第拾四~拾伍章
ー拾肆ー
十月七日(三回目)
再び過去に戻って二日目、識也は朝から学校へ登校した。
この日も一日部屋にこもって思考を巡らせるべきか、とも悩んだが、ベッドの上で登校との二つの選択肢を並べて考えた結果、この日は学校に行くべきと判断を下した。
その判断には、主に伊藤しずるの存在に関する二つの理由からだ。今日、彼女は殺される。だが朝の時点ではまだ生きていて登校しているはず。それを確かめるというのがまず一つ。
そして二点目が大きな理由だ。識也は白紙のノートの上をシャープペンシルで突いた。
(あの手紙……)
初めて過去に遡った日、未来と良太と三人で見た伊藤しずるの告白現場。教室棟の三階から特別棟の二階を見下ろす形で目撃したため相手の顔は確認できなかったが、その相手を確認するというのが今日登校した一番大きな理由である。
犯人が(世間一般から見て)まともな感性をしていないという識也の推理が正しいとして、しかし犯行に及ぶきっかけはあるはずだ。単なる好みで犠牲者を選んでいるとしても、人気のない場所に誘い易い難いもあるだろう。そういう観点で考えてみた時に、しずるが告白をした相手というのは容疑者の第一候補として挙げるべき人物である。
あの時はしずるは振られたようだったが、その後にその相手から「もう一度会いたい」などと告げられれば夜中であっても家を抜け出したりすることは十分に考えられる。男女の仲ともなれば尚更だろう。あくまでもこれまでに読んだ様々な雑誌や小説から導き出した想像ではあるが。
なのでこの日、識也は昼休みを目一杯使って、告白相手になりそうな人を訪ねてみたのだが――
(全員ハズレ、とは思わなかった……)
識也は教室の窓から外を見て溜息を吐いた。
あの日に目撃した、伊藤しずるの告白相手の特徴は多くは無いが絞り込めなくはない。
伊藤しずるよりも遥かに長身でかつ、放課後に白衣を着ている男性。良太によれば伊藤しずるの身長は一五四センチ。識也の記憶にある位置関係からすると一七五センチを超える長身で、それは男子生徒としても背が高い部類に入る。白衣を着ていたとすると、生物部か化学部か物理部。それは間違いないはずだ。
休憩時間を使ってクラスメートや先生たちから情報を集め、昼休みに該当する生徒六人に直撃してみたが、結果は全員否定。伊藤しずるが年上好みの可能性も考慮して化学教師にも変な眼で見られながら尋ねてみたが、告白を受けた事実は無いと否定された。
当然、質問内容が内容なので彼らが嘘を吐いた可能性もあるが、識也の目から見て動揺したり眼が泳いだりといった不自然な挙動は見られなかった。
(となると、パッと浮かぶ可能性は二つ。一つは告白相手が、俺が見抜けなかったくらいに嘘を吐くのが上手い。もしくは、この時間軸では伊藤しずるは誰にも告白をしていないとなるが……)
二つ目である事は無いだろうと識也は思っている。
異性への告白はその人にとって一大事である。これまで識也が過ごしてきた過去を振り返ってみても、識也と直接関連の無い過去の出来事は多少の時間の前後はあれどもキチンと発生している。確定は出来ないが、識也が特にそれを妨げるような行動をしていないし、しずるが告白をしていない事はないだろう。
識也はノートの空白に二つの可能性を書き出して横線で消し、そして新たな可能性を書き記す。
(相手は普段は白衣を着ていなくて、たまたまあの日だけ着ていた……?)
