6
二人の報告を、鴻城は屋敷にある客間で聞いていた。
部屋の床には市松模様のタイルが敷かれ、古風ながらもモダンな雰囲気を漂わせている。外からの光をたっぷり取りいれた室内は明るく、壁の漆喰や年月を経た木材は、空間を柔らかく溶かしていた。音の響きさえ、この場所ではどこか丸くなっている。
そこは鴻城希槻の、秘密の屋敷の一つだった。が、乾の推察通り、ほかとは性格が異なっている。ここでは誰かと会見を行うこともないし、通常の結社の面々を招くこともない。厳重な隠蔽措置が施され、あらゆる記録からも抹消されていた。
この場所は鴻城にとってもっとも個人的なものであり、かつ結社にとっての最重要拠点でもあった。
その屋敷の客間で、ニニとサクヤの二人は長イスに腰かけていた。応接用の背の低い机を囲んだもので、アンティーク調の落ちついたデザインをしている。
鴻城のほうは立ったまま、マントルピースのほうを見ていた。二人には背中を向けている。雰囲気としては、校長室に呼びだされた二人の生徒、というふうでもあった。
「……というわけで、乾重史の撃退には成功しましたが、かなりの情報を敵に渡すことになってしまいました」
サクヤはいつもの調子を潜め、事務的な口ぶりで報告した。この少女にしても、逆らえないものくらいはある。
「――――」
鴻城はしかし、無反応だった。話など耳に入っていないかのようにじっとしている。その様子は、特殊な時間の計りかたをする時計に似ていた。
「あの、希槻さま?」
ニニが躊躇するように声をかけると、
「――そうか」
とだけ、鴻城は言った。それだけで、叱責も皮肉の言葉もない。
「申し訳ありません。あたしたちが迂闊だったばっかりに」
サクヤが言うと、鴻城はようやく二人のほうを向いている。
「いや、お前たちはよくやった。気にするほどのことはない。誰が行ったところで、同じような結果にしかならなかっただろう。むしろ、お前たちだからこその成果だったと言っていいだろう」
もしもほかの結社の人間がこの言葉を聞いていれば、意外なことに驚くだろう。鴻城希槻という人間は、常に相手を冷笑するか罵倒するかで、誉めるということはしない。少なくともそれは、神様が預言者に言葉を与えるのと同じ程度には稀なことだった。
「多少の失敗を気に病む必要はない。お前たちはこれからも必要だ、その調子でがんばってくれればいい。期待をしているぞ」
鴻城の言葉に、ニニはかすかに頬を紅潮させた。
(…………)
その嬉しそうな様子を横目でうかがって、サクヤは何故か複雑な気分になっていた。あの時、乾重史にとどめをさしたのは、あるいはこんなふうに誉めてもらいたかったからではないのか、と変な邪推をしてしまう。
(まあ、いいんだけどね――)
サクヤは頭の粘りをこすり落とす。そもそも、そんなのはどうでもいいことなのだ。
「……でもこうなると、委員会の増援が派遣されたり、この場所の秘密に気づかれてしまうんじゃないですか?」
と、サクヤは念のために訊いてみた。やや差しでがましい質問ではあったが。
「いや、その心配はない」
何故か、鴻城は断言した。音もなく風船を破裂させるみたいに。
「どうしてですか?」
ニニが質問する。
「もう、この町に新しい魔法使いが入ってくることはなくなる」
言われて、二人は顔を見あわせる。鴻城の言葉の意味はわからなかった。
「今はまだ無理だが、そうなってみればお前たちにもすぐにわかる。完全世界の境界が、この世界に越えることのできない壁を作る。計画としては、いささか不完全なものになってはしまうがな……」
鴻城はそれだけを言うと、窓の外に視線を移した。
屋敷の庭では、様々な種類の草花が繁茂している。そのあいだに、秋原の姿があった。この老人は自身も庭の一部であるかのように、そこで働いている。
「お前たちは秋原のお茶でも飲んでしばらく休んでいけ。これからのことについてはまたあとで話す。俺は少し席を外すぞ」
そう言って、鴻城は部屋を出ていった。
途中、秋原に声をかけて指示を出しておく。そうして自分はそのまま、屋敷の南側にある一室に向かった。屋敷は平屋の開放的な建物で、上から見ると十字に近い形をしていた。丘の中腹にあって、斜面から見える景色を遮るものはほとんど存在しない。
鴻城はその部屋までやって来ると、ドアをノックして中へ入った。返事のないことはわかっていたが、そうしないとおそらく、中の人物は承知しないだろうから。
部屋は誰かの居室らしく、簡素な造りになっていた。室内には、小物などが品よく配置されている。窓からは陽光が惜しげもなく注いで、空間全体を満たしていた。それは何だか、鴻城希槻がいつもいる執務室を、きれいに裏返してしまったようでもある。
その部屋の中央には、寝台に似たものが置かれていた。
けれどそれは、ひどく奇妙なものだった。大理石と同じような重量感のある石材で作られていて、表面には紋様とも図像ともつかないものが浮き彫りにされている。ちょうど人の身長ほどの大きさで、平らな直方体になっていた。寝台のようでもあるが、どちらかというとそれは、供物を捧げるための祭壇といったほうが印象に近い。
そしてその石壇の上には、一人の女性が横たわっていた。
彼女は紅葉を散らした鮮やかな緋の小袖をまとい、大和撫子然とした風貌をしていた。項くらいまでの髪に、ほっそりとした顔だちをしている。純粋な、彫琢された種類の美しさを持つ人だった。その口元には、桜の花の色のようなかすかな微笑が浮かんでいる。
「…………」
鴻城は無言のまま、そっと彼女に手を近づけた。
けれどその手は、見えない壁にでも阻まれるようにして、宙空でとまってしまう。どれだけ力を入れたところで、その先へと進むことはできない。手の進行を妨げるどんなものも、そこにあるようには見えない。だが、あるのだ。そこには壁が。時間という壁が。
〝
そう呼ばれていた。あるいは希少系として〝オシリスの棺〟とも。この魔術具は上部の空間を四角く切りとり、その時間を停止してしまう。断裂した時間は空間の障壁と同じで、外からの干渉を一切受けつけることはない。
鴻城希槻が彼女に触れることはなかった。小人たちの作ったガラスの棺とは違って。そしてこの魔法の効力は、一日程度しか持たなかった。その効果を持続させるためには、毎日一度はこの場所を訪問する必要がある。決して触れることのできない、彼女のところへと。
「……そろそろ時間切れらしいぞ、櫻」
と、鴻城は言った。
もちろん、彼女が返事をすることはない。それでも、この男はどこか楽しげだった。月の光が射しているあいだは、白鳥から元の姿に戻れる、とでもいうように。
「完全世界を取り戻すには、いささか時間が足りなすぎるようだがな」
鴻城は自嘲するような、どこか気弱な声で言った。この男らしくない、というよりは、それが本来の鴻城希槻という人間でもあるかのようだった。
「しかし――」
と、鴻城は続ける。
「よく百年以上ももったと思わないか、櫻?」
彼女の微笑みは、魔法がかけられたその時からずっと変わっていない。そして、鴻城希槻の心も。彼の感情は、彼女の微笑と同時に永遠に停止している。
例え世界がその姿をどれほど変えたとしても、この二人が変わることだけはなかった。
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