第拾九章




ー拾玖ー




 黒いスポーツカーは闇に溶け込むように疾走り、やがて廃ビル近くにある空き地に線を引いただけの簡素な駐車場に停止した。

 停車し息を吐き出す。湧き上がる怒りを深呼吸で無理やり抑えつける。

 運転席から降りて周囲を確認。住宅の明かりがぽつりぽつりと灯っており、しかし網の目のように四方に走る路地には人の姿は無い。物音も無い。電柱に付けられた外灯が道を点々と照らしているだけだ。

 後部座席のドアを開ける。未来が顔を上げる。状況を理解できていない彼女は、これから何をされるのかと怯え、涙で濡れた赤くなった眼を向けた。

 それを無視し彼女を縛っていた足の拘束を解く。それを見た未来の眼に、解放されるかもという淡い期待が宿った。

 だが直後に彼女の栗色の髪が掴まれた。際限なくこみ上げる怒りと苦しさを彼女にぶつけるようにして外に引きずり出し、無理やりに立たせる。


「~~っ!」


 ガムテープの下から悲鳴が上がる。ドア部で足首を打ち、アスファルトで膝を擦って血が滲んだ。だがすぐに髪を引っ張られて強引に上を向かされると未来の瞳に怒りに満ちた犯人の顔が映った。

 そして首元に突きつけられる金属の感触。それが意味するものを瞬時に察して未来は体を強張らせた。


「……騒ぐな」


 月明かりに反射した光が如実に殺意を示す。未来は震えながら小さく何度も頷いて従順の意を示す。死にたくない。識也と離れたくない。それが叶わぬ願いだと未来は思っていたが、それでも微かな可能性に縋って今は犯人の言われるがままに口を噤む。

 彼女が黙ったのを確認すると犯人は首を掴んで廃ビルへと向かった。半ば引きずり、乱暴に未来と共に廃ビルの中へ進んでいく。中は暗く静か。足元も覚束無い程で、床材が貼られる前の土の地面に未来は足を取られて転びそうになるも、先程の刃物が脳裏にちらついて必死で耐える。


(しーちゃん……助けてよ)


 識也なら何とかしてくれる。何の根拠もなく未来はそう心の中で繰り返した。そうしていなければ恐怖で壊れてしまいそうだった。

 犯人はそんな未来に目もくれず奥へ進んでいく。窓枠に貼り付けられたビニールシートが風にはためき、そうしてできた隙間から微かな月明かりが淡く世界を染めている。

 その時、ゴウ、と強く風が吹き込んだ。月明かりを隠していたシートが剥がれ飛び、鮮やかな月明かりが幾つも筋状に差し込んで二人を照らし出す。


「やっと来てくれましたね」


 そして響く声。月明かりの青白い光に照らされ、識也がゆっくりと姿を現した。

 細められた眼差しは鋭く、対象的に口元には不敵な笑み。識也は大仰な身振りで両手を広げて歓迎の意を現し、執事の様に深々と一礼した。


「みず、さき……?」

「ええ、水崎です。お待ちしておりましたよ――」


 識也はニコリ、と笑う。そして、相対する者の名を口にした。


「――音無先生」


 風が吹き込み、被っていたフードが飛ばされる。雑に束ねていた音無の黒髪が広がり、艶やかなそれが月明かりに反射した。


「まさか、お前が……?」

「ええ、そうですよ。音無先生が都筑未来を誘拐したのと同じように、僕の方でも先生の大切なものを奪わせて頂きました」


 まさか識也が盗み出したとは想像もしていなかった音無は言葉を失う。だがすぐに未来を引き寄せると手にしたメスを未来の首に押し当て識也を睨めつけた。


「一体どうやって私の家に忍び込んだ」

「簡単な事ですよ」識也はポケットから鍵を取り出してみせた。「先生のご自宅の鍵で開けただけです。事前に合鍵を作っておいたんですよ」

「いつの間に……!

