送り火:山の中で怒鳴られる話

まだ江戸と呼ばれた時代の名残り残る時分の話。


旅の男が山道を急いでいた。


どうしても日が暮れる前に峠を越えねばならない。この辺りは物の怪やら追い剥ぎやらで物騒なのだ。もともと肝の据わった方ではないので男は心中穏やかではなかった。そうしてしばらく急ぎ足で歩いていた。すると、少し先の方で人影が見えた。


近づいていくと歳の頃は五十前後の坊さんがひとり、のそのそと歩いていた。これはしたりと、独りで心細かった男は思わぬ道連れを喜んだ。


「もうし、もうし」


と駆け寄ってゆき坊さんに声をかけた。ちょっと間が空いてから、坊さんはいっぱいに開いた眼で男を見やりニコニコと微笑ながら


「こんにちわ、どうも」


と挨拶をくれた。


「いやどうも、こんな寂しい処で人に会ったのも何かの縁です。道中、お供させていただいてよろしいですか」


男はなるたけ愛想よく坊さんに道連れをお願いした。


「いやどうもこの辺は寂しいところです。拙僧、ちょうど話し相手が欲しいと思っていた矢先にアナタがおいでなすった。これも御仏の導きでしょう」


坊さんは手をすり合わせ念仏を唱えながらニコニコと微笑み続けた。


「良かった、旅は道連れ世は情け。話し相手になりましょう」


男は心底ホッとしていた。どうやら追い剥ぎにも見えないし、念仏を唱える坊さんなら化け物が化けている心配もなさそうだ。と、自分の運の良さを喜んでいた。


道中、すっかり安心した男は饒舌になりペラペラとよく喋った。坊さんの方はといえば、別段饒舌というワケでもないが寡黙ということもなく男の世間話にそれとなく相槌をうっていた。


そうして二人はもう少しで峠を越えるというところへさしかかった。


「さあこの辺りまでくればもう一息です。あと少し頑張りましょう」


と男が言うと。


「やあ、知らないうちに随分歩いていたんですなあ。一人であれば長い道のりも二人で歩けばご覧の通りですよ。いや実にありがたい」


そう坊さんは言って、また手をすり合わせた。坊さんだから信心深いのはわかるが、いちいち大げさだなと男は少し思っていた。


まあなんにせよもう少しの辛抱だと、二人は先を急ぐことにした。


そうして歩いていると、何やら先程よりもずっと寂しい道に出た。恐らくここを抜ければもう宿場までは目と鼻の先なのだが、いかんせん薄気味悪い。


一人なら回り道をしたところだが今は道連れがいるので男も強気にそこを通ることにした。


狭い道に木々がそこら中に生い茂って陽を覆い隠している。まだ陽も高いというのにひどく薄暗い。姿の見えないカラスが、遠くの方で不気味に鳴いている。どこからか生臭い風が吹いてきて、男の背筋をくすぐった。そこかしこで草木がガサガサと揺れ、今にも何か飛び出してきそうな雰囲気である。


