第26話 キャンパスでの闘い


 美術室にはだれもいなかった。隼人はムンクの複製画「浜辺の少女」の前に立った。この絵を――美術部に入部してから眺めてきた。二年間ずっと眺めてきた。後ろ姿しか見られない少女。いくら望んでも、イメージするしかない少女の顔。いちばん美しい。こころにしみいるような美少女を期待した。

「夏子さん。あなたは、ぼくが想像していたよりもキレイです」

 いま彼女とつきあっているのがとても信じられない。「いってらっしゃい」のキスをされて送り出されてきた。夏子は美しい。そして芸術を愛するものを虜にする。その美しい彼女を独占していると思うとうれしかった。

 ずっとずっといっしょだ、夏子。

 いつもいつもいっしょだ、夏子。

 これからはいつもいっしょだ。なにが起きてもいっしょだ。彼女は美し過ぎる。それはまさにアジアンビュティ。黒髪の美しさだ。女の髪は象をもつなぐ。といわれている。

 美しいだけではない。闘うことができる。髪を武器として使うなんてすごい。

 それも妙なる調べを奏でて吸血鬼を退散させた。爽やかな音波攻撃で吸血鬼を窮地におとしいれた。傷をあたえることなく、追い払った。すばらしい。



 宇都宮駅のプラットホームで夏子の声を聞いた。潮騒の音とともに彼女の澄んだ少女のような声をきいた。

 ついに幻の美少女に会うことができた。夏子がこちらを向いて微笑んでる。絵の中の少女が、こちらを向いているわけではない。

 隼人には絵の裏側を見る能力が備わった。夏子のおかげなのだろう。絵を描いている画家の心情。その絵に込めた思い。こころの葛藤。よろこび。悲しみ。周囲の無理解なひととのもめごと。あらゆる局面が、浜辺の少女の絵から隼人のこころにナダレこんできた。

 隼人のこころは百年以上も前の海岸にワープしていた。

「夏子さん」

「あなたは、ダアレ」

「夏子さん」

「どなたかしら」

 夏子はキャンバスの中に閉じ込められている。この時代にはぼくはもちろん存在していなかった。長い腰まである金髪が風に揺らいでいた。

「そうか、ぼくらが出会うのはこれから百年以上も経ってからなんだ」

 昨夜、戦いの後で隼人と夏子のペア―誕生を祝して、西中学のトリオ、荒川、福田、加藤が歌ってくれた「千年恋歌」思いだしていた。

 時空を越えて生きる夏子と、その夏子からみれば刹那に生きる隼人との恋を歌い上げているようだ。いい歌詞だった。まさに夏子は千年、いやそれ以上生きていけるのだ。



 これは会話ではない。浜辺の少女へのおれからの賛美モノローグなのだ。

 だが隼人には百年前の夏子と会話を交わしているといった感覚があった。

「おい、隼人なにブツブツ独り言をいっているのだ。絵のなかの浜辺の少女に恋をしたのか」

美術部の部長川島信孝に肩を叩かれた。イヤミな男だ。高慢ちきな男だ。でも、たいした悪意はないから、憎めない。

 川島は東日本大学合同美術展の今年も特選候補とみなされている。いっぽうおれは、校内予選にも落選した。

「この絵――いつもとかわったとこないか」

「ぜんぜん。隼人、ちょっと顔見せない間に、なにかかわったことでもあったのか。彼女でもできたとか」

「ゼンゼン」

 いつもの顔で、おれは言葉をかえす。からかいがいのないやつだ。信孝は、さきにアトリエに入っていく。

「隼人」

 信孝が呼んでいる。オイルや絵の具の匂いがきつい。おれは嗅覚も鋭くなっている。

 顧問をしている川澄講師が信孝となにか話していた。〈このへたくそ。信孝の絵は醜悪だ。彼のオヤジにおれの絵を何枚か買ってもらっているからな。それも、世間の値段より高く買ってもらっている。まあ文句はいえない。それにしても、こんな絵を描くとは。手を入れてやるのに骨折れるな。どこを直されたかわかるはずなのに、鈍い男だ。美術部のツラ汚しだ。お前なんか、才能のひとかけらもない〉