 そうか、つまり、君は」

「ええ、知ってますよ。先生が伊藤しずるを殺害した犯人であることも、それ以前にも何人もの女性の首切り死体を作り出した殺人犯である事も。そして――四年前の最初の殺人の事も、ね」


 音無は切れ長の眼を見開き、奥歯を強く噛み締めて識也を睨みつけた。手にしているメスを強く握りしめて思考を巡らせる。

 音無の頭の中は如何に識也を殺すかで占められていた。自分の欲望を知られたからには生きて返すわけにはいかない。殺し損ねて逃げられてはダメだ。そのためには一撃、ただの一撃で確実に急所を一刺ししなければ。幾分荒い呼吸のまま、識也が隙を見せるタイミングを伺っていた。

 識也はそんな彼女の心中を察していたが、滲み出る殺人の気配に臆した様子をおくびも見せず小さく笑ってみせた。


「随分とお怒りの様ですが、悠長にしてていいんですか?」

「なに?」

「大事な先生の想い人―― 一ノ瀬 薫いちのせ かをるさんは長く保ちませんよ?」


 その言葉に音無はハッと我に返った。頭から一気に血の気が引き、普段の彼女からは想像できない大声を張り上げて識也に詰め寄る。


「薫は、薫は何処だ!? 早く……早く彼女を返せ! じゃないと――」

「落ち着いて下さいよ、音無先生。ああは言いましたが、まだ大丈夫です。ちゃんとドライアイスで冷やしてますからそこまで慌てなくても大丈夫です。

 ですからまずはお互いに約束を果たしましょう。

 先に、未来を返してください」


 要求され、音無は脇で固めたままの未来を見下ろし、識也と顔を交互に向ける。ここで彼女を解放してしまえば逃げられてしまうかもしれない。せっかく手に入れた待望の女性。それを手放すのは惜しいし、逃げられて警察に駆け込まれれば多くを失ってしまう。社会的な死など惜しくはないが、これまで集めた女性の肉体と未来を失うのは耐え難い苦痛だった。しかしながらこのまま交渉に応じなければ、薫を永久に失ってしまう。それこそ、想像もしたくない。

 葛藤で音無は身動きが取れない。そんな彼女を見透かした識也は軽くため息を付き、背中を押してやる。


「別にそう警戒しなくてもいいですよ。別に先生の事は警察に通報したりもしないですし、この事をネタに強請るつもりもありません」

「……それを信じろというのか、君は?」

「信じてくれて結構です。どうやって僕と未来を殺そうか考えてるのでしょうけど、僕だって殺されたくはありませんし、警察で事情聴取を受けるのも面倒なんです。

 僕は音無先生がどんな趣味を持っていようが興味はありませんから。僕は未来とこの先も一緒に過ごせれば、それだけで十分なんですよ。未来にさえ手を出さなければ、先生の好みに合致した女の子を何人殺そうが首を斬り落として肉体を愛でようが干渉はしません。他人なんてどうだっていい。好きにしてもらって結構です。ああ、もちろん先生がヘマをして警察が事情を聞きに来ることが万一あったとしても知らぬ存ぜぬを貫き通しますよ」

「……」

「僕と先生は今日出会わなかった。何も起こらなかった。そういうことです。

 なあ、未来?」


 識也が同意を求めると、未来は口を塞がれたまま勢いよく何度も頷く。音無は識也の視線と未来の眼を覗き込み、眉根に深い皺を寄せて考え込む。識也の表情は揺らがない。それを見て音無は、識也が本心からそう言っているのだと感じ取った。


「……分かった。水崎、君を信じよう」

「ありがとうございます。話が分かる人で良かった」


 音無が未来から手を離した。未来は音無を一度見上げるも、すぐに識也へと走っていった。


「おっと」


 胸の中に飛び込んできた未来を識也は抱き留めた。嗚咽が聞こえ、制服越しに彼女の温もりが微かに感じられる。それは、未来が生きている証拠だ。


(やっと……)


 やっと未来を取り戻した。彼女の柔らかな髪、そして暖かい頬。胸に押し付けられた眼から零れた涙が識也の制服に染み込んでいく。未来の頭を、愛おしそうに抱きしめた。


「……約束通り彼女は返した。薫を返してくれ」

「ええ、分かってます。

 未来、悪いな。もうちょっとだけここで待っててくれ。終わったら拘束もすぐに解いてやるから」


 未来の頭を名残惜しそうに引き剥がし、識也は微笑みかける。涙に濡れ、悲しそうな瞳を彼に向ける未来だったが、小さく頷くとその場に座り込んだ。


「お待たせしました。こちらです。足元が少し悪いので気をつけてください」


 優しく未来の頭を撫で、識也は音無を誘導していく。十メートル程歩いていき、そこで脚を止めて音無へと振り返った。


「どうぞ、こちらです」


 識也が示した場所。そこには人が一人くらい横になれる程の大きさで、長方形に地面が掘られていた。そしてその中に横たわる――首なしの死体。


「薫……!」


 その死体を認めると音無の両眼から涙が零れ落ちた。左手に握っていたメスが地面に落ち、感極まった様子で口元を覆った。

 彼女は穴の中に飛び降りると震える手で死体の肩を抱き上げる。識也が告げたように穴の中にはいくつもドライアイスが並べられていて、死体は酷く冷たい。だがそれも気にせずに音無は死体の体をそっと抱きしめた。


