5
目が覚めると、ハルは自分が床の上で横になっていることに気づいた。
何となく、見覚えのある場所だった。けれどそれがどこなのかは、すぐにはわからない。逆さまになった文字を読もうとするみたいに、まだ意識がはっきりとは戻っていなかった。
「――ハル君、大丈夫?」
不意に、声が聞こえた。
それがアキのものだということは、すぐにわかる。自分の席の隣にいた女子生徒のものではない。ここはもう、母親のいた夢の世界ではないのだから。
「うん――」
と言って、ハルは上体を起こす。まだ体が半分眠っているみたいに、力がうまく入らなかった。ハルは軽くうつむいて、額に手をあてる。
どんな夢を見ていたのかは、はっきり覚えていた。そこに誰がいて、何を受けとったのかも。それは決して、朝露といっしょに消えてしまうようなものではない。
ハルは何かを確認するように、じっと自分の手を見つめた。そこには、何の痕跡も残っていない。小さな温もりの一欠片さえ。
けれど――
ハルは確かに、それが今も自分の中にあることがわかっていた。
「本当に大丈夫、ハル君?」
と、もう一度アキが訊く。
「うん、大丈夫」
ハルはうなずく。
「でも――」アキはハルのことをのぞきこむようにして言った。「ハル君、泣いてるよ?」
気がつかなかった。
自分で頬に指をあてると、ようやくそのことに気づく。まるで何かの忘れ物みたいに、そこにはかすかな涙の跡があった。
「……心配ないよ」
と、ハルは涙を拭いながら言った。夢の小さな名残りは、それだけで簡単に消えてしまう。
「ちょっと、悲しい夢を見てただけだから」
そう言ってから、ハルはあらためて周囲を見渡した。
白い円柱に、ヴォールト式の天井、外側に広がる緑の庭――見覚えがあるのも当然だった。そこは〝ウロボロスの輪〟をくぐる前にいた東屋と、まったく同じだったのだから。
「ここは――?」
一瞬、ハルは妙な錯覚に陥る。実はまだ、輪をくぐっていなかったのだろうか。それとも、いったんくぐってから、また元の世界に戻ったのか。
「いや、そういうわけじゃない」
ナツの声が聞こえた。
「俺たちはまだ〝向こう側〟にいる。というより、〝こちら側〟といったほうがいいのかな」
その言葉通り、東屋にいるのは魔術具をくぐった子供たちだけだった。さっきまでいたはずの、ほかのみんなはいない。そこにはひどく不自然な感じのする空白が広がっていた。
「でも、どうして――?」
自分は眠っていたのか。
「あんただけじゃない」
一番最初に輪をくぐったサクヤが言う。
「たぶん、あいつが何かしたんでしょうね。あたしたち全員が、夢を見ていた。何しろここは、あいつの世界といっていいんだから」
「…………」
やはり、あれは牧葉清織の見せた夢のようだった。未名によれば、完全世界を実現するための最初の段階。清織はおそらく、輪をくぐった人間に対してそうなるような仕掛けを施しておいたのだろう。
しかし、だとすればどうしてみんなが起きているのか。その時点で、すべては決まっていたはずだった。わざわざ夢から覚まさせる必要はない。
ハルは立ちあがってから、そのことを訊いてみた。
「私の魔法が夢を遮ったのよ」
質問に答えたのは、フユだった。彼女は何かを確かめるみたいに、額の髪留めに手をやった。雪の結晶を象った、その髪留めに。そこに残されていた、ある魔法のことを思いながら。
フユはどこか不機嫌な、どこか懐かしそうな表情をしている。
「まったく、あのお節介のおかげね」
髪留めから手を離すと、フユはほんの少しだけ微笑んで言った。雪が音もなく融けるくらいのかすかさで。
「あいつの魔法が、私の〈断絶領域〉に作用したのよ。それが、牧葉清織の魔法を遮った」
奈義真太郎の〈幻想代理〉――
それは〝人に魔力を与える〟ものだった。奈義はかつてその力を使い、鴻城への復讐を企てた。その過程である少女の魔法を変化させ、そして最後にはそのすべてがフユに手渡されている。それ以上に大切なものと、いっしょに。
奈義のその魔法によって、フユの〈断絶領域〉が強化されたのだった。それは自動的にフユたちを守り、牧葉清織の魔法に対して防御壁を作っている。
彼女がどんな夢を見ていたのかは、誰も知らない――
「今、壁は大体この東屋全体を囲んでいるわ」
とフユは言った。
「この中にいるあいだは、とりあえず牧葉清織の影響から逃れることができる。でも私にできるのは、これだけ。壁を消してしまえば、また同じ夢を見ることになるでしょうね」
