Action.12 【 幻の蝶々 】
平凡な家庭のリビングに
マリ・タチバナという世界的に有名な画家の作品で、これが遺作となった。
パリのアトリエで、この絵を描き上げ、絵筆を握ったまま眠るように彼女は死んでいた。外傷はなく自然死だと報道された。
そして日本にいる私の元へ、この絵を届けて欲しいとメモが残されていた。マリ・タチバナのエージェントは、ほうぼう手を尽くして、やっと私を探し出すことができた。
――この絵には見覚えがある。
それは遠い昔、女子高生だったマリ・タチバナが美術部で描いていた風景画だった。
三十年前、髪をツインテールに結んだ私はスケッチブックを脇に抱え、美術部の部室へ向かって歩いていた。本当は絵が苦手で何度も美術部を退部したいと思ったが、言い出す勇気がなくて……それと、ある理由で続けていた。
「
呼び声がして振り向くと、
私たちは入学式の翌日、美術部の新入部員勧誘に捕まって、まんまと入部させられた。
「ねぇ、食堂でパン食べよう?」
「うん、いいけど……」
どうやら、二人は部活の前に食堂で
運動部ではないが、じっと絵を描いているのも案外お腹が
お小遣い前で、私の財布には百円しか入っていない。一番安いパンなら買えるかな? 親友の前でも、お金が無いというのはやっぱり恥ずかしい。
ここは名門の女子高なので裕福な家庭の子が多い。私の家は豊かではないが、親友たちと同じ高校へ入りたいと親に無理を頼んだのだ。場違いな学校に入ってしまったから、みんなとの付き合いも大変だった。
食堂で軽く食べて、三人で部室に行ったら、副部長の
キャンバスには、初夏の庭に咲く、薔薇、バーベナ、ダリアなどの花が描かれていた。きれいな絵だが少し物足りない感じがした。
橘先輩は美術部で一番上手い、展覧会で何度も入選しているし、他の人にはない独特の個性を持っている。控え目なので美術部の副部長だが、部活には人一倍熱心な方だった。
新入部員の我々三人は美術準備室からデッサン用の石膏を運ぶ。
一年生の内は石膏デッサンばかり、昨日まで手のデッサンだったが、今日は石膏の足を持ってきた。
「石膏の足なんて珍しい」
「うわっ、水虫があるよ」
「ゲッ、汚いなぁー」
石膏の足を
長い黒髪をおさげに
彼女が校庭を歩いているだけで、私の眼は自然と釘付けになった。いつも先輩を意識して、人と話している声や会話の内容をこっそり聴いているだけで幸せだった。ほとんど喋ったことないが、その先輩に「細くてきれいな指ね」と褒められた時には、林檎みたいに真っ赤になってしまうほどだった――。
「あ……」かすかに空気を揺らすような先輩の声がした。
私だけが気付いて振り向くと、先輩は筆を止めて茫然と何かを凝視していた。開け放した窓から白い蝶が入ってきて、ふわふわと教室の中を飛んでいる。やがて先輩の描きかけのキャンバスの上に、その白い蝶がとまった。
その瞬間、スッと視界から消えた。
「あれ?」
あの蝶はどこへ行ったの? 私は教室の中を見回した。
「あっ!」
不思議なことに白い蝶は橘先輩の絵の中にいた。
キャンバスに描かれた、初夏の庭、花々の上を白い蝶が飛んでいる。まるで絵の中に吸い込まれたように。――白い蝶を描きたすことで、その絵は完璧な作品になっていた。
「先輩、白い蝶が……」
キャンバスを指差し、キョトンとしている私を見て、
「うふふ」先輩が悪戯っぽく笑った。
――これは夢、それとも魔法かしら?
『ヒ・ミ・ツ』
声を発しないで唇の形だけで、私にそう告げた。
蝶のことは橘先輩と私だけ秘密なのだ。憧れの人と秘密を共有できて嬉しかった。
その後、先輩は美大に進学、卒業後、フランスへと留学、パリにアトリエを構え、もう私なんかの手の届かない人、画家、マリ・タチバナになった――。
私は短大からOLを経て、サラリーマンと結婚、平凡な人生を歩んだ。
パリから届いた油彩画の中で、蝶は二羽に増えていた。
死の直前に、この蝶を描きたしてから亡くなったようで、先輩の魂はこの蝶に籠められているかも知れない。この絵の秘密を知っている私の元に、二羽目の蝶となって先輩が帰ってきてくれた。
晴れた日に窓を開けると、白い蝶々が絵から抜け出して、庭の花壇の上をふわふわと飛んでいる。そして、いつの間にか絵の中に戻ってきてる。
こんな不思議な話は誰も信じない、だから永遠に私だけの秘密にしよう。
『ヒ・ミ・ツ』
耳元に懐かしい先輩の声が聴こえた。
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