偶然あの日に何らかの理由で白衣を着ていただけなのか。だとすると、容疑者は学内に限っても全男性数百人に上ってしまう。眉間に皺を寄せて髪を軽く掻き上げると識也は深く息を吐いた。
(何か他にヒントになりそうなものは……)
「おっす、識也」
もう一度記憶の中の映像を再生しようと眼を閉じたところで、教室に入ってきた良太の声でそれは遮られた。
ノートに向かっていた視線を上げれば、時刻は十六時を回っている。授業も終わって、クラスメートたちも帰宅準備を始めていた。
「メッチャ集中してたけど、何してたんだ? まさかお前に限って真面目に勉強してたって事はねぇんだろ?」
「お前と一緒にするな。それなりに俺は真面目だ」
「はいはい。んで、何やってたんだ?」
「別に。ちょっと考え事してただけだ」
そう言いながら識也は不自然にならないようノートや筆記具を鞄の中に詰め込んでいく。その最中、チラリと良太の顔を横目で眺めてみる。その表情は識也の知るもので、陰りや怒りといった含むものは見て取れない。
(当たり前だ)
良太は未来に惚れている。だがそれはまだ、この世界では良太は識也に対して露わにしていない。識也に自分の気持ちを知られているとは思いもしていないだろう。
果たして良太はどういう気持ちで識也と接しているのだろうか。どんな感情を抱きながら、識也に抱きついてくる未来を見つめているのだろうか。
「……何だよ、お前が俺を好きなのは知ってるけどよ、そんなに見つめられたって想いには応えてやれねぇぞ?」
「例えゲイだったとしてもお前には応えて貰いたくないな」
軽口で返しながら、そんな事を考えても仕方ないと思考から外した。他人の気持ちなど、推し量ることができても正解なんて分かるはずがないし、識也自身が良太の気持ちを考えてどうなるというのか。推察して分かったような気になって、きっとそれは良太に対する侮辱だろう。
「そうそう、そういえばさっきみーちゃんに会ったんだけどよ、随分と機嫌が良かったんだが何かあったのか?」
「あー……」
識也はすぐに原因に思い当たる。昨夜、未来を自分の家に招き入れた事だ。だがそれを良太に伝えても良いものか、と瞬時には答えを出せず曖昧な返事に留まってしまった。当然、良太の眼差しが怪訝なものに変わっていく。
「何だよ、やっぱ何かあったのか?」
「まあな。大したことじゃねーから、気にすんな」
「へー、俺との仲なのに隠し事か。そっかそっか、そうだよな、お前って昔からそうだもんな」
「拗ねんなって。今度俺んちに来ていいから」
そう識也が告げた途端、良太の表情が激変した。識也の机にかじりつき、それまで口を尖らせてジトッとしていた視線だったのが急に遠足前のおやつを選ぶ小学生みたいにキラキラと輝きだした。
「いつ? いつ? いつ行ってもいいんだ?」
「え、あ、ああ……えっとだな……」
「今日か? 明日か? 明後日か?」
「じ、じゃあ来週の休みで……」
「嘘じゃないな? 絶対だな? 絶対だぞ? 後で『うっそぴょーん!』とか無しだかんな?」
「仮に嘘だとしてもそんな愉快な騙しはしないけどな……分かった。絶対に呼んでやるから、だからちょっと離れろって」
招待を確約してやると良太は机から飛び退いて一人ガッツポーズをして拳を天に向かって突き上げる。未来といい良太といい大袈裟だな、と思うがここまで喜ばれるならもっと呼んでやっても良かったかもしれないな、とこれまでの拒絶感を忘れて何故か思えてしまうから不思議だ。
と、そこに思考が至った時、識也はある事を思い出した。ずっと伊藤しずるについてばかり思考が巡っていたが、未来についても重要な手がかりと成り得るものがあったのをすっかり忘れていた。
「なあ、良太。ちょっと聞きたい事があるんだけどさ」
「――っしゃ! あのゲームをやらせて、ずっと日の目を見なかったお泊りセットを……ってなんだよ、聞きたい事って?」
