第六話「魔竜王の咆哮」

 彼は今、満たされていた。


 全てが自分の想い描いた筋書き通り。


 魔竜王の力を手にすることで、唯一無二で絶対の存在となった自分。

 それは、望みさえすれば、時間すら支配できるのではないかとも思えるほどの力だった。


 何者も、我に抗うことはできない。


 が、しかし、それは同時に退屈な時代の幕開けでもあった。


 だが――

 あの男だけは違った。


 彼の口元が、闇の中でニヤリと歪む。

 勇者アドニス。

 エメラルダ姫の元親衛騎士。


 思えば、あのとき……

 姫を奪ったあの夜、アドニスを生かしておいて良かったと思う。

 若い芽は成長し、真っ赤に熟れた実を付けた。

 あとは、それを食すのみ……


「クックック……」


 思わず漏れた笑い声が、闇の中に響いた。






「『我が命に応じ、扉よ開けっ!』」


 そのとき、扉の向こうから古代の言葉を叫ぶ声が聞こえた。

 その言葉を鍵として、玉座の間の扉は開いてゆく。


 開け放たれた扉から差し込む光が、一筋の道となって玉座を照らし出した。

 玉座に悠然と構える初老の男。

 禍々しい瘴気をまとい、片肘を付く姿。

 この悲劇の元凶。


「ジャグナ――――スッッッ!!」


 アドニスは、渾身の怒りを叫びに変えた。

 その姿勢を崩さずに、ジャグナスはニヤリと笑う。

 地の底から湧き響くかの如く陰惨で、お前は無力だと言わんばかりの冷笑。

 それは、沸点にまで達しせしめた彼の怒りを、更なる高みへと押しやった。


「クックックッ……そう、いきり立つな。ここは、人間のお前には暗かろう……」


 ジャグナスは立ち上がり、スッと腕を上げる。


「『明かりよ……』」


 その古代の言葉を合図に、壁の灯台に青白い炎が灯った。


「魔竜王を取り込んだせいか……暗闇の方が落ち着くのでな」


 灯りに照らされた玉座の間は、エメラルダ姫が治めていたときと何一つ変わっていなかった。

 ただ違うのは、玉座に姫の姿はなく、そこには邪悪なる魔竜王がいる。


「ジャグナス!! 姫はどこだっ!!」

「案ずるな、姫は無事だ……今、その姿を見せてやろう」


 ジャグナスが指を鳴らすと、玉座の隣りに置かれた水晶球が光り、空中に映像を映し出した。


「これは……水牢!?」


 透明な球の中いっぱいに張られた水。

 その中に揺らぐ姿は――


「姫っ!!」


 姫は瞳を閉じ、祈るように両手を胸の前で合わせている。


「この液体は、我の魔力で制御されている……この中に外の声は届くことはない……」

「くっ! 何のために、こんなことを!!」

「ククク……この女、なかなか強情でな……我のものになることを拒み続けた」


 ジャグナスは、ゆらゆらと浮かぶ姫を見つめる。

 その目が、突如見開かれた。


「ならば、我の海の中で、そのくだらぬ人格を消せばよい!」


 見開かれた目は、狂気の色に染まっている。


「そして、我に従順な人格を書き込み、新たに生まれ変わらせれば良いのだ! 力も世界も手に入れた! あとは姫の愛さえ手に入れれば、我の望みは叶えられる!」

「それで手に入れた愛に、何の意味がある!!」

「いつの世も、他人には理解できぬ愛があることを知れ、アドニス!」

「お前のは愛じゃない、ただのエゴだ!!」

「ククク、吼えるがいい……人格の消去はまもなく始まる。我が、全ての支配者となる時が来たのだ!」


 天を仰ぎ見て笑うジャグナスに、アドニスは剣を構える。


「ならば……その前にお前を倒し、姫を救い出してみせる!」

「やってみるがよい!」


 ジャグナスの手の中に、ディアドラの命を奪った短剣が静かに現れた。


「貴様に、魔竜王の本当の恐ろしさを教えてやろう」


 ジャグナスは鍔にはめられていた紅く脈打つ宝玉に手を掛け、それを一気にむしり取る。

 そして口を蛇のように大きく開き、宝玉を一口で呑み込んだ。

 その異様な光景に、果てしない戦慄が走り抜ける。


「グウゥゥゥ……ウガァァァァァァァァァッ!!」


 取り巻く大気が震え出す。


「ガァァァァァァァァァオオオオオ――――ン!!」


 魂をえぐるような魔竜王の咆哮は、少しでも気を抜くと意識を持っていかれそうだ。

 見開かれた眼は、ディアドラを喰った宝玉のように、紅く紅く輝いている。


 やがてその顔が、体が形を変えてゆく。

 口が裂け、角が生え、破れた服の下から黒い鱗が現れた。

 体はみるみるうちに巨大化し、玉座の間を突き破る。

 壁が砕け、天井が崩れ、辺りはたちまち瓦礫の山と化した。


「くっ……ジャグナスッ!」


 アドニスは叫びジャグナスを睨むが、それ以上言葉は続けられなかった。


 アドニスの瞳に映るもの、それは翼を持つ巨大な一角の黒竜の姿だった。


 血の色に染まる瞳。

 鋭く輝く一本角。

 空気をも斬り裂く大きな鉤爪。

 闇よりも深い黒色の鱗。

 巨人ですら絞め殺せそうな、長く太い尾。

 その鼻と口からは、呼吸をする度に黒い炎が漏れ出している。


 その暗黒竜の姿は、まさに恐怖と絶望の象徴だった。


「何てことだ……」


 かろうじて、うめくような声が出た。


「クックックッ……この姿になったら、もう優しくはできんぞ」


 ジャグナスは言う。その声だけで、魂が砕けそうなほどの威圧感を与えてくる。


「ここは狭い……」


 ジャグナスはつぶやき、背中の巨大な翼を広げて飛び上がった。にわかに突風が巻き起こる。


「ついて来れるのだろう?」


 上空から玉座の間を見下ろし、ジャグナスは悠然と言う。


「当然だ!」


 アドニスが古代語の呪文を唱えると、身に着けていたマントが光り輝き、体が宙に浮かび上がる。

 その様子に、ジャグナスは満足げに口端を吊り上げた。


 ジャグナスと対峙するアドニス。

 その背中を冷たい汗が伝ってゆく。

 息遣いも荒くなる。


(気圧されているのか……!)