「薫、薫……! ああ、良かった……無事で良かった……すまない、もう傍から離さないからな……!」


 まるで生者に語りかけるかのように謝罪を繰り返し、音無はすでにあちこちに傷の入った死体を抱き、撫でていく。頬を伝った涙が死体を濡らし、再会を心から喜んでいた。

 泣きじゃくる声が静かな廃ビルに木霊する。識也は一度息を吐き出し、ゆっくりと音無へ近づいた。彼女の背後に回り、膝を突く。そして音無の首にするりと腕を回した。

 先程、未来に対してしたのと同じように音無の艶やかな黒髪を撫で、頬を包み込んで優しく涙を拭った。


「音無先生」

「水崎……?」

「僕の為に――ありがとうございました」


 そして――識也の左腕が勢い良く引かれた。

 瞬間、音無の首からおびただしい血が噴き出す。飛沫は識也の顔半分を赤く染め、瞬く間に音無の足元に血溜まりを作り上げた。


「み……ず、さき……?」


 壊れた機械のようなぎこちない動きで振り返る。出血の勢いは収まる事を知らず、音無の体と一ノ瀬 薫の凍った死体が見る見る間に赤く染まっていった。彼女の瞳には、朗らかに笑みを浮かべた識也の姿が映っていた。


「貴女の愛した人と、誰にも邪魔されない場所でお眠りください」


 彼女の瞳から光が消えていく。驚きと絶望に染まっていた彼女の顔から恐怖が消え、微睡むような穏やかさが広がっていく。口角が緩やかな弧を描き、穏やかな笑みが浮かんだ。天を仰ぐように顔は空に向けられ、一ノ瀬 薫の死体を抱いたまま体が傾いでいく。


「――」


 力をほぼ失った喉が微かに震えた。掠れた音が確かに空気を振動させ、だがそれも刹那。柔らかい土の上に倒れた音でかき消されて識也に届くことは無かった。

 そして、音無は一ノ瀬 薫の所へと旅立った。


「…………はぁ」


 溜息と共に識也の口から深い溜息が吐き出された。途方も無い疲労感を覚え、何気なく額に手を当てるとぐっしょりと自身の汗と音無の血で濡れていた。力の抜けた指先から、音無が持っていたものと同じメスが滑り落ちて一度真っ直ぐに突き刺さり、倒れる。

 識也は項垂れ、取り出したハンカチで顔の汗と血を拭っていく。そしてもう一度溜息を零しながら音無の死体を見下ろした。

 識也の掘った穴は彼女ら二人を送るための棺だ。真っ赤な血が黒い土に染み込んでいき、その上で並ぶ音無と薫の死体。彼女の表情は今際の際に浮かべた穏やかな、何かから解放されたかのような喜びと安堵に満ちた笑みであり、両腕は強く、もう二度と手放さないとばかりに薫を抱きしめている。そして神のいたずらか、或いは偶然の産物か、凍りついていた薫の両腕もまた音無の体を抱きしめるように彼女の背に回されていた。

 決して識也は音無の事を想って殺したわけでない。ただ純粋に自らのエゴで殺した。だが、そんな二人の様子を見ていると何処か救われたような、羨ましいような気持ちになった。


「……これでようやく終わる……」


 落としたメスを拾い、布を巻いてポケットに仕舞う。そして手袋を装着し、音無が落とした方のメスを拾い上げると音無の腰の辺りに慎重に落とした。これで音無 望のが出来上がりだ。かつて、自分が殺してしまった恋人を儚んで自死を選んだ様に見えるだろう。そうであって欲しい。でなければ、ここまで慎重に事を進めた意味が無いのだから。


「……貴女が未来を選ばなければ、いつかは共通の趣味を持つ友人となれたかもしれませんね」


 そう口に出して、すぐに識也は頭を横に振った。

 識也が音無に対して波長が合うと評したとおり、彼女もまた社会不適合者サイコパスだった。識也が愛するように、彼女も真に愛するのは死体。違いは、愛した場所が頭部か肉体かの違いだけだ。それだけに互いを知れば趣味を同じくする無二の親友と成り得たが、しかし決して口外できない趣味だけに自分と音無が交じり合う事は無かっただろう。