「なんかツッコミたいところがあったが……まあいい」
全身で表現していた喜びから帰ってきた良太に呆れながらも、識也は尋ねた。
「――向島 陽向ってお前知ってるか?」
―拾伍―
五分後、識也は良太に連れられる形で特別教室棟の廊下を歩いていた。
「陽向とは去年同じクラスでな。二年に上がる時に文系と理系のクラス分けで、あいつは理系の方を選んだから俺とは別になったんだよ。なんつってたっけなぁ……ああ、そうだ、確かアイツ、医者になりたいんだと」
「医者に、か……」ポケットに手を突っ込んで歩きながら識也は、相槌を打つ。「という事は成績はいいのか?」
「良いっていうか、学年で大体一位か二位だよ。いっつもみーちゃんとトップ争いしてるぜ? 知らなかったのか?」
「いや、全く。っていうか未来の奴、そんなに頭良かったのか」
「おいおい、いっつもテスト終わった後にみーちゃんがいの一番にお前に報告に来てんじゃねぇかよ。ったく、冷てぇ野郎だな」
「……面目ないな」
言われてみれば確かにいつも未来が「今回は一位だった」「二位だった」とか、そんな事を言ってたような気がする。だが識也は特に未来の成績に興味が無く、いつも適当に聞き流しているばかりだった。
(昨日の事といい……俺はアイツの事を知らないな)
小学生時代の事は識也が一番良く知っている自信はある。だが、中学・高校とどうだろうか。全てに興味を失って以来、ちゃんと未来の事を見てやっていなかった、と今更ながらに反省した。
そんな常とは違う識也の様子に、良太は怪訝に眉を潜めた。
「どうしたんだよ、識也。何かお前も今日は変だぞ?」
「ちょっと自分を省みる機会があってな。少しずつ悪いところを直していく事を始めたんだよ」
「うげ、気持ちワリィ。そんな殊勝なキャラじゃねーだろ」
「俺の事はいいんだよ。それで、その向島って奴はもしかしなくとも生物部とか化学部とかなのか?」
通り過ぎる教室に掲げられている室名札を眺めながら尋ねる。識也の記憶が確かであれば、この先にある教室は生物室や物理、化学室といった理学系教室が並んでいるはずだ。
「いんや。確かアイツはどの部にも入ってねーはずだぜ?」
「なのに化学室とかに居るのか?」
「部には入ってねーんだけどな。医者になるのが目標って言っただろ? だからアイツ、部には正式に所属しなくて、化学部と物理部と生物部を掛け持ちしてる様な形になってるはずなんだよ」
「なるほどな」
確かに医者になるのであれば、物理・化学・生物のいずれもの知識が必要になるだろう。だが医学部の受験にはその内の二科目で十分のはずで、それでも三科目の知識を貪欲に吸収しようという姿勢は立派だ。向上心が強いタイプの人間か、と識也は向島 陽向の人物像を修正していく。
「……ここか」
「まずは化学室からだな。一発で見つかりゃ良いんだが――」
「藤巻くん?」
扉を開けようと良太がドアに手を掛けたのと同時に、部屋の中からでは無く向かって左側から、男としてはやや高めの声が掛けられた。
「よう、陽向」
「お疲れ様、藤巻くん。珍しいね。どうしたの、こんな所に? 何か化学部に用だった?」
ニッと口を横に開いてガキ大将みたいな笑顔を作ってみせる良太に対して向島 陽向も柔らかい笑顔で応じ、それから化学室と良太を見比べて疑問を口にした。
対する良太はチッチッチ、と舌を鳴らしながら人差し指を顔の前で左右に振り、次いで親指で識也を指してみせる。
「俺がこんな所に用があるわけねーだろ。用があるのはコッチ。水崎 識也っつって、俺の中学ン時からのダチだ。お前に聞きたい事があるんだと。
識也、コイツが向島 陽向だ」
「水崎です、宜しく」
「あ、どうも。はじめまして」
