2
全面降伏を宣言したあと、鴻城は言った。
「――少し話をしてもいいんだろうな?」
清織と向きあいながら、鴻城はちらっと、壊れやすいものにでも触れるように櫻のほうを見た。
「もちろん、構いません」
と清織は言った。そしてしばらくのあいだは外に出ていることを告げる。彼の魔法がある以上は、もはや鴻城が無駄な抵抗をすることはなかった。
部屋の扉が閉まる音がすると、あたりには急に静寂が舞い戻っている。自分たちの本来いるべき場所を、ふと思い出したかのように。
「…………」
そして鴻城希槻はあらためて、櫻と向かいあった。
彼女はごく自然な、昨日の時間が今日とつながっているような確かさで、そこにいた。例え永遠が経過したとしても褪せることのない、そんな笑顔を浮かべて。まるでその時間が、これからも続いていくかのように。
「お話は終わりましたか――?」
と、櫻は軽くからかうように訊いた。いつまでも澄んだ余韻の残る、そんな声だった。
「ああ、大体のところはな」
どこかぎこちなく、鴻城は答える。錆びついたネジをゆるめようとするみたいに。百年以上の時間を埋めるのは、そう簡単なことではなかった。
櫻はそれに気づいたように、ちょっと言葉を切る。彼女はもちろん、彼が誰のためにそれだけの時間をすごしてきたのかを知っていた。
時計の針を静かにあわせるような時間が、しばらく流れていった。夜と朝の境界が、次第に溶けていくのを眺めるみたいに。そこには何の物音も、気配もありはしなかったけれど。
やがて鴻城は、体の中に残っていた最後の時間の一欠片を吐きだすように、ふっと笑いながら言った。
「すまなかったな、こんな結果になってしまって」
「ええ、まったく――」
と櫻はおかしそうに笑った。
「やつからどれくらいのことを聞いた?」
鴻城は確認のために訊いた。やつというのはもちろん、牧葉清織のことを指している。
「大体のことは、すべて」
「そうか――」
と鴻城は子供が拗ねて不服そうにするみたいに、ちょっと鼻を鳴らした。
「とんだお笑い種だ。これまで散々時間をかけて、どうでもいい苦労をして、それがこのざまなんだからな。俺はやつのために、せっせと蜂蜜を貯めこんでやっていたようなものだ。間抜けなクマに横取りされるためにな」
「あなたは昔からそうです。賢くて抜けめがないようでいて、肝心なところでは何か忘れている。人を驚かせておいて、自分でも結局驚いたりして」
櫻は慰めようともせず、いたずらっぽく笑う。
「――起きたばかりだというのに、お前は変わらん」
拾った石の意外な重さを持てあましでもするように、鴻城は苦笑した。
「それは、あなただってそうじゃありませんか?」
櫻はにこっとして笑う。その名前のとおり、桜の花が開くみたいに。
二人の時間は、もうすっかり同じになっていた。百数十年という時間を、わずか数分で飛びこえて。どんなに古い本でも、ページをめくりさえすればいつでも同じ物語が繰り返されるみたいに――
「お前にはずいぶん待たせてしまったな。悪かった」
鴻城は心底から詫びるようにして、そう言った。
「ええ、まったく――」と櫻は笑って言う。「私の夢は、あなたの可愛い奥さんになることだったんですけどね」
「……すまんな、何もしてやれなくて」
鴻城は反論もせずに、ほんの少しだけうなだれた。
それを見て、櫻は引きだしにしまっておいた大切なものを取りだすみたいに、そっと笑った。
「でも、私は待たされてなんかはいませんよ。何しろ、私の魂はずっとあなたといっしょにいたんですから……」
そう、それは事実だった。
鴻城櫻の魔法〈
それは〝相手の魂を預かることで、対象者を不死状態にする〟というものだった。彼女に魂を預けているあいだ、その人間は銃で頭を撃ち抜かれようが、刀で体を膾にされようが、決して死ぬことはない。だが、もしも彼女の身に何らかの危害が加えられれば、自動的に同じ運命を迎えることになる。
その魔法が、鴻城希槻にはかけられていた。ただし本来なら、〈楽園童話〉に相手を不老にするような効果は存在しない。
鴻城の状態は、〝停止魔法〟による副産物だった。櫻を含めて自分の魂ごと凍りつかせてしまうことで、肉体の時間経過がストップしたのである。
――同時に、その心の動きも。
鴻城希槻にとっての世界は、その時からほとんど無意味な出来事の山積でしかなくなっていた。水はその冷たさを失い、風はその柔らかさを失い、光はその輝きを失った。本の文字がすっかり薄れて、まるで読めなくなってしまうのと同じで。
宇宙の暗闇で自分の座標を失ってしまえば、世界は容易にその方向を消滅させる。それと同じで、心という定点を失ってしまえば、記憶や人格といった精神は簡単に崩壊する。
