第伍章



―伍―




十月八日(二回目)



 識也が過去へ戻って四日目、殺された当日となった。

 戻ってきてからここまで、特に識也の身に起こった異変は無い。学校外では常に室内に引きこもっている状態を健康と言って良いかは判別に苦しむところではあるが、少なくとも識也の知る限り身体的な異常は無い。

 何の代償もなしに過去へ戻るなどあり得ない、と識也は少々不安を抱いていたが、この三日間の間に何も起こらなかった事を考慮すると、代償は必要ないのかもしれない、と考えを改め始めていた。そもそも死を経験する事自体が代償と考えるべきだろうか。

 自分だけでなく周囲に目を向けてみても目立った変化は無い。さすがに詳細までは覚えていないが、これと言った印象に残る事件が起きるわけも無く平和だ。

 三日前の事に味をしめたのか、良太や未来が放課後に毎日識也の元へやってきて遊びに誘う様になったが、識也とてその翌日には元の心境を取り戻していた。結果、これまでと同じように全てをはっきり断って、未来と良太が揃って肩を落として立ち去るのを苦笑と共に見送るのであった。


 何も、変わらない。

 識也も何か新しい事を取り立てて始めてはいない。過去に戻ってやり直すというのは創作話でよくある話であり、そこで主人公は死ぬ前の行動に後悔なりをして自身を見つめ直して新しい自分に生まれ変わろうとするものだが、識也はそうではない。

 そもそもの自分に後悔などないし否定もしない。今の自分にそこそこ満足し、向上心も持ちあわせてはいない。現在で十分に満たされているのに、どうして得られるか分からない、そもそも得られたものが対価と見合うか分からない努力をする必要があるのか。別に努力を否定するわけではないが、識也の価値観では現状を続ける事にさえ努めれば十分であった。

 今生ですべきは唯一つ。今日以降あの廃ビルに近づかない事だ。そうすれば識也も殺害される事はないし、現状を続ける事ができる。起きて、学校に行って、クラスメートや先生と適当に話を合わせて、帰宅して食事しながら死体の写真を見て、満足して寝る。そんな生活を続けることができる。

 そんな識也であったが、唯一つ前回と異なり意識して気を掛けた事がある。


(今日もやはり来なかったな、あの女)


 それはしずるの動静だ。そうは言っても大したことはしていない。ただ単にいつから行方不明になるのか、そこを教師や彼女の同級生に確認しただけだ。

 伊藤しずるは昨日から姿をくらませていた。そしてそれが誘拐事件へと周囲の認識が発展するのに時間は掛からなかった。

 どうやら緘口令が先生たちの間で引かれているらしく、表立って彼女が誘拐されたという事実は無い。しかし彼女と連絡が取れなくなったと発覚したばかりの今日には、識也が三年生のフロアに行くと噂で溢れていた。


 曰く、出会い系で出会った男に拐われた。

 曰く、地味なのは学校だけで実は遊び好きであり、誰彼構わずヤラせていて孕んでしまい、学校に来れなくなった。

 曰く、清楚なフリをしてこれまで何人も男を毒牙にかけて、とうとう殺された。

 曰く、嫉妬に狂った女に監禁された。


 無関心なフリをしながら聞き耳を立てて歩けば届く幾つもの噂話。不思議と男子生徒たちの話題には上っておらず、そういった噂は何れも楽しそうな女子生徒の口からばかり聞こえてくる。

 女子生徒たちは身内だけで話しているつもりだろうが、声はハッキリ届かなくとも悪意は明確に届く。噂の真実などどうでも良い。ただ、伊藤しずるという人間を貶める事が出来ればそれで良いのだ。美人で人気のある彼女の脚を引っ張れれば、それで構わない。生きていても評判は最悪、死んでいればどうせ口はない。頑丈な化粧で悲しそうな仮面を作り上げれば咎められる事はない。