識也が他所行きの笑みを浮かべてみせ、爽やかに笑いながら陽向に向かって手を差し出す。陽向は差し出された手に一瞬だけ戸惑ったものの、素直に手を取って微笑んだ。だが少しだけぎこちなさがあるようにも思えた。
その点を差し引けば人好きのしそうな笑みだと思いながら、識也は眼差しの奥から眼の前の人物を注意深く確認する。やや丸顔で童顔と、一見すると未だ中学生のようだ。だがよくよく見ればその目には深い知性と年齢に似合わない落ち着きがある。幼い顔に似合わず背も識也を超えている事から一八〇センチはある。
「格好良いですね。女性からモテるでしょう?」
「え、い、いや、そんな事ないですよ。からかわないでください」
「いえいえ、からかってなんか居ないですよ。なあ、良太? お前もそう思わないか?」
「ん? ああ、そうだな。陽向は十分にカッコいいと思うぞ?」
「藤巻くんまで……」
「いや、カッコいいとはちょっと違うな。どっちかっつーと可愛いか?」
「……それは男としてあんまり嬉しくないなぁ」
「いやいや、年上のお姉さま方にはウケると思うぜ?」
「そ、そうかな? だとしたら嬉しいな」
夕陽の中でも分かるくらいに陽向は顔を赤らめた。その様子を見て識也は「おや」と思った。
良太が言う通り、陽向の容姿は良い。少なくとも識也や良太よりはよっぽど女性の人気はあると思われた。更に背も高く、医師を目指すほどに賢いし、その目標に対して努力を惜しまない。柔らかい人当たりも、人によっては頼りないという印象を持つかもしれないが、優しそうという見方をすれば高評価だ。女性に人気が出ないわけがない。
にもかかわらず陽向の反応は女性に対して初心で奥手な印象だ。それに褒められる事に慣れていないようで、照れながらも嬉しさを隠しきれていない。心の底から喜んでいるようだ。
識也は首をひねった。別の世界軸で向島 陽向は未来にラブレターを送っている。この事からも描いていた陽向の人物像はもう少し女性慣れしていると思っていたのだが――
(いや、今時ラブレターを送るって行為自体がやや奥手な行動か)
女性に慣れていれば直接告白なりデートに誘うなりしているだろう。識也は陽向の人物像を修正した。
「え、えっと、それでお話ってなんですか?」
「ああ、すみません。幾つか質問したいことがありまして」そう前置きして最初の質問を口にした。「伊藤しずる、という方をご存知ですか?」
「伊藤さんって……あの伊藤さん? 三年生の」
「ええ、そうです」識也は頷いた。「実は彼女、昨晩から行方不明になってるそうなんです」
「ええ!? そうなの!?」
「はぁ!? マジかっ!?」
現時点ではまだしずるは健在のはず。だが識也は堂々と嘘を吐いて、あたかもそれが真実であるように深刻な顔で頷いた。
「そうなんです。昨日、学校帰りに行方不明になって帰ってこなかったようでして。それで、個人的に僕は彼女にお世話になっているところがありまして、彼女の行方を探してるんです」
「け、警察には?」
「まだ一日しか経ってないからでしょうね。警察には連絡はいっていない様です。ですが、こういう事はなるべく早めに動くのが鉄則だと思うんです。時間が掛かれば掛かるほどに安否は怪しくなってきます。もちろんただ単に彼女が一晩夜遊びをしただとか、単に家出をしただけだというのであればそれはそれで安心ですけれど」
「そう、そうですか……」
「なので勝手ではあるんですけれど、何か事情を知ってそうな人をこうして訪ねて回ってるんです」
「……事情は分かりました」
識也の話を聞いて陽向は下唇を噛んだ。やや俯き気味のその表情は事態の重さを噛み締めている様で、純粋にしずるの安否を心配しているように思える。
「分かりましたけど、どうして僕の所に? 伊藤さんは有名だから知ってますけど、多分伊藤さんは僕の事を知らないでしょうし、だから彼女と接点は無いですよ?」
「そうですか?」