ハルは少しだけ、自分の手を見つめた。たぶん今度見る夢には、母親が登場することはないだろう。
「何にせよ、どうするか決めなくちゃならないだろう」
少し難しい顔をして、ナツは言った。
「このままだと、俺たちは牧葉清織のところにまでたどり着くこともできないんだからな」
けれど五人は一様に、沈黙した。この世界と牧葉清織の〈終焉世界〉のことを考えれば、それは難しい問題だった。神様の目をごまかすようなものなのだから。
「いったん元の世界に戻って、対策を立てなおすっていうのは?」
とアキが半分だけ手を挙げて発言する。
「それは無理ね」
フユは即座に却下した。
「私の魔法が今みたいな効果を発揮するのは、おそらくこの一度だけ。もう一度かけなおすようなことはできない。何しろ、ほとんどの力を使ってしまっているから」
「この壁がもつのは、あとどのくらい?」
ハルが確認する。
「しばらくは大丈夫でしょうけど、そう長くはないわね」
それから、サクヤがアキと同じように挙手をして言った。
「何とかして眠らないようにすれば、いけるんじゃないの?」
「例えば?」ナツが訊く。
「……頬をつねるとか」
「人魚の歌なら耳に蝋をして防げるだろうけど、俺はそんな痛いめにあうのはごめんだな」
冗談ぽく笑いながら、ナツは首を振った。
「それに、問題は夢を見ることだけじゃない」フユが補足するように言った。「牧葉清織の魔法からは誰も逃れられない。それこそ、首だけにされて生かされるようなことだってありうる」
「首切り勝負を挑まれたときには便利そうだけどね――」
アキは虚しくつぶやいてみた。
「確かにここはいったん、戻るしかないのかもな」ナツはちょっと顔をしかめながら言う。「フユの魔法が続くあいだは、向こうと行き来ができるはずだ。大人たちに相談して、有効な手段を考えるしかないかもしれない」
「室寺さんたちは、ずっとそれを探してたはずだよ」ハルは小さく首を振った。「今さら、うまい方法が見つかるとは思えない」
再び、五人のあいだに沈黙が降りている。計量器の針を振りきりそうな、重い沈黙だった。事態は切迫している。実質的には、もうチャンスはなかった。目の前に配られたカードで勝負をするしかない。
「ちょっと無理なんじゃないかな」
と、アキは弱音を吐いた。
「だって、小説でいうなら作者に歯向かうようなものでしょ? 立場が違いすぎるよ」
それを聞いて、ハルは何かを決意するように顔をあげた。神々から火を盗んでくることを決意した、どこかの巨人ほどではないにしろ。
「――もしかしたら、あれでうまくいくかもしれない」
と、ハルはつぶやくように言った。
「何か考えがあるの?」
フユに訊かれて、ハルはうなずく。そうしてハルは、ナツのほうを見た。
「ナツの魔法で、やって欲しいことがあるんだ」
「……名案なんだろうな、きっと?」
茶化すように、ナツは言う。
「たぶん、ぬいぐるみに〝ジッパー〟を描くよりはね」
そう言って、ハルは少しだけ笑ってみせた。
※
牧葉清織は樹の根元に座りながら、奇妙なことに気づいていた。
こちら側に来たはずの五人の子供たちが、本の記述から消えてしまったのである。まるで、どこかの不埒な鼠捕りに連れさられてしまったみたいに。
志条芙夕の魔法によって〈終焉世界〉の影響から逃れたことはわかっている。清織の魔法はこの世界のすべてを記述し、書き換えることができたが、完全魔法を自由にすることはできなかった。それは、この世界と同等の存在だからである。
しかし清織の手元にある本には、魔法の壁による不干渉領域が消滅したあとでも、新しい記述は発生しなかった。スランプに陥った作家が、一行の文章も書けなくなってしまうみたいに。
「いったい、どんな魔法を使った……?」
つぶやいてから、清織は小さく笑った。まさしく子供たちは、魔法を使ったのだ。この完全世界を支配する力そのものからさえ、自由になって。
(まあいい……)
と清織は目をつむって、心の中で思った。
あの子供たちが何をしたところで、この世界を変えることなどできはしない。彼には永遠の時間があった。そして彼を変えることは、どんな魔法を使ってもできはしない。
牧葉清織にはすべての物語を書き換えるだけの時間と、動機が用意されていた。
そして何より――
そのための、魔法が。
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