4
フユの通う彦坂中学校までは、徒歩で三十分というところだった。
最短距離を行けばもう少し短くなるのだろうが、フユは人のいない迂回路をとるのでどうしてもそうなってしまう。時刻も遅めで、他の生徒には極力遭遇しないようにしていた。人ごみの嫌いなフユがその経路に落ち着くのに、それほどの時間はかかっていない。
奈義と会った翌日、天気は昨日と同じように快晴だった。予報では、十二月のこの時期には珍しく晴天が続くらしい。そのぶん朝の冷えこみは厳しく、太陽の陽射しは冷気に磨きあげられたように鋭利になっていた。
「…………」
フユは狭い住宅路をただ一人で、白い息の跡だけ残して歩いていく。
校門を抜けて玄関に向かうと、それでも何人かの生徒たちが靴を履きかえていた。フユも下駄箱から靴を出すと、自分のクラスに向かう。窓が閉めきられているせいか、音の響き具合はどこか妙で、分厚い水槽の中にでも閉じこめられているかのようだった。
クラスに入っても、フユは誰とも挨拶はしない。HRまではまだ間があるため、教室にいるのは半分ほどの人数だった。森の蜥蜴みたいにひっそりと、フユは自分の席に着く。
そうしてカバンの中身を机に移していると、ひそひそと囁くような声が聞こえた。その声はどうやら、窓際の席にたむろしている三人組の女子生徒たちのものらしい。
「――志条さんてさ、結局球技大会に出てないんだよね」
と、そのうちの一人が言う。
「うん、来ただけで」
「足りないところの人数、別のとこでカバーしたんだよね」
どうやらその三人は、先月に校内であった球技大会のことについて話しているらしい。
その日、フユは確かに学校に来ただけで、着替えもせずに大会を終えている。もちろん、どの球技にも参加していない。そもそも、参加しないと明言していたのだ。登校したのは、別に体調を崩したわけではないからだった。
「あれって全員参加でしょ?」
最初の一人がわざとらしく確認した。
「そうそう、運動できないとか、言い訳にもなんないよね」
声の大きさからして、その三人にはフユの耳に入らないようにという配慮はないようだった。
「何で、あの子だけ参加しなかったわけ?」
「わがままだからじゃないの」
「きっと自分のこと、お嬢様か何かだと思ってるんでしょ」
フユはイスから無造作に立ちあがると、澄んだ声で言った。
「――言いたいことがあるなら、本人に向かってはっきり言ったらどうかしら?」
時間が静止した。
その一瞬で、教室中が水を打ったように静まりかえる。
三人はフユの態度にちょっと怯んだようだったが、中のリーダー格らしい一人が意を決したようにフユと向かいあった。
「だって本当のことでしょ? あなただけずるしてるって」
彼女は精一杯の皮肉らしきものをこめて言った。
「ずる?」
フユは顔をしかめた。
「球技大会も、その前の音楽大会も、一人だけさぼったでしょ? 普通はそういうのをずるって言うの」
「どうして、したくもないことをやらされなきゃならないの?」
興奮気味の相手とは対蹠的に、フユは酷薄なほど冷静だった。
「そこまで学校に奉仕するいわれは、私にはないわね」
「……そんなの、自分勝手のわがままなだけでしょ」
女子生徒はフユに圧されたように、やや上擦った声を出した。ここで言い負かされてしまうと、クラスでの地位や彼女自身の沽券に関わるため必死である。
「私は、お嬢様なんかじゃない」
一方で、フユはあくまで沈着だった。おそらく、世界そのものに対して――
女子生徒がなおも言い募ろうとすると、すぐ横から不意に声がかけられている。
「――もうすぐ、先生が来るよ」
見ると、そこには女子生徒が一人、穏やかな様子でたたずんでいた。
「そのくらいにしといたほうがいいんじゃないかな?」
彼女は子供の喧嘩でも仲裁するように、簡単に告げる。そのくせ、その声には妙に逆らいがたいところがあった。柔らかなクッションに包まれて身動きが取れなくなるみたいに。
その諫止方法があまりに無造作で和やかだったせいか、さっきまでの緊張した空気は嘘のように跡形もなく霧散してしまっていた。どうしようもないほど固くなった結び目が、魔法にかかって解けてしまったかのようでもある。
フユにつっかかってきた女子生徒は、仕方がないから下がってやる、という態度でその場を離れていった。教室中の時間がまた元のように動きはじめて、砂が零れ落ちるようなざわめきが戻っている。
「…………」
自分のイスに座る前に、フユはちょっとだけその女子生徒のほうを見た。