「はい。だって、彼女は美人ですし頭もいいし人気者です。比べて僕は冴えないし、ドン臭いし、学年だって違います。彼女とお近づきになんてなれませんよ。伊藤さんが化学部や生物部だったら話す機会もあるんでしょうけど」
「いや、お前も十分ハイスペックだかんな?」
「僕も良太に同意ですけど、確かに彼女はどの部活にも所属してません。ですが、昨日彼女がどなたかに告白を行った様なんですよ」
「ちょっ! 識也、それマジ!? マジ情報!?」
「あ、ああ……相手の顔は分からないが、どうやら白衣を着た長身の男らしい」
識也のもたらした情報に陽向ではなく良太が強く食いついた。そんな良太の態度に若干引きながら識也は肩を掴んだ腕を振り払って制服の乱れを正した。
「なるほど、それで僕の所に来たわけですね」得心した様子で頷く陽向に、識也は曖昧に笑った。「ですけれど、先程も言った様に僕と彼女は全然関わりはありません。残念なことではありますけど」
「では彼女が告白した相手は向島君ではないと?」
「僕だったら非常に嬉しいんですけどね」
肩を竦めてみせる陽向を識也はじっと見た。仕草や態度に不自然な様子は無い。
識也は溜息を一つ吐くと、小さく頭を振ると陽向に向かって頭を下げた。
「そうですか。疑ってすみません」
「いえ。伊藤さん、早く見つかるといいですね。それで、その、質問は以上ですか?」
「すみません。もう一つだけ良いですか?」
そう言うと陽向は困ったような表情を浮かべ、しかしすぐに笑みを浮かべて「いいですよ」と答えた。
識也は問うた。
「都月、未来について」陽向の表情が変わった。「彼女の事を、どう思ってますか?」
「ちょ、識也! なんでみーちゃんの……」
「……ああ、そういうことですか」
頷いていた陽向が顔を上げて識也を見つめる。見下ろすその表情は、一見人の良さそうなもののまま変わらない。だが識也の眼には、識也に対して隠そうとしない侮蔑と妬み嫉み、そして押し隠そうとして隠し切れない怒りの様な物が滲んでいるように見えた。
「何処かで見たことがあったと思ったんですよ、水崎さん。いつも都月さんと一緒に居る人ですね。そして彼女の……想い人でもある」
「……よくご存知で」
「そりゃ知ってますよ。有名ですし、彼女の気持ちは。休み時間になるといつも水崎さんを探しに教室から出ていきますから。
貴方には彼女に興味がなくていっつも冷たくあしらってるのに彼女はめげない。廊下であれだけ毎日のように直接的なアプローチをされれば、彼女に気のある男子は気が気じゃありませんよ」
眉間に皺を寄せ、小さく溜息を陽向は吐いた。識也は押し黙っていた。
「しかし分からないんですよ」
「……何がです?」
「都月さんがどうして貴方に想いを寄せ続けるのか、ですよ。彼女に見せる顔は暗くて冷淡で、他の人の前では猫を被っていい人ぶってるような二面性のある人間だというのに」
「それも知ってたか」
「ええ。だって、いつも彼女の姿を追いかけてますから」
本質を見破られていると知った識也は作り笑いを捨て去り、陽向は薄く笑った。
「認めましょう――僕は都月さんの事が好きです」
「――」
「こういう事を口にするのは非常に恥ずかしいのですが、貴方には言わなければならないと思いました。僕は彼女に惹かれています。気がついたらいつも彼女の姿を眼で追いかけている。彼女の笑顔を見ると思わず僕の方も嬉しくなって、胸が暖かくなってくる。
そして――」陽向は笑みを捨て去り、目の前の識也を睨みつけた。「そんな彼女の笑顔がいつも貴方に向けられているかと思うと、非常に腹立たしい。憎くさえある」
「――」
「……」
普段の優しげな様子を知る良太は、陽向が初めて見せる激情に言葉を失った。対照的に識也は黙したまま陽向を見つめ、その表情には揺らぎは見られなかった。
「水崎さん」
「……何だ?」
