に康平と翔琉はいた。聞けば利用する駅が同じなのだという。翔琉は盛岡駅を中心に見て北の厨川くりやがわ方面、康平は南の矢巾やはば方面と、まったくの別方向だが、盛岡以北を走るIGRいわて銀河鉄道で登下校するところは、どうやら一緒だったらしい。

 そういえば、翔琉の北園中って県北のほうだったっけ。

 ごま塩がよく言っていた〝北園中の福浦翔琉〟や〝あの福浦翔琉〟ばかりが頭に強くインプットされていたため、そのほかのことにあまり意識が向かなかったが、確か厨川よりもう少し北にある中学だったはずだと、薄ぼんやり記憶がよみがえってくる。

 ただ、同じ県内に住んでいながら、県営運動公園や陸上競技場、ここ数年は甲子園でもベスト16やベスト8入りを果たすくらい強くなった盛岡大付、盛岡中央高校がある厨川以北のことは、よくわからない。路線図を見ると、目時めときが終点で、それ以降は青い森鉄道線や八戸線に引き継がれるようだが、そうなるともっとわからないのが現状だ。

 鉄道って果てしねえなぁ……。

 それが駅舎に入って座れる席を探していたときに思ったことだった。

「――でね! だからおれは、康平と一緒に走りたいと思ったんだよ」

 それから十数分、自販機で買ったジュースを飲みながらしたのは、もっとも謎だった、なぜ翔琉は康平のことを知っていたのか、という話だった。興奮気味に語り終わった翔琉に「わかった」と返事をしながら、康平はこの十数分を頭の中で整理する。


 翔琉が康平を知ったのは、中学二年の県中総体のときだったという。午前中の予選を一位のタイムで通過していた翔琉は、昼休憩を早めに切り上げ、午後からの決勝に向けてアップをとろうと、顧問に断りを入れて会場の県営陸上競技場の外へ出ることにした。

 そのときふいに目に入ったのが、歩道を走る康平の後ろ姿だったらしい。境江二中陸上部と背中に大きくプリントされた紺色のジャージが、瞬きをするごとにみるみる遠くなっていくのを見て、すごい長距離選手がいるんだなと思ったのが最初だったという。

「あ、ねえ、境江二中にめちゃくちゃ足の速い長距離選手がいるじゃん。もちろん、これからレースに出てくるんでしょ? 何年のなんて名前の人?」

 決勝後、翔琉はたまらず食いつくように聞いた。決勝でよく顔を合わせる、境江二中の馴染みの選手だ。翔琉に次いで二位でゴールしたその選手は、不思議そうに首をかしげ、

「……長距離? うーん、そこそこ速いやつなら、まあ。でも、めちゃくちゃって言うなら、ウチの部員のレベルじゃ、まだまだなんんじゃねーの? みんな頑張ってるけど」

「え」

「だって、ウチは短距離には強い選手が集まるけど、長距離ってなると、なかなか人が集まんないから。なに、ウチにいるとして、そいつがどうかした?」

 訳がわからないといった顔で逆に聞き返してきた。

「そう……、いや、こっちの話」

 てっきりこれから行われる長距離種目に出てくるものだとばかり思い、自分のレースそっちのけで期待を膨らませていたが、彼の口ぶりからもわかるとおり、どうやらそのレースには翔琉が見たい選手はもともとエントリーされていないようだった。

 ……じゃあ、さっきのあれは、なんなんだ? あれだけ速かったのだ、どこかけがをしていて出場を見送ったわけでもないだろう。なんで? すげーもったいないやつ。

 顔馴染みとはいえ藪から棒な質問をされたことと、翔琉のあまりの落胆ぶりに気もそぞろで走っても一位でゴールしたらしいことに少し気分を害した様子で「は?」と腰に手を当てる境江二中の選手に、翔琉は慌てて「ごめん、ありがとう」と愛想笑いを返す。

 けれど翔琉は、それからもしばらくの間、首を捻り続けることとなった。

 やっと誰なのかわかったのは、競技会が終わり、ぞろぞろと競技場を出る頃だった。

 ちょうど、そう遠くないところに境江二中の陸上部員たちが一塊になって歩いている姿が目に入った。よっぽど近くの学校でないかぎり、各学校でバスを借りて会場まで出向くのが普通だ。彼らも自分たちも向かうのは駐車場だった。その塊の後方から「康平」と声がかかり、「なんだよ」と振り向いたのが昼間の彼――康平だったというわけである。

