64 日長椿殺人事件、あるいは二人のオルドル


 人の腕が脂汗の滲む額を撫でる。

 体の下には滑らかな毛皮があり、生命の生暖かさが体全体を包み込む。そして鹿の角を生やした存在が、こちらを覗きこんでいた。

 そこはオルドルの銀の森だった。

 オルドルは半人半鹿の姿で、髪は伸び放題、何より獣くさい。いつも身ぎれいにしているオルドルとは全くの別人……別鹿……別物だ。

「オルドル……僕はまた死んだの?」

「そうみたいだ。肉体的には。まさに早業だったからねぇ。武人はときどき魔術師を凌駕するよ」

「まずい……」

 肉体は再生しても、目覚めるのが数日後では意味がない。

「きみが目覚めないのは、きみが目覚めたくないと思っているからだよ」

「僕が? そんなわけないだろ、明日はもう試合なんだ。こんなところで死んでたまるか!」

「もう死んでるけどね。そうだなぁ、私が協力してあげてもいいけれど」

 僕は飛び起きて、柔らかな毛皮から離れた。

 ようやく気がついたのだ。違う。こいつはいつものオルドルじゃない。

 半人半鹿の化け物は唇に秘密を含むように笑ってみせた。

 その表情は元のオルドルには無い、優しい、ともとれるようなもので、言葉つきは柔らかだ。まるで森の賢者のように静かで怒りや憎しみは存在していない。

「オルドル、じゃない……?」

「私はオルドル。オルドルが死んだとき、彼は三つに分かれた。ひとつは蛟の書に、もうひとつは私で、金鹿の書とともに眠りについた。最後の書はアイリーンが隠してる。でもみんな同じものだよ」

 そう言って、オルドルは困ったような悲しそうな顔をした。僕の知っているオルドルと全然違い過ぎて、戸惑いしかない。

「死んだとき、って……。つまり、その、金鹿の書を書いたのがオルドルだから……ってこと?」

「そう。彼は死ぬときに自分のかけらを書に残した。金鹿の書はアイリーンの手には渡らなかったんだね」

 それを、どうしてキヤラが僕に渡したのかは、かなりの謎だ。金鹿の書があれば、水だけでなく大地の魔力を利用できるようになる。敵に塩を送るどころじゃない。徹底的に敵を甘やかし、砂糖菓子を送りつけるみたいなもんだ。

「でも、その割には文書に忠実な姿をしてるぞ」

「それは私の問題じゃない」

 金鹿のオルドルは人差し指で僕の口を塞いだ。

「オルドルの正しい姿は失われ、君は私の正しい姿を知らない。だから、物語に影響された姿しか認識しない。蛟のオルドルを見たとき、何かがおかしいと思わなかった?」

 そういえば、顔だけは僕の顔をしている、と答えると、彼は鷹揚に頷いて「そういうことだ」と穏やかに答えた。こういうわかりにくい物言いは、少し蛟のほうに似ている。違うのは、蛟のと違っていろいろ話してくれるってところだ。