「どうした? 顔色が悪いぞ」


 そんなアドニスを見透かしたかのように、ジャグナスは笑った。


「貴様から来ないのなら、こちらから行ってやろう……」


 ゆらり――と、動いた次の瞬間、爆ぜるようにジャグナスが迫る。


「ちいっ!!」


 とっさに上昇し、襲い来る爪をすんでのところで避けた。

 空振りした爪は、城の屋根をいとも容易く斬り裂いてゆく。

 あの爪に触れたが最後、その体は肉塊へと姿を変えるだろう。


 だが、逃げてばかりもいられない。

 アドニスは意を決すると、鎧に込められている〈身体強化フィジカルブースト〉の魔法を開放し、白銀の輝きを纏ってジャグナスへと飛んだ。

 迎え撃とうと迫る爪を避け、滑るように懐に潜り込んで渾身の一撃を叩き込む。

 鳴り響く高音、飛び散る火花。

 黒鱗を、そして肉を斬り裂く感触が、そこにはあった。


 が、その傷は即座に再生を始める。


「くそっ!」


 そのまま二度、三度と斬りつけるが、再生する体には、さしたる傷にもなっていない。


「ならばっ!」


 アドニスは後ろに飛んだ。


「これを受けてみろ!」


 アドニスの両手から次々と放たれる〈聖なる矢ホーリー・アロー〉の神聖魔法。

 邪悪を打ち砕く聖なる矢は、全てジャグナスに直撃し爆発した。


「まだまだ!!」


 なおも〈聖なる矢ホーリー・アロー〉を放ち続ける。

 嵐のような轟音と共に爆煙が巻き上がった。


「再生するというのなら、それが追い付く前に次の攻撃を加えればいい!」


 激しい猛攻。

 爆煙が、ジャグナスを包み込んでゆく。


「トドメだっ!」


 アドニスは頭上に手をかざした。


「はぁぁぁぁっ!!」


 手の中に幾本もの聖なる矢が現れ、一つに重なり、まばゆく輝く巨大な槍となった。

聖撃槍ホーリー・ランス〉――それは、単体への攻撃ではあるが、神聖魔法の中で最大の攻撃力を誇る。


「落ちろ――っ!!」


 放たれた聖なる槍は、うなりを上げて爆煙の中に突き刺さった。

 魔竜王を貫く確かな手応え。

 白い光の大爆発が巻き起こる。


 だが、その光の爆発が収まったとき、アドニスは絶望というものを覚えた。

 そこには、悠然と自分を見るジャグナスがいたのだ。


「今のはいい攻撃だった……しかし、我を倒すには少し力不足だったようだ」

「……くっ!!」

「貴様には本当に驚かされる……ただの人間でありながら、ここまでの力を持つとは」


 そう言って笑う声は地響きとなり、大地を揺るがせる。

 目を細めるジャグナス。

 その笑い声が消えたとき、そこはかつてない静寂に包まれた。

 巨大な口が、静かに開かれる。


「さあ、終焉の時だ……!」


 狂気の眼が見開かれ、開いた口から黒い炎が吐き出された。

 炎は、それ自体に意志があるかのようにアドニスに迫り、絡み付く。


 そのとき、白銀の鎧が強く輝いた。

 輝きはアドニスを包み込み、黒き炎を消し飛ばす。


 だが……

 次の瞬間、鎧に亀裂が走った。

 防護の力をも上回る暗黒の炎の前に、魔法の鎧は無残にも輝きを失い、そして砕け散る。


「白銀の鎧が!?」

「どこを見ている」


 刹那、体を襲う強い衝撃。

 巨大な尾の一撃に、アドニスは玉座の間に叩きつけられた。


「ぐ……はぁ……」


 全てが桁違いだった。