 おれの頭に川澄講師の想念が直に伝わってくる。おどろいた。そんなふうに、川島の作品をみていたのか。川島の絵に手をくわえていたのか。直していたのか。口先では、信孝の絵を絶賛している。はっきりとは、聞きとれない。信孝がうれしそうに隼人をふりかえった。ほめられているところを、隼人に聞かせたかったのだ。

 どうだ、ぼくの絵、先生にほめられているぞ。無邪気な得意顔をおれに向けていた。

 川澄講師、美術部の顧問には部員に対する労りの気持ちがなかった。大学講師という肩書をとってしまえば、ただのエゴイスチックな絵描きだ。それも、絵を描くよろこびのために絵を描くのではない。絵を高く売って、それで芸術的な欲求を満足させてしまうタイプだ。じぶんの作品が高く売れることが絵描きとしてステータスだと思っている。

 ようするに、絵が描きたいのではなく、お金がほしいタイプなのだ。金で動くタイプなのだ。金のためならなんでも犠牲にする。たとえ、教え子の才能であっても――。

 労りも、絵を描くものを立派に育て上げようという意欲もない。

 (川澄はブラック・バンパイアだ。バンパイアと厳密にはいわない。変身能力もないのだから。でも若者の美を賛美するエネルギーを食いつぶして生きている。夏子とは反対だ。こんなやつは、ブラック・バンパイアとと呼ぶべきだ。こんな先生にぼくらは教わっていたのかと思うと、ゾツトする)

 いい絵が描きたい。画家になりたい。美術の先生になりたい。という〈美〉に捧げる若者のエネルギーを食い漁って生きているのだ。こうした人間を、バンパイアと呼べないならば、なんと呼べばいいのか。血を吸うだけが、バンパイアではない。吸血行為をする人外魔境の住人だけが吸血鬼ではないのだ。

 彼は、いままでもそうだった。これからも彼のその行為はつづく。おれは目覚めていなかったので、なにもわからなかった。校内の選抜予選に落選したことなど、気にならなくなっていた。美を決定づける基準は幾通りもある。まして、金でソノ基準を、平気で変えてしまう男のいうことなぞ、こころにとめなくていいのだ。

 川澄のどす黒い悪意の中で、〈美〉を求める若者の純粋な心は、瀕死の悲鳴をあげている。まちがった〈美〉の基準を植えつけられて苦しんでいる。まちがった方向へ導かれている。ここでは、大学の教室では、〈美〉はムンクの叫びのように歪んでいる。悲しんでいる。(こんな偽物のアカデミックな雰囲気と、金にさえなれば下手な作品でもドッコイショする先生についていたのでは、画家になることなどおぼつかない)

 おれは自覚した。



 咀嚼音がいやらしくひびく。

 学生食堂だ。クシャクシャ。グシャグシャ。ネチュネチュ。ズルズルとスープや味噌汁を飲んでいる。レアのステーキを食いちぎる音。

歯。

歯。歯。

歯。歯。歯。

歯。歯。

歯。

白く光る門歯。

 不気味に光り過ぎる犬歯。

 グチャグチャグチャ。そして、食べたものを飲み下す音。

 絵を描こうとする若者の希望が悪魔によってくいつぶされていくように感じた。

 ゴクッと魂が飲みこまれた。動物的なおぞましい音と共に、だれかの魂が飲み下された。

 注意して見ると学食にいるモノたちの歯は異様にたくましすぎる。学生たちの顔は悪意に満ちいてる。学生に憑依現象が起きているのだ。

 吸血鬼に噛まれたのだ。

 この宇都宮の栃木大学のキャンパスには吸血鬼にこころも身体ものっとられた者がウジャウジャいるのだ。乱杭歯の間から、肉汁が歯茎までギュギュとにじみでている。舌で唇についた汁をベロリとなめている。あの汁は赤くはないか。舌は二股に割けてはいないか。学食に不気味な雰囲気が漂っている。

