蓮の花

叶 遼太郎

第1話 魔獣への助言

「紅葉。あなた『美女と野獣』ってご存知?」

 神経質そうに軽く曲げた中指の爪を歯で齧りながら、彼女は隣にいるメイドに尋ねた。五歳くらいの時から、彼女のそばにずっと侍っている教育係だ。かれこれ十年以上の付き合いになる。故に、彼女とメイドの間柄は、主人とメイドではなく、姉妹に近い。事実、年も一つ二つしか変わらない。彼女が悪さをしたらメイドは容赦なく拳骨やビンタを飛ばし、彼女が取っておいたプリンを食べてしまった時は殴り合い罵り合いの大喧嘩になって、それでも解雇されていないのが良い証拠だ。空気と同じで、彼女にとっては隣にいるのが紅葉なのは当然で、そうでなければならなくなっていた。

「ええ、存じております」

 自分の主人が何の脈絡もなく話を振ってくるのはいつもの事、慣れたものだ。戸惑うことなく返答する。

「冷酷な王子が、魔女に呪いをかけられる話ですよね。確か、魔法の薔薇の花弁が全て落ちる前に、誰かを愛し、その誰かに愛されなければ解けない、そういうはじまり方ではなかったでしょうか。そして、美しい娘と出会い、真実の愛に目覚める、という流れだったように思います」

 そうよ、と彼女は言った。でもね、と彼女は後に続けた。

「私は思うの。美しい娘が来た時に、魔獣はもっとアグレッシブになるべきだって。たしか、こんな一節があるのよね。

『こんな醜い野獣など、誰が愛してくれようか』

 ちょっと違ったかもしれないけど、それは置いといて。

 誰も愛してくれない、なんて思ってるわけよ。この魔獣君は。実に共感できるけど、私はそれで終わってやらない。愛してくれないのなら、愛してくれるように仕向けるのよ。どんな手を使ってもね」

 低い声で彼女は嗤った。魔獣、というより魔女みたいですね、と口から出かかったセリフを引っ込めて、紅葉は主人に見えないようにため息をついた。これから行われることを考えれば当然だった。

 結局、後始末は自分に回ってくるのだ。

「ここね」

 彼女が運転手に命じて車を止めさせる。彼女たちが乗る黒塗りのセンチュリーは、慣性の法則を感じさせることなく静かに停車した。乗車する人間を気遣う車の性能は、運転手の腕も相まって、乗車中の人間に疲れを与えるどころか車中であることも忘れさせる。

 運転手が先に降りて、後部座席のドアに回りこんだ。ドアが開かれると、五月特有の、新緑によるむせかえるような青臭いにおいと、梅雨間近の少しじめっとした空気が車内に流れ込んできた。思わず紅葉は顔をしかめ、意を決して先に車外へと足を踏み出した。温暖化も納得の強力な直射日光が髪を焦がす勢いで照射されている。すぐさま彼女は日傘をさす。女性が持つには少々大きく作られたそれは、自分を日光から守るためではなく、次に降りる主人のためだ。運転手に手を差し出しながら降りたったのは彼女の主である少女だった。派手さはないものの上質の布地で生み出された装いは、全て彼女のために作られたオーダーメイドだ。革靴も、彼女の足形から取ったもので、外見の美しさに加えて長時間履き続けても疲れにくい機能美も備えた、彼女のためだけの靴となっている。

全身を最高級の品で固めた彼女が見上げるのは、そんな彼女に全く似つかわしくない古臭いアパートだった。

外に取り付けられた階段には手すりも踏み台も赤錆が浮いて、年月の長さと諸行無常の儚さを思わせる。

彼女はいつ落ちるかもわからないその階段をためらいもなく踏みしめ昇っていく。彼女が行くのなら自分も行かないわけにはいかないので、仕方なく紅葉も後に続いた。

彼女は二階の一番隅の角部屋前で足を止めた。鍵はまさかの南京錠、簡単に開けられて泥棒が侵入できる作りになっている。泥棒が入っても奪える物など何もない、という自信の表れだろうか。