「たぶん……先生も僕と同じだったんでしょうね」


 ここからは全て識也の推測に過ぎないが、彼女が自分の異常な性癖に気づいたのは恐らく薫を殺害してしまった時だろう。識也が未来を殺されてその大切さに気づいたように、生きた一ノ瀬 薫という存在を失い自らの心の奥に秘めていた欲望を知った。それが偶然の事故なのか、はたまた喧嘩の末に激昂してしまった結果かは分からない。だが後者だろうと識也は思っている。

 殺害された伊藤しずるの顔は酷い暴行の跡があった。それは肉体の綺麗さに比べて余りにも対照的だ。

 木梨教諭の話では、音無の両親は彼女に対して厳しかったとの事だった。家でかなり口汚く罵られたりしていたのかもしれない。それは音無 望の心の中でトラウマとなって残った。

 自分に向かってぶつけられる言葉の刃。それを発している口や思考する脳というのは彼女にとって嫌悪の対象でもあった。上手くいっている時は顕在化しないが、一ノ瀬 薫との間で口論となった時、きっと薫から強く感情をぶつけられ、結果発作的に薫を殺害してしまった。その推測が正しいかは最早知る由も無いが、識也の頭の中ではその時の情景が生々しく展開されていく。

 思わず恋人を殺してしまい、呆然とする音無。だがそこで彼女は気づいた。気づいてしまった。


(失ってから気づくものもあるんですね)


 木梨教諭に語った彼女の言葉が蘇る。あれは、一ノ瀬 薫を心から愛していたという事と、彼女の死体を生前以上に愛してしまったという事の二つの意味があったのだ。自分を傷つける事の決してない死者が、ただただ自分の求めに応じてくれる物言わぬ女性らしさだけを残した肉体が何よりも大切であったのだ。

 識也は薫の死体を見下ろした。たぶん、音無はここまで何度も彼女の抱擁を受けていたのだろう。エンバーミング処理を行い、普段は冷凍保存をしているといっても「劣化」は否めず遺体のあちこちに傷がある。

 それでも薫の肉体は生前の女性らしい――母性が溢れる体つきを保っていた。忍び込んだ音無の自宅にある他の死体も、伊藤しずるも、そして未来も共通しているのは胸がそれなりに大きく、痩せすぎず女性的で柔らかさな肉感を持っていた。

 きっと音無は求めていたのだ。優しくて自分を包み込んでくれるような、彼女が理想とした母親的な役割を果たしてくれる肉体を。その役割を担っていたのは薫の肉体だったが、唯一無二のそれは度重なる抱擁に少しずつ傷み、日常的に「愛情」を享受することができなくなった。

 だから音無は殺人を繰り返した。彼女の代わりと成り得る女性を求め、しかし余りにも薫のそれが理想的すぎた。他の女性では代わりにはなれず、束の間の慰めになるばかり。彼女を思うように抱けない切なさは募り、やがて未来に眼をつけ、時を戻った識也によってこうして殺された。それが識也の想像するここまでの顛末だ。

 彼女が捕まることが無かったのは、察するに彼女が女性だったからだ。被害者は全て女性。ともなれば警察は真っ先に男性を犯人像として浮かべる事だろう。昨今、性的マイノリティーの存在は世の知る所となっているが、一度犯人を男と思い込んでしまえば犯人がレズビアンである可能性には思い至ることは無かったに違いない。それは功祐が未来の葬儀の時に発した言葉からも明らかだ。


「殺した事を謝罪はしませんよ、音無先生。けれど、感謝はします。貴女のお陰で俺は自分の気持ちに気づくことができたんですから」


 ずっと自分を傷つけるだけの存在だと思っていた未来。けれども違った。識也には彼女が必要だった。彼女の死に顔を見た時に走った衝撃。アレは識也の脳裏に焼き付いて決して薄れいくことはないだろう。メスが入っている方とは逆のポケットに手を入れると、未来にかつて贈ったかんざしが指先に触れた。

 未来を救うため識也は動いた。必死に動いた。今回の行動の計画を寝ずに練り、音無への接触を図った。彼女を徹底的に観察し、何食わぬ顔をして会話を交わし行動の癖や好みを把握していった。

 未来のスマホにGPSアプリをインストールし、未来がいつ、何処でどのようにのかも知った。彼女が殺される瞬間を見た。狂いそうな、ドス黒い感情を強い意思で塗り潰し、未来が死んだ後も感情を押し殺し、何も知らぬ善良な生徒のフリを続け、音無と気安い関係となるまでに親しくなり、彼女のメールアドレスと自宅の場所情報を入手した。