「隼人。まさかドラッグやっていないよな」

〈浜辺の少女〉の前で絵の中の少女に話しかけているのを目撃されている。話かけているのを聞かれてしまった。隼人の行動は異様に映ったはずだ。

 学食を出ると信孝が追いすがってきた。心配してくれている。こんどは声は二重にはひびかない。ほんとうに心配してくれている。うれしかった。でも、その友情がうっとおしい。呼吸をととのえるためにおれは立ち止まった。

「どうした!?」

 信孝もなにか不穏な気配をくみとった。おれの顔をのぞきこんでいる。

「べつにぃ」

 べつにどころではない。かなりヤバイ悪意が吹き寄せてくる。狙いはおれだ。一歩後ずさった。日が陰った。待ち伏せていた。キャンパスのシンボルツリー。ケヤキの巨木のかげから現れた。ひときわ背の高い、竹刀を手にした剣道部員に囲まれた。

「隼人。今日こそ返事を聞かせてくれ。ぜひ入部してくれ。高校の時、全国大会で優勝している皐隼人。きみさえ剣道部に入部してくれれば、秋の全国大会でおれたちが、優勝まちがいなしだ」

 勧誘というより脅しだ。おれの返事はいつものように首を横にふることだ。

 美術部部長の信孝がそこにいるからではない。こと剣の道についていえば、おれは優勝するとかしないとか、そういうことには興味がなくなっていた。

 脅しより殺気が――。おれはさらに後ずさった。

「わるいな。死可沼流は古い剣法だ。いまの競技剣法とはちがう。かえって迷惑をかけることになるさ」

 キッパリとした拒否に応えて――これも例によって……竹刀が襲ってきた。

「トアッ」

 裂帛の気合。

 部長の遠山の竹刀は必殺の木刀に今日はかわっていた。

 まともにくらえば、骨折くらいではすまされない。

 おかしい。いつもとちがう。どうして、竹刀が木刀にかわっているのだ。強い殺気を感じたわけだ。狂いが生じている。平凡な日常に、変化をもたらしたものがいる。トリツカレテいるのだ。異界と混じり合ってしまったのだ。とてつもない害意がおれを取り囲んでいる。これはもう勧誘などというものではなかった。

 包囲網はじわじわとせばまってきた。

「隼人」

「隼人。われら剣道部の全員がこれほど頼んでもダメなのか」

「KYだな。空気読めないみなさんだ。ぼくにはまったくその気はない」

「KYはそちだろう。きょうはただでは帰さんぞ」と遠山。

 剣道部員からの剣風から――逃げた。指剣をかまえて逃げた。竹刀や木刀でも戦えばこちらはダメージをうける。

 彼らにも傷を負わせることになる。それはおれには耐えられそうにない。もう戦いはたくさんだ。 このところ、異形のものとの戦いに明け暮れている。争うことは避けたい。

「ごめん」

 膝もおらずに後ろに跳んで――逃げた。おれを包囲していた剣道部員はその高さと距離の異常さに驚く。夏子の飛翔能力のほんの一部がおれのものとなっている。夏子に守られている。いまも、夏子がここにいる。夏子が助けてくれたと、感じた。夏子が注ぎ込んでくる精気に助けられた。

 部員達が見たのは校門のほうに走り去るおれの後ろ姿だ。



 おれは学生専用のパーキングエリアを走った。

 バイクが多い。乱雑に止めてある。前には、きちんとした秩序のある駐車場だった。

 いまはもう好き勝手に止めてある。そうした駐車マナーの乱れに、学生たちのこころの乱れを知る。なんでもないような、日常のこまごまとした言葉や動作に、精神の衰えを見てしまう。おれの感性がワンステップアップしたのだ。

 車やバイクの間を縫うように走った。止めておいたルノーを目指す。遠山の剣気にはあきらかに害意があった。殺意――。そんな男ではない。強引に勧誘はするが害意も殺意もなかった。いままでは……。どうしたというのだ。らしくない。らしくないよ、遠山。

 おれはそれで、指を剣にみたてて相手をした。部員から竹刀を奪い取って身を守るということをしなかった。だが、指剣だけで、相手ができる遠山ではなかった。それで逃げた――。

 大学のキャンパスまで吸血鬼の歯牙が伸びてきているのか。

 ……吸血鬼の悪意、凶気の波動が浸透してきているのか!!

