⑫<王子5> 『純粋な想い』


⑱【ロキ】


 暗闇の森に女が仰向けに倒れている。そして、それを一人の男が見つめている。

 水音だけが響く、薄暗い場所ではあったが、不気味さは感じない。

 『夜のノカ』近くの大きなキノコから降り注ぐ、光の胞子が俺達の周辺を回っている。

 輝苔カガヤキゴケが近くに群生しているのだろう。

 中心が淡く光る水玉の群れが、ふわりふわりと幻想的に通り過ぎていく。


 俺は自分の現状を客観的に見つめていた。

 俺達を助けた大白鳩シェバトの群れは姿を消していた。

 元々影しかなかったのだが、影も形も消え失せていた。


「ここは……?」

 シルワの大きな目がうっすらと開く。


「『夜のノカ』近くの森だ。……やっと、目が覚めたか」


「……まだ覚めてない。優しく起こして」

 俺は彼女の言われるがまま、頭を撫でる。

 彼女の柔らかな髪が俺の指先を伝っていく。


「……素直なのね。珍しい」


「たまにはな。……俺も素直な時があるさ」


「……ロキ、“彼女”には、気をつけて。“彼女”は――」

 何かを伝えようとする、彼女の口を、俺は指で止める。


「今はいい。もう、いいんだ」


 シルワの髪を撫でつけながら、彼女の身体に目を向ける。

 晒されていた腕も足も、傷だらけになっていた。

 木々の枝で切ったのだろう。白い肌が裂け、血を出している。



 そして――



「……痛みはもうないわ。そんな顔しないでよ」

 腹には背まで貫通させた大きな穴が空いていた。彼女の出した大量の血で、ドレスの下半身は真っ赤に染められている。


「あーあ……綺麗な身体、見せたかったな」


「……十分過ぎるほど、綺麗だ」

 出てくる声は震えていた。

 自然と、視界が滲んでいた。彼女の笑顔がまともに見られない。

 彼女の腕に、水の滴が落ちていく。


「すまない。……俺は、お前を護れなかった」


「謝らないで。だったらもっと、してもらいたいこと……あるから」

 彼女の声も震えていた。

 普段通りに振る舞っている。取り繕ったような笑顔を浮かべている。

 けれど、彼女の瞳は濡れていた。垂れ目の端から水滴が流れ落ちる。


「……お前に、涙は似合わない」


「お互い様でしょ。だから、お別れも笑顔でしましょう」

 お別れ、その言葉に胸が詰まる。

 そう、俺はもう理解している。彼女も察している。


 もう俺達は、二度と会えないことを。



「……何か、俺にしてもらいたいこと、あるか?」

 彼女の頬に手を置き、尋ねる。彼女はしばらく考えて、こう言った。


「……何も。今、ここにいてくれるだけで、私は嬉しい」

 彼女の魅せる笑顔は美しかった。

 それは幻想の森が魅せるどの光景よりも、俺の心に刻まれる情景だった。


 だから俺は、

 彼女の唇に、自分の唇を重ね合わせていた。


 暖かい彼女の舌と俺の舌が重なり合い、絡み合う。



 幻想が舌を伝って体中に駆け巡る。



 それは長く、一瞬の時間だった。いつまでも続いてもらいたい、時間だった。


「シルワ……」


「うん?」

 唇から離れ、俺は彼女の顔を見つめる。形の良い頬を撫でる。

 彼女の瞳を見つめながら、言った。


「――愛している」


「……嘘つき。でも、それでも……嬉しい」

 彼女の声はもう、虫のように小さくなっている。


「ロキ、落ち着いたら……『あの部屋』の机にある、引き出しを見て」


「……何が入ってるんだ?」


「私の、手帳が入ってる。あなたに見てもらいたい。私の、全てが、真実が、そこに――」


「分かった。必ず、見るよ」

 だからもう、そんなに頑張るな。俺もお前も、笑って別れるんだろう。


「ロキ……」

 返答の代わりに顔を撫でる。彼女は俺のされるがまま、気持ちよさそうに微笑みを浮かべている。


「出会えて、本当に良かった」

 返答の代わりに口づけをする。唇同士が重なり合い、その後に彼女の甘い吐息が訪れる。


「ありがと――ロキ、好きだよ――」

 お礼なんかいい。

 その言葉は彼女には届かなかった。


 彼女の愛情に応える言葉は、伝わらなかった。



 幻想の光が煌めく森深くで、一人の男が女を見つめる。

 女は安らかな笑みをたたえたまま、天へと昇っていった。



⑲【ロキ】


「何故だ……何故俺は……」

 ――何故俺は彼女を信じられなかったのだろう。

 彼女は純粋に、俺を愛していた。

 最後の最後まで、俺に愛を伝えてきた。


 『あの部屋』にいるときも、ただ、子供のように、少女のように俺に愛を求めてきただけだ。

 それなのに、その姿を見て、俺は邪推をしてしまった。

 何か裏があるんじゃないか、そう錯覚してしまっていた。


 俺は彼女を信じられなかった。


 この結果は、俺が招いた結果だ。

 俺が彼女を信じていたら、違った未来があったかもしれない。



「何故だ……何故、こんなことになった」

 微笑みを浮かべ目を閉じる女を見つめながら思考を張り巡らせる。

 この町で起きた出来事を並び立てる。



 考えるまでもない。俺はこの事件の全容を何も掴めていない。

 沢山の事象が起こり、俺は沢山の事象を見過ごしてきた。それをどれだけかき集めても、まるで全容が把握できない。

 どれだけ思考を張り巡らせようとも、答えなんて出る訳がない。

 俺の視点だけでは、この町で起こっている事件の全容は絶対に分からない。

 パズルのピースが半分以上欠けているような感覚だ。


 だが俺は諦めない。絶対に、シルワの死を無駄にはしない。

 この町で起こった事件、そこには必ず黒幕がいる。

 シルワを影の魔法で殺害し、あざ笑っているヤツが必ずいる。

 必ずそいつを見つけ出す。あぶり出してみせる。


「……王族を、舐めるなよ」

 俺はそいつを絶対に許さない。

 必ず見つけ、裁いてみせる。



 長い思考は不意に止められた。

 いつの間にか俺とシルワの周りを沢山の男達が囲んでいた。


 男達はめいめい、俺とシルワを交互に見つめ、怒りと悲しみが合わさった表情を見せている。

 男達の輪が一部欠け、男が一人俺に近づいてくる。

 眉間に皺を寄せ、ゆっくりと近づいてくる。


「……オーレンか」

 恰幅の良い紳士的な格好をした男が俺を睨み付けている。

 形の良い、口髭が動いた。


「少し、ツラを貸してもらおうか……王子」

 その瞳には、その声には激しい憎しみが宿っていた。




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