「彼女から離れてください」良太が息を飲む音が聞こえた。「彼女に女性として興味がないのでしょう? だったら彼女に近付かないでください。彼女を近づけさせないでください。僕は水崎さんの都月さんに対する態度を冷たいと言いました。ですが、少し訂正します。冷淡さの中にも貴方が都月さんを見る眼は突き放しきれない優しさがあるように思います。異性としては冷たくても都月さんの事を放っておけない。そんな風に思ってるのではないですか?」
「幼馴染だからな……」
「その中途半端な優しさが都月さんを貴方に縛り付けているんじゃないんですか? 垣間見せる優しさのせいで彼女は貴方を見限りきれないで、アピールしていればいつか貴方が振り向いてくれるんじゃないかって期待してしまう。
このままじゃ彼女が余りにも可哀想だ。報われない。だから、少しでも彼女の事を思っているんなら彼女から離れてください。彼女に余計な期待を抱かせないで欲しいんです」
「……」
「恥知らずな事を言ってると思います。貴方にこんな事を言う筋合いはないって理解しています。だけど、僕は都月さんのことが好きだ。彼女の幸せを願っています。彼女の幸せを勝手に考えた時に貴方さえ彼女の傍に居なければきっと彼女はもっと幸せになれる。僕はそう信じています」
だから彼女から離れて欲しい。陽向は最後に深々と頭を識也に向かって下げた。識也は何も答えない。良太は識也をチラリと横目で見て、すぐに眼を逸らした。良太は震えを堪える様に唇を強く噛み締めた。
識也から返事がないまま時間は経つ。陽向は長々と腰を折っていたがやがて頭を上げ、答えを得られそうに無いと悟ったか、軽く識也に向かって会釈をして背を向けた。
「向島」
陽向が化学室のドアを開けてレールを跨いだ時、識也は声を発した。
「一つ言っておく――未来は誰にも渡さない」
陽向は振り返った姿勢のまま眼を見開いた。良太は隣で口を半開きにして唖然と識也を見つめた。
「絶対に俺は未来を誰にも渡さない。例え誰に何を言われようが俺は……絶対にもう未来を手放さない」
「……そうですか」
「ああ。だからお前の要求に応えてやらないし、未来がお前の方へ行く事も無い」
「たいした自信ですね」
「自信じゃない。これは決意表明だ――未来を俺の手で捕まえるための」
識也はそう言って視線鋭く陽向を見据えた。絶対に引くつもりはない。そんな想いを視線に乗せて。
「……そうですか」驚きに眼を見開いていた陽向だったが、小さく笑って視線を識也から外す。「では、僕は僕らしく彼女に想いを伝えます。例え、彼女が振り向いてくれなかったとしても、誠実に僕の気持ちを彼女に理解してもらう。それだけです」
最後にそう告げると陽向は「では」と短く断ってドアを閉めた。識也と良太の二人と陽向の間はジェリコの壁の様な扉で遮られ、もう言葉を交わすことは無い。
「ふぅ……」
識也は安堵の息を吐き出した。柄にも無い事を口にした自覚はある。だがこれは決意を新たにするために必要な
と、背中に強い衝撃。
「オイオイオイオイっ!! マジかよ、識也ぁっ!? お前、お前ついにみーちゃんと……!」
「まあな。逃げまわってたつもりは無いが、やっぱ俺にとって未来は大切な奴みたいだ」
「そっかそっかそっか! いやー良かった良かった! これで俺も一安心だってつうとこだな! お前ら見ててずっとじれったいっつうか、みーちゃんが不憫でしかたねぇっつうか……」
良太は力いっぱい識也の背中を叩くと、わざとらしく浮かんでもいない涙を拭う仕草をして識也をからかう。そしてハッと何かに気づいた様に口を開けると、ヘッドロックを仕掛けて識也の頭を拘束した。
「まさか今日ずーっとみーちゃんの機嫌が良いのは……」
「あー、いや。未来にはまだ気持ちは伝えてない。さっきも言った通り俺の決意表明みたいなものだからな。……未来には言うなよ?」