 遠山流の師範が父だ。大学剣道界きっての剣士、遠山遥にしても吸血鬼の犬歯の犠牲になってしまったのか!!

 わからない。確かめる前に逃げだした。

 みんなの目が虚ろだった。なにものかに操られている。

 吸血鬼だろう。邪悪な心がみえみえだった。

 甲高い排気音がひびきわたった。バイクの群れがパーキングエリアに走りこんできた。

 暴走族バンパイアの高野のハーレが先頭をきっている。

 高野がハーレから降りる。白鞘の日本刀をさげている。にたにた笑っている。

「また会えて、うれしいよ。皐隼人」

 遠山も追いすがってきた。なんとしたことだ。今日という日は、剣難つづきだ。

 高野と遠山。なにかややこしいことになってきた。剣難だ。

 隼人は指剣をかまえ、ふたりに対峙することになった。

「遠山。操られているのだ。目を覚ませ」

「隼人。お前が悪い。隼人が快諾してくれないから……覚悟しろ」

 遠山がふたたび、木刀で襲ってくる。

「ジャマするな。こいつはおれのエモノだ」

「おれが先口だ」

 高野と遠山が、獲物を前にしたハイエナのようにいがみ合っている。

 どちらが先に獲物に食らいつくか争っている。

「うるさい。ジャマだ!! どけ」

 ぎらりと抜いた。真剣の光にうたれて遠山が飛び退いた。

「そそれは」

 高野は日本刀だった。と遠山が気づく。

「バカが、おまえらの道場剣法とちがうっうの」

 遠山に高野が威嚇の打ちこみをみせる。高野の攻撃をうけて遠山が顔面蒼白。

 それでも剣のとどかない距離に飛び退いた。さすがだ。

 そのすきに、隼人は武器になりそうなものを探した。

 いつでも、引き抜くとのできるポールがあるとはかぎらない。

 無防備できたのが悔やまれる。

「トウウウ」

 高野の気合がPキングの車の窓を揺るがす。

 遠山と共に隼人を追ってきたシナイの面々は高野の剣気に怯えて見てるだけ。

 族。バンパイアのメンバーもMTD。ケントを含めて、神妙にことの成り行きを見ているだけ。

「差しの勝負だ。手をだすなよ」

 高野に厳命されている。

 肩へ振り下ろされた剣をおれは辛うじて避けた。

 後ろに4メートルも飛び退くことが可能だった。

 また、夏子にプリントされた能力に助けられた。

 だが肩に斬りこまれたより激しい痛みが走った。

 高野の邪悪な剣気は、それほどのものであった。

 普通の人ならその剣気にうたれて動けなくなる。

 切り倒されていた。それほどの太刀筋だ。

 飛び退いた地点に鬼島がいた。

 ブルックスの黒のポロシャツを着ている。

 道場での戦いでかなりのダメージを受けているのに。

 五体満足だ。

 どこからみても、だだのチンピラにしか見えない。

 この男が吸血鬼の先鋒とはだれも信じないだろう。

 コイツラの裏の顔を感知できない。

 だから人は平穏無事な日常を生きていけるのかも知れない。

〈やはり。そうだ。夜の一族の歯牙はキャンパスにまで及んでいるのだ〉

 鼓動が高鳴る。しかしそれは心の乱れではない。

 大学にまで吸血鬼の支配の悪しき波が打ち寄せている。

 それを知ったためだ。夜の一族が大学にまで侵攻してきた。

 それを知ったためかえっておれは平常心がよみがえった。

 こころの平静さをとりもどした。落ちついて立ち向かえばいい。

 剣道で鍛えた心と体だ。すぐに平静な心になれる。

 道場をおそった吸血鬼を撃退した。それが自信となっている。

「姫がいないと、逃げるだけかよ。喧嘩一つできないのか」

「おまえこそ、のこのこ白昼出回って……いいのか。日焼け止めでも塗ってきたのかな。黒こげになるぞ。田村のヤツはどうした。再生できなかったのか。おれの友だち、遠山になにをしたのだ。目的はなんだ。象牙の塔の征服か。世界征服なんてバカなことを鹿人と本気で考えていないよな」