 識也は女の美醜はわからないと思っていた。だが三年のフロアを往復している内に少し考えを変えた。「美」は分からない。だが「醜」は分かる。噂をしていた生徒の中に顔の造りは美人なのだろうと思える女も居たが、清ましたその顔は直視に耐えない程に醜かった。きっと彼女らが死体となっても鑑賞したいとは思わないだろう。


(もう今頃は吊るされている、か)


 伊藤しずるは殺害されてあの廃ビルの中で隙間風に揺られていることだろう。そんな彼女の境遇を可哀想だとは思わないが、あの時に見た彼女の顔は中々忘れられない。

 死に顔は美しく、そして惜しかった。乱暴に傷つけられていたが、もし、彼女の顔が生きている時そのままであったならさぞ美しかったと識也は残念に思う。美術品として扱うとすれば自分であればどう飾るか、想像するだけで楽しくなってくる。

 廃ビルに脚を踏み入れる事は出来ないが、数日から数週間経ってもまだ残っていればぜひ回収したい。いや、それだけ時間が立てば腐敗が進んでとても保存はできないか。

 そんな仮想の話を思い浮かべつつ、授業が終わっても識也はしばし教室で宿題をしながらここ数日はのんびりと過ごしていた。

 昼休みには前回と同じく良太から、しずるが行方不明になった話を聞き、廃ビルへの誘いを断った。識也に断られた良太は、流石に今日は部活に顔を出すらしく放課後になってもやって来ない。久々に静かで落ち着いた時間を識也は過ごしていた。


「おっと」


 識也が教室の時計に眼を遣れば、時刻はすでに五時を回っていた。遠く、吹奏楽部の奏でる音楽が聞こえてくる。その音色を聞きながら識也は教室を出た。

 廊下は静かだ。部活や塾へと同級生は向かい、識也の様に教室に残って気ままに時を過ごす生徒は少ない。孤独を感じさせる趣だが、それでも確かに誰かがいる。この雰囲気は嫌いではなかった。

 ポケットに手を入れ、鞄を肩に掛けて階段を降りる。玄関で靴を履き替えて外に出ようとした時、識也は逆光の中で佇んでいる人物を認めた。

 それは未来だった。両掌はいつも通り長い袖に覆われていて、袖越しに鞄を両手で持っている。未来は心ここにあらず、といった様子で立ち尽くしていたが、識也が目の前に立って見ていると気づくとトボトボと歩み寄ってくる。


「しーちゃぁん……」


 てっきりいつも通り飛び乗ってくるかと警戒していた識也は、未来の口から零れ出た弱々しい声に面食らった。普段は楽しそうな笑顔も、今は眉が八の字に垂れ下がってしまって、笑顔を無理に作るのに失敗してしまっている。


「……どうかしたのか?」

「これ……」


 肩を落とした未来がカーディガンのポケットから何かを取り出して識也に差し出す。

 それは一通の手紙だった。白い便箋に入った表書きには「都月未来さまへ」と几帳面な文字で書かれていて、裏には差出人と思われる名前が書かれている。


向島むこうじま陽向ひなた……?」

「うん……同じクラスの男子なんだけど、さっき下駄箱で会って……」

「告白されたのか?」

「ううん、渡されただけだけど……」


 識也の質問に、未来は迷いながら首を振った。


「ねぇ……どうしようか……?」

「どうしようか、って言われてもな……そいつの事が好きなら付き合えばいいし、嫌いなら今までと同じように断ればいいだろ」

「それはそうなんだけどぉ……」

「じゃあ何に悩んでんだよ?」


 未来は沈黙した。上目遣いに識也を一度見上げ、しかし口元をモゴモゴと動かすが言葉にならない。

 一度溜息を吐くと、識也は頭を掻いた。未来が何を言いたいのか汲み取れず苛立ちが増していく。


「その、向島だったか? お前はそいつをどう思ってるんだ。好きなのか? 嫌いなのか?」

「嫌いじゃ、ないけど……付き合いたいほど好きな訳じゃないし……」

「別に嫌いじゃないならいいだろ。必ずしも好き合ってないと付き合えないわけじゃないし、付き合ってみて好きになるって事もある。気になるなら一度その向島とやらと付き合ってみればいいんじゃないか?」

