河童の一日~其ノ十~

河童は冬が苦手だ。というと「いつも裸で寒いから」と思われがちだが、そこは慣れでなんとかなる。近年ではヒートテックの甲羅も、すっかり普及してきたし。


だから本当の問題は乾燥のほうだ。河童は乾くと急激に弱体化する生物である。特に頭部に載っかったヘッドソーサーの乾きは致命傷になる。


人間は転んで頭を打って死亡した際などに、よく「打ちどころが悪くて」という表現を使うが、河童の場合は「乾きどころが悪くて」天に召されることが頻繁にある。つまり冬場の乾燥は、僕ら河童にとって殺人的ですらある。いや殺河童的か。


何はなくとも保湿、保湿である。「保湿こそ我が人生」と言っても過言ではない。しかし僕は残念ながら、生まれながらの乾燥肌。河童の乾燥肌など皮肉にもほどがあるが、それでも保湿、保湿でなんとか今日まで生きてきた。あ、いま思ったけど「河童の乾燥肌」って、なんだかことわざっぽいよね。でも乾いたら本当に死んじゃうよね。


というわけで毎年冬場には皮膚科へ通うことになるのだが、近所の行きつけの皮膚科が先日潰れて僕は途方に暮れた。しかし途方に暮れ続けていると河童は死んでしまう(人間もそうだろうか?)ので、今日は別の皮膚科に行ってみることにした。


前の病院で処方してもらっていた「いい感じの保湿クリーム」がすっかり切れてしまったため、今日はなんとしてもそれと同等に「いい感じの」をもらわなければならない。もちろん、初めて行く病院に嫌な予感はしていた。


自宅から2番目に近い、いや、前通ってた皮膚科が潰れた今となってはもっとも近いその皮膚科の名は、「いぬい皮膚科」という。学校からの帰り道、ちょっと遠回りして、僕はいぬい皮膚科の待合室にいた。


窓口で初診受付を済ませ、待合室で診察を待つ間、いつもながら目のやり場に困った僕は、壁に額装された医師免許証を漠然と眺めていた。するとその冒頭部に、河童の敵である「乾」という漢字をなぜだか見つけたような気がして、いったんは目をそらした医師免許証を二度見した。


するとその恐るべき漢字は、あろうことか二個に増えていた! いや二度見たから二個になったのではなく、最初から二個書いてあったのだろうが、そのいかめしい文字の並びに、河童である僕は慄然としたのだった。


そもそも病院名を認識した時点で、気づかなかった僕が浅はかであったという他ない。「いぬい皮膚科」の「いぬい」は、多くの場合漢字で「乾」と書くに決まっているのだ。それを、そのひらがなの並びから来る「犬っぽさ」や「ぬ」の珍妙な字面、さらには上から読んでも下から読んでも「いぬい」になるというチャーミングな回文感に惑わされ、のこのこと不吉な領域に足を踏み入れてしまったのだった。


しかもその医師免許証に書かれていた院長の名前は、「乾 乾次」。なるほど、きっと次男なのだろう……などと呑気に考えている場合ではなくて、「乾」の字が二文字続く名前など、河童にとってはもはや暴力以外の何ものでもない。これはもはやとんでもない「ドライ・ハラスメント」であり、絶対に仲良くなれる気がしないのである。


そんな憤りを抱えたまま5分ほど待ち、名前を呼ばれ診察室に入ると、中年の男性医師が椅子ごとクルリとこちらを向いた。胸のネームプレートには、「乾 乾次」と書いてある。院長だ。


とはいえ、ここで呪われた名前ごときに怖じ気づいている場合ではない。こちとら、どうしても「いい感じの保湿クリーム」が入り用なのである。僕は謙虚に、自分が乾燥肌であること、特にヘッドソーサー部分の乾燥によるひび割れが致命傷になることを伝えた。しかしそれに対する乾先生のリアクションは、驚くべきものだった。


「いやウチ、皮膚科だからねえ」


僕が呆気にとられていると、乾先生は続けた。


「お皿は、皮膚じゃないよねえ。普通に考えれば」


僕は自分の脳内で巻き起こる混乱を懸命に収拾して、あえて落ち着き払ったトーンを装って訊ねた。


「では皮膚でないとしたら、いったいなんなんでしょうか?」


「まあ皿だから、いちおう瀬戸物なんじゃない? 知らんけど。治療っていうより修理だよね、修理」


「いや、でも前に他の皮膚科で出してもらった保湿クリームが効くんですよ。皮膚用の」


「あっそ、じゃあ唾でもつけときゃ治ると思うよ。まあ欲しけりゃ出すけど、クリーム。いる?」


「……ください」


最寄りの薬局で処方箋を提示し、凡庸な保湿クリームを受け取った帰り道、僕は無意識のうちにふらりと瀬戸物屋へ足を踏み入れ、安っぽい柄の入った様々なお皿を、片っ端から手にとって見ていた。もちろん買う気も、ましてや装着する気など一切ありはしない。


むしろ店じゅうの皿という皿をことごとく割ってやりたい、ついでに自分のヘッドソーサーすらも、という謎の破壊衝動に駆られたが、「河童、皿を割る」という翌日のスポーツ新聞の見出しが頭に思い浮かんで、僕はそのままとぼとぼと帰路。

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