「何でだよ? 別に言ってもいいじゃんかよ? みーちゃんの事だから伝えた途端に踊り狂ってキスの嵐になるぜ、きっと」
「いいんだよ。……人伝に聞くより、俺の口からキチンと伝えた方がアイツも喜ぶだろ」
「そっか。そりゃそうだな」
「良太」
笑いながら識也の頭を放して化学室の前から立ち去ろうとした良太を識也は呼び止めた。頭だけ振り向く良太を見て、識也は視線を良太から足元へ落とし、そしてもう一度正面の良太に向き合った。
「……悪い」
短い一言だった。だがそれだけで良太は意図するところを察して目を剥いた。
「お前……知ってたんか?」
「まあ、な」
識也としてはこの世界で得た情報ではない。意図せずして良太から叩きつけられた、反則に近い知識だ。それ故に後ろめたさから良太を直視して居られずに顔を背けた。
何と言って非難されるか。良太が近寄ってくる気配を感じて識也は緊張した。また殴られるだろうか。想い人を、今更奪っていくなと罵声を浴びせられるだろうか。だが、それも甘んじて受け入れるつもりだ。
だが良太の拳が識也に振るわれる事は無かった。俯く識也の横をすれ違うその際に軽く肩に手を置いた。
「気にすんな。お前がそんな顔するって事は別に知るつもりは無かったってことだろ? むしろ俺ん方こそ黙っててスマンかったな」
「良太」
「謝るなよ」
笑いながら、だが幾分固い声質で識也の言葉を遮った。
「みーちゃんがお前を好きになったように、俺が勝手にみーちゃんを好きになったんだ。お前は悪くないし、謝られる筋合いはねぇ。
俺はずっとお前にみーちゃんの方を振り向いてほしいと思ってたんだ。俺の気持ちを知ったなら嘘だと思うかもしれねぇけど本当だぜ? みーちゃんはずっとお前しか見てないし、お前はみーちゃんの気持ちに応える気は無かった。陽向じゃねぇけど、みーちゃんを見ててずっと歯痒かったよ。けど……そんなみーちゃんに声を掛ける気に俺はなれなかったよ」
「……どうしてか、聞いてもいいか?」
「……なんつーか、みーちゃんの弱った気持ちに浸けこんでるみたいでさ。そんな風にしてみーちゃんに気持ちを伝えて、そんで俺の方を振り向いて貰ってもきっとみーちゃんはお前の事を忘れない。そんな状態で俺は付き合いたくないし、みーちゃんだって不幸だ。俺はいっつもお前に向けてるあの笑顔のみーちゃんが好きだからな。俺が願うのはいつだってみーちゃんの幸せであって、不幸なみーちゃんは見たくない」
「……そうだな。俺も見たくない」
「だろ?」
良太は識也を振り返った。ニカッと歯を見せて笑う顔に、そこに昏さは無かった。
「だから俺はお前がその気になってくれて嬉しいんだよ。これで――ようやく俺も舞台に上がれるからな」
「例えお前が相手でも容赦はしない」
「そりゃこっちのセリフだ。正々堂々お前からみーちゃんを奪い取れるんだからな。
だけどな、それとは別に――俺とお前はダチだ。だから誓ってやんよ」
「――」
「俺とみーちゃん、お前とみーちゃん。関係がどうあろうとも俺はお前を恨まねぇ。俺が恨む時は唯一つ。お前がみーちゃんを裏切った時だけだ」
「ああ――分かったよ」
良太が拳を識也に向かって突き出す。何をするのか、と怪訝な顔になった識也だったがすぐにその意図に気づいて自分も拳を突き出した。
軽くぶつかる拳と拳。骨を通じて響く微かな震えがどうしてだか心地良かった。
「じゃあな。今日は俺、帰るわ」
「いいのか? 一緒に帰らなくて」
「いつもなら喜ぶトコだけどよ……今日は流石に気持ちが複雑過ぎるぜ。また今度な」
オレンジの髪を掻き毟りながら良太は俯き、浮かんだ表情を見られないよう識也に背を向けた。そして背を向けたまま識也に向かって手を振り、廊下の影へと消えていった。
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