「じゃ、行くわよ」

 何のためらいもなく、彼女はどこから引っ張り出したのか特殊なニッパーを取り出し、その南京錠を破った。

「お嬢様・・・」

「何よ。躊躇しようがしまいが、どうせ開けるのだから別に良いじゃない。それともピッキングの方が良かった?」

 そういうことを言いたいのではないのだけど、とまたため息をつく。幸せが溜息といっしょに出ていくなら、私の幸せはすでに残りゼロですねと心の中でのみ呟く。そもそも紅葉にとって、一生分の幸福はすでに使い切っている。

「だいたい、このじめじめした不快指数高い中で細かい仕事を五分もしたくないのよ」

「それは五分あれば南京錠を開けられるということの裏返しですか?」

「馬鹿にしないで。この程度なら一分かからないわ」

「自慢することじゃありませんよね」

 言いあいながら二人はずかずかと室内に侵入する。鍵を通常とは異なる開け方をしたことからすでにわかっていると思われるが、当然ここは彼女たちの部屋じゃない。というか、こんなメイドを引き連れて全身高級服で固めた女がこの部屋の主であるわけがない。

 殺風景な畳部屋だった。必要最低限を下回る物の少なさだ。あるのは薄い布団がワンセットとハンガー、ところどころつぎはぎしてあるジャージにガムテープで補強されているちゃぶ台。典型的な、質素な暮らしをしている人間の住まいだった。

 明らかにお嬢様である彼女はこの現状に驚くとかトイレと間違うとかするかと思いきや、うっとりした表情で突然うつぶせに寝転がり、鼻でくんかくんか匂いを嗅ぎ出した。

「すう・・・・はぁ、これが、彼の匂い・・・」

 紅葉は引いた。どん引きだった。エキセントリックな言動の多い主人だったし、それでも長年つき添って来て耐性もあったはずなのだが、流石にこれは半歩引かざるを得なかった。心の距離だとすでに光年単位だ。

「お嬢様。はしたないです」

「良いじゃない。どうせ今はあんたしかいないんだし」

「そんなだから学校でも変人扱いされて、御学友の一人も出来ないんですよ」

「良いのよ。あんなつまらないお嬢様連中なんて、一緒に居ても退屈なだけ。それなら、そんな奴らとつまらない時間を過ごすより、彼の事をもっと見ていたいじゃない?」

「今のお嬢様は見ていて痛いですが」

「上手い事言わなくていいのよ」

 そう言いながら、彼女は手で愛おしそうに畳を撫で、頬を擦りつけた。ボロボロのイグサが剥がれて彼女の頬や髪や服にひっつくがお構いなしだ。誰が洗濯すると思っているのだろう、と紅葉はうんざりする。さすがに淑女にあるまじき行為が頻発するので立ちあがらせ、たしなめようと彼女の腕をつかんだ時だ。何かを感じ取った彼女がぴくっと反応する。

「・・・・来た」

 すぐさま起き上り、玄関前に移動する。そのまま膝を折って正座。三つ指をついて、じっと、今か今かとはやる気持ちを抑えつけて、その時を待つ。

 カンカンカンとこ気味の良いリズムで階段を駆け上がり、近づいてくる足音があった。一瞬、影が磨りガラスに映る。それだけで彼女の心は張り裂けそうなくらい脈打った。ドアの前で「え?」と戸惑う少年の声。当然だ。家の鍵が壊されているのだから。

 ゆっくりと、ドアノブが回される。音をたてないようにしているのがわかる。まるで中に泥棒がいるんじゃないかと怯えているかのようだ。

 すうっと、ボロボロのドアのくせに、錆ついた音すら立てずにスムーズに開いた。蝶番に油でも差しているのだろう。それだけで、この部屋の主の物を大切に扱う心構えが見えた。

 ドアの隙間から、ひょっこりと少年が顔を出し、横隔膜が引きつったような悲鳴を上げた。それを見て、我が主は深々と頭を垂れたまま、お迎えの挨拶をした。

「おかえりなさいませ」

 本人的には新妻のつもりなのだろうが、世間一般の目からみれば全く違う評価になる。どうなることやら、と紅葉はなりゆきを見守ることにした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る