彼女はフユに向かって重さのない羊毛みたいな笑顔を浮かべると、友達のほうへと戻っていった。まるで、何事もなかったかのように。その態度は雨が降ったから傘を差しただけ、というくらいの自然さがあった。たぶん、そういう性格なのだろう。
フユはそれっきり、彼女のことも、さっきの女子生徒に言われたことも忘れてしまった。大抵のことは、彼女の作った壁を越えることはできない。一切の物事は、そこで断絶してしまうのだから。
「――志条さん」
と声をかけられたのは、帰り際のことだった。
部活に急ぐ生徒のほかには、まだ教室に大半の人数が残っている。フユは教科書をカバンに移す手をとめて、顔をあげた。
そこには、女子生徒が一人立っていた。フユと同じくらいの背丈をした、落ち着いた雰囲気の少女である。
ぱっと見には、模範的な中学生児童という感じだった。どこにも尖ったところのない、ごく普通の格好をしている。丁寧に観察すると、その少女には柔らかく色づいた秋の木の葉のような、そんな印象があった。誰かが彼女の絵を描くとしたら、そんな温かみのある色を使うだろう。しっかりした、面倒見のいいお姉さんといったふうでもある。
その少女が朝方に調停役を買ってでてくれた女子生徒だということに、フユは一瞬だけ間を置いて気づいていた。あの時は友達といっしょだったはずだが、今は一人でフユの前に立っている。
「――何?」
フユはカバンの詰めこみ作業を再開して訊いた。その様子は、志条夕葵のそれとよく似ている。
「ちょっと話したいことがあって。帰りながらでもいいんだけど」
「どんなこと?」
フユは短節に訊いた。
「たいしたことじゃないんだけど……」
「もっとクラスに溶けこんだほうがいいとか、そんな話?」
帰る準備を終えたフユは、彼女のほうを向いて露骨に不機嫌そうな声で訊いた。
「ううん、全然」
その女子生徒はあっけないくらい簡単に首を振った。そんなことは思いつきもしなかった、という態度である。そうして、「……ああ、もしかして朝のことを?」とようやく気づいたように訊いた。
「違うのかしら」
フユはいつもの、皮肉っぽい口調でそんな言いかたをした。
「まさか、違うよ」
と彼女は何のけれん味もないような笑いかたをする。
「私はそんなにいい人じゃないもん」
「それしては、ずいぶん落ち着いてたみたいだけど」
「そりゃ本当は怖かったよ、あの時は」
慌てたように、彼女は言う。そんな態度を隠そうともしない。
「――でもね、あのまま黙ってるのも何だか嫌だったんだ。誰かが口論してるのって、好きじゃないから。何だか世界の幸せが擦り減っていくみたいで。天使が見てたら、きっと悲しそうな顔をしてるんじゃないかなって、そんな気がしてくるんだ」
「天使?」
ずいぶんな言葉だ、とフユは思った。けれど少女のほうでは、まるで気にすることなく続けている。
「うん、天使がね『――また人間たちがやってるな』って、そんなふうに見てる気がするんだ。こいつらはいつまでたっても仕方のないやつらだなって。それで手帳か何かを出して、ため息をつきながらメモを取ってるの。何月何日、減点一、とか」
彼女の想像する天使というのは、いささかぱっとしない仕事を割りあてられているらしい。
「神様もずいぶん暇みたいね、そんな仕事をやらせるなんて」
フユが皮肉っぽく言ってみると、
「うん、私もそう思うんだ。きっと神様は暇だったから人間を作ったんだって」
「…………」
何故か笑顔で返されて、フユは心の中でため息をついた。昨日といい今日といい、どうも最近は妙な人間にばかり縁があるようである。
フユは立ちあがりながら言った。
「それで、話したいことって何なの? 帰りながらでも構わないんだったわよね」
「あ、いいの? 忙しかったりしないかな」
当然というべきか、フユはどこの部活にも所属していない。
「あなたのほうさえよければね」
フユが言うと、彼女は屈託のない笑顔を浮かべた。やはり、妙な少女らしい。
二人がカバンを持って廊下に出たところで、
「そうだ、私の名前は――」
と、彼女は告げようとした。けれど、
「
とフユは無造作に言う。彼女のほうでは、きょとんとした顔をした。
「何で知ってるの?」
「クラスメートの名前くらい、覚えてるわ」
「ちょっと意外、かな」
真花はそう言うと、まじまじとフユのことを見た。人徳か何かの効果なのか、そんな行為が不思議と野蛮に感じられない少女だった。
「志条さんは、まわりのことになんて興味がないんだと思ってた」
「興味なんかないわ」フユはにべもなく言った。「名前くらい覚えておいたほうが、便利なだけ」