「……しーちゃんは私が他の人と付き合ってもいいの?」


 未来の声は少し震えていた。こみ上げる感情を必死で堪えているように、体も少し震えていた。

 識也も未来の様子がおかしいことには気づいた。彼女が何を聞きたいかを的確に察した。


「……別にいいんじゃないか?」


 しかし出てきた言葉はそんな冷たいもので、その事に識也自身も狼狽えた。

 どうしてそんな言葉が出てきてしまったのか、どうして自分は戸惑い動揺しているのか。識也は混乱した。


「そう、なんだ……」

「お前と俺は付き合ってるわけじゃないし、お前がどうしようと俺に止める権利なんてないだろ? お前の好きにしろよ」


 違う、と思った。そんな事を言いたいわけじゃない。じゃあ何を言いたいのか、と問われれば分からない。だが識也は何か違うと直感した。


「そう、そうだよね。しーちゃんに言ってもしーちゃんが困るだけだよね」

「……」

「ごめん、変な事聞いちゃった。忘れて」


 そして何かが終わった気がした。逸していた視線を未来に戻せば、彼女は笑っていた。


「それじゃ私、帰るね。バイバイ、


 予想外に彼女の別れの挨拶が響いた。ただ名前を呼ばれただけなのに、「しーちゃん」ではなく本名で呼ばれただけなのに識也の胸はひどく騒ぎたてる。

 未来の姿が夕陽の中に消えていった。朱色に全てが染まり、部活生の掛け声と、先程までより大きくなった吹奏楽の音色だけがやたらと際立って聞こえ、そんな世界の中で識也は立っているしかできなかった。


「識也」


 不意に名前を呼ばれた。呆然としながらも声の方を振り向けば、サッカー部の練習着姿の良太が居た。

 識也から良太の顔は見えない。どんな顔をしているか分からない。

 良太は徐ろに歩き出し、やがて走り出す。そして、識也に向かって拳を思い切り振りぬいた。

 勢いそのままに識也は殴り飛ばされ、廊下の壁に叩きつけられる。背中を強かに打って息が詰まり、口の中に血の味と匂いが充満する。

 衝撃で視界が回る中、識也の胸元が掴み上げられる。そこに、歯を剥き出しにして明らかに怒りを示す良太の姿があった。


「どうして」震える右腕を良太が振り上げた。「どうして、お前って奴はぁっ!」


 良太の拳が再び識也の顔面を捉え、衝撃と痛みが識也を襲う。

 倒れた識也の上に馬乗りになって何度も何度も拳が識也の顔を打ち据え、識也の顔が腫れ上がっていく。殴られる度に口から血が飛び散り、識也の意識が薄れていく。


「みーちゃんが! みーちゃんが毎日どんな想いでお前に接しているかっ! 分かんねぇのかよ、テメェはっ!」


 良太が叫び、怒りと悲しみで涙が流れ、識也の顔の上へと落ちる。血と混ざって斑模様に変わって識也の頬を流れ落ちる。


「いつかっ、いつかお前に振り向いて貰おうって! 昔みたいに笑って貰おうって、どんだけお前に手ひどく冷たくあしらわれたってアイツは笑って! だっていうのにお前はどうして未来ちゃんを好きになってやらねぇんだよぉっ!」


 そんな事言われても知るかよ。殴られながら識也は思った。

 識也とてアイツを好きになれれば。何度そう思った事か。未来の想いに応えてやれたら、未来に「好きだ」と伝えてやれれば。しかし、悪からず思っていてもどうしてもその先へ気持ちが進まなかった。冷たくあしらうしか、識也は方法を知らなかった。