 そして識也は再び自殺した。死の直前に手に持っていた物は一緒に時間を跳躍できる事はかんざしの事から分かっていた。だから学校内で音無からキーケースを奪い取り、未来のかんざしを握りしめ、そのまま屋上から飛び降りた。

 四回目の十月七日の朝を迎えた識也は粛々と思い描いた準備を進めていった。廃ビルに穴を掘り、必要な道具を買い込む。翌八日――つまり今日には無人の音無邸へ忍び込み、自宅に隠された多くの遺体と他必要そうな写真を撮った。そして彼女のメスと一ノ瀬 薫の遺体、その他諸々を回収し、準備を整えた廃ビルへ音無を誘い込み、事を成す。

 これら一連の行動は随分と骨が折れた。識也の全身を強い疲労感が襲っており、この場で眠ってしまいたい衝動さえある。だがそれは出来ない。まだ、道は半ばだから。


「……」


 識也は一度眼を閉じた。そして穏やかな表情を浮かべて未来のところへ帰っていく。

 未来の傍でしゃがみこんで拘束を解き、口に貼られていた粘着テープを剥がしてやる。途端、識也の胸に彼女が飛び込んだ。


「しーちゃん!」

「ゴメンな、未来。怖い思いさせて。助けるのが遅くなってゴメン」

「しーちゃん、しーちゃん!」


 何度も識也の名を連呼し、愛しい人の体を抱きしめ未来はわんわんと鳴き声を上げた。これまで我慢していた恐怖や切望を吐き出すように、幼子みたいに号泣する。

 青年へと成長途中の、昔に比べれば厚くなった胸に強く頭を押し付け、跡が残りそうなくらいに未来は識也の背中に強く強く爪を食い込ませていく。その痛みさえ、今の識也には愛おしくて堪らない。

 識也は未来の柔らかい頬を両手で包み込んだ。指先で撫で、未来に負けじと強く頭部を抱きしめる。

 長い長い二人の抱擁。未来の鳴き声が次第に収まり、嗚咽へ、そしてすすり泣く小さな声へと変化していった。夜の暗闇に溶け込むよう静謐で、それは厳かな儀式の様でもある。

 どれだけそうしていたか。未来の声は完全に消え去り、識也は彼女から体を離した。名残惜しそうな泣き顔で見上げる彼女の姿に識也は微かに笑みが零れた。

 そして識也はキスをした。

 未来は突然の事に驚き大きな眼を見開いた。だがすぐに多幸感が彼女を満たしていく。頬が闇の中でも分かる程に赤らんで、何年も待っていた想い人の感触を味わう。

 やがて重なった影が二つに分かれた。


「未来」

「……なに、しーちゃん?」

「お前のことが好きだ。今回の事で分かった。俺は……お前が居ないとダメなんだ」


 真剣な眼で未来を見つめ想いを口にした。すると一層彼女が愛おしく思えた。

 未来は嬉しそうにはにかんで顔を伏せ、識也の首に腕を絡めてまたキスをした。


「ありがとう、しーちゃん。嬉しい。たぶん、今まで生きてきた中で一番嬉しいよ。さっきまで怖かったけど、全部吹っ飛んじゃった。こんな事があったのに、きっと今日が一番幸せな日になった」

「そっか……ゴメンな。今まで待たせて」

「ホントだよー! でも、良いんだ。しーちゃんが謝る事なんてないんだよ。私が勝手にしーちゃんの事大好きだっただけだから。

 だけどね、やっぱり嬉しい。好きな人と気持ちが通じ合うのって、こんなに幸せなんだね。しーちゃんの事を考えるだけで楽して幸せだったけど、全っ然違うの。幸せすぎて、しーちゃんから離れたくない」

「俺もだ、俺もだよ、未来」


 抱き合い、互いの耳元で囁き合う。未来は識也の温もりを感じ、識也は未来の頬や髪を触り味わう。


「これからもずっと俺の傍に居てくれるか、未来?」

「うん! 私はしーちゃんさえ居れば何もいらない。ずっとしーちゃんの傍に居られるなら、それだけで幸せだから」


 ああ、と識也は溜息を漏らした。愛した人が彼女で良かった。心からそう思えた。識也も同じ気持ちだ。未来さえ居れば、他に何も要らない。

 その気持ちを表現するように未来の顔を胸に押し付けさせ、何度目か分からない抱擁を交わし、離れて識也は柔らかく微笑んだ。

 口元が大きく弧を描く。

 それは、夜空に怪しく浮かんだ三日月と同じ形をしていた。


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