「――便利、か。なるほど」
と真花はうなずいている。この少女が何に納得したのかはわからなかった。
それから階段を降りはじめたあたりで、真花は言った。
「あのね、つい最近まで知らなかったんだけど、志条さんのお母さんて、あの〝志条夕葵〟なんだって?」
質問の種類が種類なので、彼女の口調はやや遠慮がちである。
「どの志条かは知らないけど、たぶんその志条よ」
けれどフユは、そっけなく答えた。別に隠しているわけでもないので、親のことを言われるのに不快感はなかった。志条夕葵の名前はそれなりに有名だから、気づく人間がいたとしてもおかしくはない。
「ああ、やっぱりそうなんだ――」
自分の推測が事実だとわかって、彼女は少し興奮しているようだった。
「はじめて名前を聞いたときに、気づかなかったのが不思議なくらい。わあ、本当にあの〝志条夕葵〟の娘さんなんだ」
「残念ながら、ね」
小さくつぶやくように、フユは言った。が、真花はいっこうに頓着する気配はない。
「私――というか、私の姉がね、夕葵さんの大ファンなんだよ。一度個展を見に行ってから、すっかり好きになっちゃって。作品集も持ってるんだ。『光の化石』とか『夜の一番静かなところ』とか」
もちろんそんなものは、フユは知らない。
「夕葵さんの作るガラス作品て、今にも壊れそうなのに強いっていうか、鋭いのに優しいっていうか、すごく不思議な感じがするんだ。まるで雪の上に根をはった樹木みたいに――って、これは姉が言ってたことなんだけど」
玄関までやって来ると、フユは靴を履きかえながら訊いた。
「そのお姉さんて、どんな人――?」
「
そう言って、真花は首を傾げてみせる。もちろん、名前を言われてもフユにわかるはずもない。
「そうだね、何ていうか――志条さんに、少し似てるかな」
「私に?」
フユはどういう表情をすればいいか困ったすえに、やや顔をしかめている。
二人は並んで、外に出た。あたりにはもう部活のない三年生がいるばかりで、下校する生徒の数は少なかった。
「そう、どこがっていうわけじゃないんだけど、雰囲気が。桐絵も、会ったらきっとそう思うんじゃないかな。自分に似てるって」
「…………」
似ていると言われても、フユには疑わしかった。この少女の姉が、自分と同じような人間だとは思えない。それにこの世界に、自分と似たような人間などいるだろうか。すべてから断絶した、小さな箱の中にその魂のすべてを収めたような人間が――
「――あれ?」
と真花が妙な声を出したのは、その時だった。
フユが顔をあげてみると、校門の横に誰か人影が立っている。彼女はそれに気づいたらしい。近くにいる生徒たちの反応からして、その人影が学校関係者でないことだけは確かのようだった。
(……まさか)
その人影には、どこかで見覚えがあるような気がした。フユは嫌な予感がしている。
「あの人、うちの学校の人じゃないよね?」
「……みたいね」
「父兄の人かな。誰かに用事があって、待ってるとか?」
「どうかしら」
「でも何だか私、あの人に見覚えがあるような気がするんだけど――」
「見覚え?」
不意にそんなことを言われて、フユは真花のほうを見た。真花は暗闇で何かを手探りするような、そんな顔をしている。記憶の隅にある何かを引っかきだそうとするのだけど、うまくいかないといったふうに。
そうこうするうち、二人とも校門付近までやって来ていた。そしてそれが予想通りの人物だとわかると、フユはいささか呆然としている。
フユはわざとその男を無視して通りこしてから、真花に向かって言った。
「……ところで、申し訳ないけど急な用事を思い出したから、今日は先に帰ってもらえるかしら」
今話しかけると、男がどんなぼろを出すかわかったものではなかった。ここは知らないふりをして、先に真花と別れてしまったほうがいい。
「――用事って、あの人のこと?」
けれど真花は、当然のことのように訊いている。
「あの人って、誰のことかしら」
フユはとぼけたふりをした。
「でもあの人、こっちに向かって手を振ってるみたいだよ?」
ため息をつくように、フユは振りかえった。
見ると、確かにそこでは奈義が、にこにこと愛想のよい顔で手を振っている。長く音信不通だった友人に、久しぶりの再会でもはたすみたいに。
「……どうやら、そうみたいね」
とフユは珍しく憮然とした表情を浮かべた。
「私はあの人に用事があるみたい」
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