「なんでっ、応えて、やらねぇんだよ! アイツの気持ち知ってるはずだろっ……! 好きになってやってくれよ……」泣きじゃくりながら、最後には弱々しいパンチが識也の腫れた頬を撫でた。「くそっ……何でお前なんだよ……どうしてっ、俺じゃねぇんだよ……」


 識也の上で良太は項垂れ、嗚咽が識也へと届く。その声を聞きながら、そうだったのか、と唯一とも言える親友の心境を推し量ることができた。

 周囲と価値観は違えども一般的な価値観の共有はしている。だから親友が何を想っているか、複雑に激しくうねる心情を正確では無いかもしれないが理解はできている。


「……悪い。でも、ダメなんだ」


 故に殴られた識也の口から謝罪が出ていく。良太はぐい、と乱暴な仕草で目元を拭って識也から眼を逸らした。


「謝るんじゃねぇよ……余計に俺が、惨めになるじゃねぇか……」


 立ち上がり、良太は小さく「スマン」とだけ口にすると振り向かず何処かへ消えていった。そしてまた識也は一人残された。

 大の字になったまま識也は天井を見上げた。グルグルと旋回していた視界は徐々に治まりをみせ、代わりにぼんやりとした鈍痛が次第に激しい苦痛へと変化してくる。口の形を少し変えるだけでも顔をしかめてしまうくらいに痛く、顔をしかめる事でまた痛むという悪循環だ。

 痛みを堪えて胸いっぱいに息を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。目を閉じてもう一度深呼吸をすると今度は溜息になった。


「俺だって惨めだっつうの……」


 起き上がる気がしない。痛いのは果たして顔なのか、それとも心か。眼を開けても閉じても良太と未来の顔が浮かんできて、どうしようもなく識也を苛んでくる。もうこのまま眠ってしまえば、この苦悩から解放されるのだろうか。

 識也がそのまま眼を閉じようとした時、夕陽に伸びる影が識也を覆った。


「随分と派手にやられたものだな」


 眼を開け、声の方を見遣る。

 そこに居たのは音無教諭だった。薄いブルーのカッターシャツの上にいつもと同じく綺麗に洗濯された白衣を身に纏い、黒いタイトスカートからは細い脚が真っ直ぐに伸びている。いつも通り清潔そうな印象だが、よく見れば襟の所にポツリと何点か丸いシミがあったり、白衣の裾が僅かに黄ばんでいたりしている。印象とは違い、結構不精なのかもしれないな、と識也は痛む頭の中で思った。

 音無は一度言葉を発したきり黙って識也の反応を待っている。彼女にしてみればただ無感情に見下ろしているだけだろうが、切れ長で鋭い目つきで見られると睨まれている様だ。そう感じるのは識也が良太に対して負い目を感じているからだろうか。


「……別にたいした怪我じゃありませんよ。ちょっと友人に撫でられただけです」


 口から流れる血を拳で拭いながら答えた。体を起こすと倒れた時に打ちつけたか、顔だけでなく背中や腕も痛みを訴えてくる。それでも識也は痛みをおくびにも出さずに何でも無い風を装ってみせる。つまらない意地だ、と識也は内心で吐き捨てた。


「そうか。まあ、君がそう言い通そうとするのなら私も深くは追求しない。他人の恋路に首を突っ込んでもロクな事にはならないからな」

「……見てたんだとしたら人が悪いですね」

「別に見てなどいないさ。だが学生が喧嘩をするのは大抵が恋愛絡みだと相場が決まっている。まして学内で起きて、普段は他人の恨みを買う真似をしないような生徒が当事者なのであれば、ね」


 そう言いながらこの化学教師は識也に向かって手を差し出した。識也が手を取るか逡巡を見せると、促すように音無は言葉を継いだ。


「立てるなら来たまえ。怪我の治療くらいはしてやろう」


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