「それよりもうこれ以上おれたちとかかわるな。いつでも隼人、おまえの背にへばりついているからな」と鬼島。

「そちらがさきに襲ってきたんだろうが。世界征服なんてタワゴトならべて」

 鬼島との会話を遠山が木刀で両断する。

 遠山のふところにおれは飛びこんだ。

 利き腕を押さえた。木刀を奪った。

 すかさず斬りこんできた高野の剣を奪い取った木刀ではじいた。まともに受けられない。

 剣にはかなわない。剣の切っ先を木刀でよこにはらった。

 太刀が眼前を流れる。切っ先は胸すれすれに斬りこんでいた。肌に火ぶくれができた。そう感じた。遠山の木刀に救われた。

「こい」

 覚悟をきめてかまえた。

「役立たずが」

 鬼島が近寄ってくる。にやりと余裕の笑みをうかべる。

 それが癖なのか。ナイフを長く細い舌でなめ上げた。おどしている。

 シュルシュルウと口笛のような音を吐いている。

 一閃。二閃。ナイフが体すれすれにかすめる。

「ウオリヤア」

 鬼島の叫びに気を奪われた。獣の唸り声だ。

 間合いをつめてくる。

「ウオリア」

 獣の唸り声に気を奪われた。それでもおれは宙に飛ぶ。

 上段回し蹴りを鬼島の側頭に放つ。

 飛燕のごとき蹴り。そして木刀で真っ向から竹割。のつもりだった。

 それが。かわされた。

 伸ばしきった太股にナイフが飛んできた。かわせない。足がのびきった一瞬を狙われた。

 着地した。態勢がくずれた。

「隼人」

 信孝の声だ。

「邪魔がはいった。人目がおおすぎる。おまえなんか、いつでも殺せる。忘れるな」

 鬼島はステゼリフ。胸の金色の羊の刺繍をそりかえらせた。傲慢にいいはなった。ケントのバイクのリヤーシートに飛び乗った。

 信孝が走ってくる。

「友情にたすけられたな」

 遠山がいう。まだかすかに彼の目は赤く光っていた。

 ルノーまでの距離がひどく遠い。たしかに遠山のいうとおりだ。信孝のオセツカイに救われた。足をひきずる。じぶんの車をみすえ、一歩一歩近寄る。

「隼人。だいじょうぶか」

 あまり大丈夫ではないみたいだ。

 信孝がすぐそばまで来ている。声は遠くに聞こえる。

 刺された。まだナイフは太股に突き立っている。痛い。

 刃物の突き立った激痛。血はあまり流れていない。

 ハンカチーフを当てて抜いたほうがいいだろう。

 痛い。飛んでくるナイフ。見切ったつもりだった。それが避けられなかった。

 いま太股にナイフは突き刺さっている。だらしないったらありやしない。

 ナイフの飛んでくるスピード。予想よりはるかに速かった。

 全身から脂汗がふきだしている。

 後ろ手にドアを閉める。

 運転席に倒れこんだ。

 心配してのぞきこんでいる信孝に手をふる。むりに笑顔をつくる。

 車をスタートさせた。



 だれも追ってこない。

 信孝が呼んだのだろう。警備員や学生が遠山や暴走族の逃げ残りを取り囲んでいる。

 ゲートの横木をはねとばした。一気に大通りに出る。だれも追ってこない。

 太股からナイフを抜いた。白いハンカチーフが真っ赤に染まる。そのうえからバンダナを巻く。体の力がぬけていく。

 大量の出血というほどのことはない。むしろ、刺された、ということで、心理的にダメージを受けた。剣の道に自信があっただけに、こころが萎えた。

 どうして避けられなかったのだ。太股だからよかった。もし胸か喉にささっていたら……。いまになって恐怖が芽生えた。

 どうして、避けられなかったのだ。飛んでくるものに対しては備えがなってない。修行が足りない。痛む。めまいがする。スーと意識がとぎれる。

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