そんな状態を、彼は百年以上も続けてきた。
地獄に落ちた古い王は、転がり落ちる岩を虚しく山の頂まで運び続けた。そこには少なくとも苦しみや絶望があったが、鴻城希槻にはそれさえない。凍りついた心には何も感じられない。
それでも、彼にはそれを続けなくてはならない理由があった。
鴻城櫻は現在でいうところの末期癌に冒されていた。癌は全身に転移して、すでに手の施しようがない。火事の勢いが強すぎて、建物が焼け落ちるのを待つしかないみたいに。〝停止魔法〟をかけたのは、そのためだった。
病気の治療法は当時も、そして現在にも存在しない。
だから鴻城希槻には〝
以来、鴻城はそれを顕現させるためだけに存在し続けることになる。
だから、彼女を人質に取られた時点で、すべては決まっていたのだ。それは本質的にも現実的にも彼の魂そのものであり、すべてだった。それこそが、彼にとっての完全世界だった。例え自分の魂の最後の一欠片までを犠牲にしたとしても、それを失うわけにはいかなかった。
あるいは、世界そのものを犠牲にしたとしても。
「――体のほうは大丈夫なのか?」
と、鴻城はできるだけさりげない調子で訊いた。こうして見るぶんにはわからなかったが、彼女の体は健康である部分のほうが少ない。
「たった一時間や二時間で死ぬというわけじゃありませんよ」
そう言って櫻は笑った。例えどれだけの痛みや苦しみがあったとしても、彼女がそれを表面に現すことはないだろう。
「それより、何だか浦島太郎にでもなった気分です」
櫻は言って、玉手箱がないのが不思議だとでもいうふうにあたりを見まわした。
「この部屋こそ何も変わっていませんけど、あなたの格好や、さっきの人だって……聞けば、ずいぶんいろいろなことがあったみたいですね?」
「ああ、何しろ月に人が立つくらいだからな」
「まるでお伽噺――」
櫻はくすっと笑った。
「それで、お月さまにウサギはいたんですか?」
「いや、あれはただの冷たい石の塊だ」
「夢のない話ですね」櫻は不満そうな顔をする。
「何しろ、夢にも見たくないような戦争が何度もあったからな」鴻城はやや重い感じのため息をついて言った。「馬鹿どもに、この町に手を出さないよう交渉する必要もあった」
そのため息の重さで、櫻には鴻城がどれくらいの苦労をしてこの場所を――自分を守ってきたのかを理解することができた。魔法をかけなおすためにも、鴻城は一日たりともこの場所を離れるわけにはいかなかったはずである。
「――いったい、あなたはどれだけの時間を私のために捧げてくれたんですか?」
櫻はほんの少し、うつむくようにして言った。
それがどれだけの時間なのかを、彼女は誰よりもよく知っていたから。
凍りついたその心では、それは知りもしない文字を書き写すような毎日のはずだった。終わることのない物語の、その最後までを。
彼はただ、約束を守るためだけにその行為を行っていた。例え、何百年という時間が経過しようとも動き続ける機械みたいに。その造り主が、機械の意味を忘れてしまったとしても。
「……さあな、そんなことは覚えちゃいない」
と、鴻城はうそぶく。
櫻は激しくかぶりを振って、唇をかみしめながら鴻城のことを見つめた。まっすぐ、もっとも短い距離を結んで。
「もう十分です、希槻――」
彼女は今にも泣いてしまいそうな顔で、けれど声だけはしっかりとして言った。
「だが、俺は結局お前を救えなかった」
鴻城は自分自身を今にも殴りつけんばかりに言った。
「そのことだけを望んでいたというのに。それだけが、俺の完全世界だったというのに――!」
「いいえ、ちゃんと救ってくれましたよ、あなたは」
鴻城櫻はとてもとても静かに、星の光が水面に落ちるように言った。そして、続ける。まるで、その一言だけで何もかもが片づいてしまうみたいに。
「希槻。こんな私のために、ありがとう――」
鴻城は――
百数十年ものあいだ読めもしない本をただ眺めていたような男は――
それだけで、すべてが救われるような気がした。もしかしたら、それこそが完全世界であったかのように。
自分で気づきもしないうちに、鴻城は一
櫻は黙って、その涙を拭ってやった。まるで、鏡に映った自分の顔に触れるみたいに。
「お前が泣かなくてよかった」
と、鴻城は嬰児のようにされるがままになりながら言った。
「……お前には、涙は似あわんからな」
言われて、櫻はにっこりと笑う。
「私は、嬉しいときには泣きませんよ」
二人の魂は確かに、同じ場所に存在している――
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