「君は勇者の守護者だと僕を呼んだよね」

「それも君が文書を通して私を見ているからだよ。きみがそうあってほしい、と望むオルドルが私だ」

 なんだかおかしな話だが、そういうことなのかもしれない。

 もう少し詳しく話が聞きたいが、そうこうしてもいられないし……。

「なあ、金鹿のほうのオルドル。僕の目を覚まさせてくれないか」

「うん、いいよ。でも、蛟のほうが凄く怒ることになると思う。それはとても困る」

 あっさりと了解をとりつけられたのはいいが、蛟が怒るから困る、というのはどういうことだろう。

「私たちはもともとひとつのものだから、彼に受け入れられて元にもどりたい、という気持ちがある。きみが蛟を説得してくれたら、いいよ」

「説得……」

 僕があのオルドルを説得できるとは思えないが、拒否してこの水辺でノンビリしている訳にもいかない。

 なんとかしてみる、と答えると、金鹿のほうは嬉しそうに頷いた。

「では……私の名で君を現世に送り届けよう」

 金鹿のオルドルは嫋やかな人の両手をすっと持ち上げた。

 その両手には青く光り輝く紐のようなものが複雑に絡まり、模様を描いている。恐ろしく複雑なあやとりのようだ。

 オルドルは模様のひとつから指を抜く。するすると魔法のように模様は解け、ひとつの輪になった紐が金色に光を放つ。

 アイリーンの魔法に似てる、という直感さえ塗りつぶすほど光はどんどん強くなっていく。


「名は力。名は真実をうつし出す鏡。私の名前は――」


 私の名前は、《許し》。はっきりとそう聞こえた。



*****



『ツバキ!! 起きろ、バカツバキっ!!』


 オルドルの呼び声で目覚めた。

 濃い闇が周囲をすっかり包んでいる。いま何時だろう。僕の体は柔らかい地面の上で為すすべなくひっくり返っていた。

 杖と新しい水筒を取り上げなかったのは相手にとって最大の誤算で、僕にとって最大の僥倖だった。

 僕は起き上がり、気管に詰まった血をげほげほ吐いた。

 あやうく溺れ死ぬところだった。


『…………再生が完全じゃなイ』


 オルドルが呆然として呟く。

 僕は金鹿の力を借りたことを説明した。その間にも、体には不調が出始めていた。具体的には喉と心臓が鈍い痛みを訴えはじめたのだ。

『なるほどネ。それでわかった。ツバキ君のアホ。アイツがボクの再生魔術を解除して、意識を元に戻したんだ……! ツバキ君のマヌケ』

 小学生以下の罵倒語を間に挟みつつ、それは時計の針を少しだけ戻すような作業だとオルドルは説明する。

 オルドルは通常、僕の肉体の残りを食って全くの新しい肉体を再生する。記憶を乗せ換えるのは肉体再生に比べれば小さいエネルギーでいい。でも金鹿がやったことは、それを《無かったことに》することだ。

 僕の意識は、再生するとどういうわけか戻らない。

 だったら、意識があった頃の記憶を維持する――つまり、一旦死ぬのをやめにするしかない。

「だけど、そんなことしたら」

 事の重大さ、というのに気がつき、僕はたぶん顔を青くしたと思う。

『そうだ。肉体再生の魔術も無効になる』

 金鹿のオルドルは、術をゆっくりかけている。つまり、肉体の時間だけがゆっくりと元に戻っているのだ。つまりそれは、どれくらい時間を遅らせられるかわからないが、いずれは喉と心臓が裂けてしまうという最低最悪な事実と同義だ。

『しかも、魔術使用の代償も支払わされる』

「それは金鹿がやったことだろ?」

『アイツとボクは文書にとっちゃ同一人物だ。アイリーンにそんな言い訳が通用するかどうか聞いてみればイイ。よりによってこんな山奥でネ』

 周囲は深い森、というか谷の下のほうだった。

 頭はまだぼんやりしているが、死ぬ直前のことを覚えている。

 宿舎の廊下をひとりで歩いていたら、いきなり誰かに殺され、ここまで運ばれて捨てられたのだ。

『その誰かを覚えてル?』

「いや――はっきり見たはずなのに」

『その記憶が再生を阻害するものだから、金鹿が持ってるんだ! インチキ魔術師め!』

 オルドルはめちゃくちゃに怒り狂っている。自分で自分に怒れるなんて器用なやつだな、と思ったが、利口なので言わないことにした。

 とにかく、ここから抜け出さなければいけない。

 死体を捨てたってことは、僕を殺したヤツはこちらの再生能力に気が付いていない。彼らに生き返ったことを知らせずに、戻らなければ……海市に戻らなければ、キヤラとの戦いに間に合わないことになってしまう。

 これまで経験したことに比べれば、軽めのピンチだ。でもそれがもたらす効果は、まさに致命的だった。 

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