やはり止せば良かったかと、男が後悔し始めたその時だった。


『おうい。おうい』


と、誰かに呼ばれた気がした。


隣の坊さんを見やれば、相変わらずのえびす顔で歩いている。やはり聞き間違えかと向き直った時だった。


『おうい。おうい。おうい』


と、今度は三度聞こえた。


今度こそ聞き間違えではないと思ったのだが隣の坊さんは


「ここらは涼しくて良いですなあ」


などと暢気につぶやいている。


男が困惑していると


『おうい。貴様、聞こえておるのだろう』


と、声が後ろから言うのである。


『おうい。なぜ答えぬ。なぜ振り向かぬ。おうい』


と立て続けに声が言う。


男は怖くて怖くて歩くのがやっとだった。


『聞こえておるのだろう。どうした。貴様に言うておるのだぞ』


声の調子はどんどん荒くなってゆく。


『貴様、なぜ立ち止まらん。そこの男。貴様に言うておるのだぞ』


いよいよ男はたまらなくなり坊さんにしがみついた。歩き続けてはいるが全身がぶるぶると震えもう立っているのもやっとである。


「おやおや。どうされました。少し外気にあてられましたかな?」


と、坊さんは相変わらずの暢気具合である。


「坊さま。さきほどから私たちを怒鳴るあの声が、聞こえておりませんか」


男はやっとのことでそう呟いた。しかし坊さんの反応はのんびりしており、随分と間が空いてから


「はて?なんですか?」


と言うのである。


「あの声が、聞こえませぬか。あの恐ろしい声が」


坊さんはしばらく思案顔で男の顔を見ていたがまたいつものえびす顔に戻り


「さあて。聞こえませんな」


というのである。


その間にも後ろからは


『おうい。おうい。貴様。何故振り向かぬ。何故答えぬ』


と声がしている。


「坊さま!ほら。あれですよ。聞こえませぬか」


と男は半べそかきながら訴えるのだが坊さまは依然


「はて。聞こえませんなぁ」


と言う。


ついに先程よりもずっと近くで


『おうい。何故立ち止まらぬ。貴様。聞こえておるのだろう』


と怒鳴りつける声がする。


『貴様、そのまま振り向かねば喰うてやるぞ』


と恐ろしい声で言うのである。


『手も足も目玉もハラワタも。全部残らず喰ろうてやるぞ』


そう言うのである。


「ああ。坊さま。聞こえませぬか。私を喰うと言うてるあの声が!!」


男はもう泣きながら坊さんに訴えるのだが坊さんは


「さあ。聞こえませぬなあ」


と言うのである。


『ようし。喰ろうてやるぞ。さあ行くぞ。もうすぐ手が届くぞ』


と耳元で言うのである。


『きいいさあああまあああ、こっちをむけええええ』


と後ろで声が叫び男の髪の毛に何かがピシピシとあたる。


「坊さまーっ」


と男が叫ぶが


「聞こえませぬな」


と、坊さんは強く言い切った。


そうして、その次の瞬間、とつぜん前が明るくなった。


男は必死で目をつぶっていたので気がつかなかったのだがもうすっかり峠を越えていた。後ろを振り向けば何もなく、ただあの薄暗い道があるばかりである。


男がその場にヘナヘナとへたり込むと坊さまが言った。


「何か、恐ろしい目にあっておいでだったのですか」


「坊さま、本当にあの声が聞こえなかったんで?」


と男が尋ねると


「いや実は、言いそびれてしまったのだが拙僧耳が聞こえませんで」


男は心底驚いた。


「で、ですが坊さま。私の言ったことに何度かお答えになっていたではないですか」


と言うと。


「適当に当たり障りのない事を言っておりました。こうして質問された時は貴方の唇の動きを読んで何と言っているかあてていたのですよ。読唇術というのです」


と言うのである。


「実はこの辺りは化け物が出ると聞いていたのですが貴方が道中であんまり怯えていたので、恐らく何者かが狙ってきてるとは思ったのですがあえてトボけてみせたのです」


「そんなことが」


「多分あれは立ち止まったり振り返ったり、声に応えたりするとたちまちに喰われてしまうそうなのです」


そう言って坊さんは念仏を唱え始めた。


「大方、年老いた獣かなにかでしょう。もう大丈夫です。貴方はこの先の宿場まで先に行ってなさい。私はもう一度今きた道を戻って化け物の正体を暴いてまいりますので」


と、スタスタと引き返していった。


男はほうほうの体で宿場までたどり着き、この話をすぐにみなに伝えた。話を聞いた数人の男達が武器を手に例の場所まで行ってみたそうだ。


そうしてそこには一匹の年老いた大きな狒々の屍体と、ボロボロになった草履が片方だけ落ちていたそうな。


男はそれ以来、山で一人歩きはしないことにしている。


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