「おい福浦、なにやってんだよ!」

「あ、すみません……」

 思わず駆け出しそうになったが、先輩に厳しく止められ、それは叶わない。

 結局、その日は「康平」という名前らしいことしかわからず、それからの翔琉は大会のたびに康平の姿をフィールドに探ようになっていった。レース前、スタートラインから応援席を見上げながら。それ以外のときは、ほかの部員の応援をしながら。いつ康平がレースに出てくるか、どんな走りを見せてくれるか、期待と興奮を存分に募らせて。

 けれど――。

 最後の大会が終わっても、康平がフィールドに立つことはとうとうなかった。それが翔琉はどうしようもないほど悔しく、勝手だが、ひどい裏切りにあったような気分だった。

 なんで短距離じゃなきゃダメなんだ、どうして自分の才能を見ようとしないんだ。

 失望と焦燥感が募り、それが次第に怒りに変わっていく。その思いをぶつけた東北大会や全国大会は、今までになく体がよく動いた。でも、どれだけ速く走れても、ただただ虚しい。幻を追いかけているような虚しさが、いつまでも翔琉の胸を占めていた。

 そこで翔琉は、ひとつの決意をする。

 ――おれが康平の才能を引きずり出してやる。

 その頃にはすでに翔琉は、康平は短距離を専門にやっていること、しかしタイムが縮まらず長距離に転向しないかと顧問から話があったらしいことを把握していた。線の細い体つきをしていることもあって、体重や筋肉を増やす目的で自主練をしていることも。

 なんでおまえがそこまで康平のことを? と、ひどくわけがわからない顔をしていた顔馴染みの境江二中の選手とほとんど無理やり番号の交換をして集めた情報だった。

 もともと翔琉は、友達とバレー部に入っていて、五月の体育祭でクラス対抗リレーのアンカーを務めたときの走りっぷりを見た陸上部の顧問から熱烈な誘いを受けて陸上部に転部した経緯がある。だから、康平には悪いが短距離から離れることに未練はなかった。

 福浦は絶対に短距離に向いている、だからウチのエースになってくれ。

 そう何度も誘われたから渋々はじめた感覚だったのだ。言えば康平からは間違いなく拳が飛んでくるだろう。でも、当時の翔琉は本当にそんな軽い気持ちで走りはじめたのだ。

 とはいえ、いざ本格的にやってみると、タイムが縮めば単純に嬉しかったし、それが評価されて大きな大会にも出られるようになれば、いろいろな意味で練習に身が入った。

 それでも全国には翔琉より足の速い選手なんてごろごろいて、これでもかと実力差を体感したし、悔しい思いもたくさんした。彼らと対等に戦うための練習はとても厳しいものだったけれど、指導に熱を入れる顧問に食らいつくようにして、康平も練習を重ねた。

 そうしていつの間にか、県内の中学生短距離走者の間では〝北園中の福浦翔琉〟や〝あの福浦翔琉〟なんて呼ばれるようになるまでに箔が付き、現在に至る。

 ただ同時に、短距離に関してはやりきった感も否めなかった。それとリンクするようにして、あの日に見た康平の後ろ姿が脳裏にチラチラ浮かび、胸を震わせた。

 ――康平は絶対に、長距離でこそいくらでも伸びる。

 そこで思いついたのが駅伝だった。

 ただ長い距離を走るだけでは、また個人単位で競い合うことになる。きっとそれでは、三年間頑張ったけどダメだったという康平の自信を取り戻すことはできない。でも、どうしても康平に走ってほしかった。あの一瞬で目を奪われた走りをまた見たかった。

 そうして、長距離でこそ伸びる康平をどうしたらまた陸上の世界に呼び戻すことができるだろう、どうしたら長距離を走らせることができるだろうと考えたとき、真っ先に頭に思い浮かんだのが、母校の襷を繋いでゴールを目指す駅伝だったのだ。

 前々から駅伝を観るのが好きだった。それに、駅伝には短距離にはない魅力が腐るほどある。特に区間ごとの襷リレーは見ている者の心を大きく揺さぶる。

 それを康平とおれでできたなら――。

 そして康平が、この高校――聖櫻せいおう高校を受験すると言う話を顔馴染みから聞き出した翔琉は、全部の推薦を蹴って、入学式の帰り、教室の戸の向こうから声をかけた。

『おれと駅伝部作って大会出てくれない?』

 二年間、片想いをしてきた相手に。ずっと違う土俵で燻ぶり続けていた康平に、もう一度走ってもらうために。その康平と襷を繋ぎ合う〝仲間〟として一緒に走るために。

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