 上空ではジャグナスが、次の炎を吐き出そうと大きく息を吸い込んでいる。

 鎧の力を失った今、あの黒炎から身を護るすべはない。

 だが、避けようにも体が動かない。

 まるで、全身の骨が砕けてしまったかのようだ。


「ここまでなのか……」


 絶望がアドニスを襲う。


 そのとき、手に何かが触れた。


「これは、ジャグナスの水晶球……」


 水晶球の中には、水牢に浮かぶ姫の姿が映し出されている。


「そうだ……姫は、まだ戦っておられる……なのに、俺が先に諦めるわけにはいかない!」


 アドニスは四肢に力を入れ、痛む体を引きずって、無理やりに立ち上がった。


「ほう、まだ立つか……だが、もはや我の炎を防ぐ術はない!」


 ジャグナスの口が大きく開かれた。


「終わりだ、アドニス! その全て、塵と化すがよい!!」


 その口から吐き出された黒炎が、アドニスもろとも玉座の間を飲み込んだ。

 勝利を確信したジャグナスの笑い声が、辺りに響き渡る。


 ――次の瞬間、黒炎の中に輝く金色の光。

 それは閃光となって、ジャグナスを貫いた。


「グアア――ッ!?」


 魔竜王の一本角が切断され、地上へと落ちてゆく。


「き、貴様……何故……!」


 ジャグナスは金色の光を睨んだ。そこには、自分を見据えるアドニスがいた。


「ディアドラ……お前の言うとおりだ。あいつを倒すのは、神でもなきゃ無理のようだ」


 アドニスは静かにつぶやく。


「ま、まさか!?」


 金色に輝くその姿に、ジャグナスは焦りを隠せず叫んだ。


「貴様、神を降臨させたのか!!」


降臨コール・ゴッド〉、それは自分の肉体を器として、神を宿らせる神聖魔法だ。

 神々の大戦で肉体を失った神は、この世に介入する術を失ってしまった。

 それゆえ、その魂を器に宿らせることで、かつての力を取り戻すことができるのだ。


 アドニスは自らを器とし、光の至高神を降臨させることで、魔竜王を上回る力を手にしたのだった。


「だ……だが、それでは貴様の体が持つまい!」


 神を降臨させた器は、その超越した力に耐えられず、肉体はおろか魂までも消滅する。


「しかし、お前を倒すにはこれしかないんだ!」

「グオオオオッ! アドニス……貴様ァァァァ!」


 ジャグナスが吠えた。


「グァァァァッ、我の魔力が漏れてゆく――――!!」


 切り落とされた角の斬り口から溢れ出す黒い光は、ジャグナスの体を包んでゆく。


「お、愚か者め! あの角は、魔竜王の力を制御する封印が掛けてあったのだぞ――!!」


 ジャグナスの叫びが響き渡る。


「わ、我の意志が消えて……い……く……」


 そして、その体は完全に闇の中に飲み込まれていった。


「ならば……魔竜王も倒すまでだ!」


 アドニスは強く言い放った。


 ――そのとき!


 ドクン――


「ぐっ!?」


 かつてない激しい疲労感に、アドニスは胸を押さえた。


「くうっ……も、もう限界だというのか……!」


 アドニスの体から、金色の光が広がってゆく。


「ぐっ……ううっ……! アアアアアアアッッッ――――!!」


 城の上空に広がる、金と黒の輝き。

 アドニスの叫びは、その光の中に消えていった。

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