教授の暇潰し
秋乃
第1話
「やあ、久しぶりだね。と言っても、まあ私にとっては大した時間ではないけれど。だが君にとっては貴重な時間なのだし、それなりには有意義に過ごせると幸いだね。
さて、今日は小説について話すことにしよう。どんなジャンルが、とか、どんな歴史が、とかじゃあなく、小説、そのものについてだ。
君は小説とは何だと思う? 作者が考えた物語。作者からのメッセージ。作者の妄想…は、手厳しい意見だけど。まあ、それらも勿論重要だけどね、でももっと重要な構成要素がある。
何って? それは勿論、文字、だよ。
言葉で語るだけじゃあ小説とは呼ばれない。小説とは必ず、文章として記されているものなのさ。だからこそ、小説は一字一句紛うことなく過去から送られ、現在に語りかけ、そして未来へ伝わっていく。無論、忘れ去られて遺失するという可能性もあるけれど。
さて、ではここで一つ、言葉遊びをしようか。時に君は、シェイクスピアと猿のロジックをご存知かな。タイプライターの前に猿を固定してという、あれだ。何、猫なら知ってる? まあ本質は変わらないよ、どちらにせよ。で、だ。君はその実験が成功すると思うかな。まあ、普通はそうだろうね。こんな実験、無限の時間と無限の寿命がないと、成功例なんて観測できるはずがない。
ところがこれは思考実験でね。無限の時間が寿命が試行時間が必要なら、物理法則なんて無視して取り揃えることができる。で、そうして無理やりに成功例を引っ張り出した所で質問なのだけど。
この、猿が書いたシェイクスピア。著作権は誰にあるのだろうか。
シェイクスピア? まあそうだろうね、猿がいた作品はそれを目指して書かれたのだから。じゃあここで次の思考実験だ、この作品がシェイクスピアの生誕前に書かれていたらどうなるか。タイプライターがシェイクスピアの時代にあるのか、とかの野暮な質問はなしだ。あくまで、シェイクスピア以前に作品が存在していたら、という話だよ。
…なるほど。君はそう答えるのか。
私は、それでも作品はシェイクスピアのものだと思う。なぜなら、猿が書いたシェイクスピアには、シェイクスピアの思いが彫り込まれていない。
さっきも言ったけど、小説とは所詮文字だ。その気になれば、誰だって宮沢賢治に、太宰治に、芥川龍之介にだってなれる。彼らの作品をトレースするだけで、一作品を書き上げた素晴らしき作家様だ。でも、それには作者の言葉がこもらない。仏作って魂入れず、とはよく言ったものだけど。言葉をなぞるだけでは張子を作るようなものなのさ。いやむしろ、先人たちの言葉をなぞることで彼らの魂に感化されてしまうかもね。小説に先人たちが込めた魂に。
…ふむ。小説を読むと、作者の魂に感化される、か。
ねえ君、君は小説に、いやそうでなくても何かしらの作品で使われた言葉を使ってみたことはあるかな。口に出すというだけの意味じゃなく、実行してみたり、それを支えに頑張ってみたり。ない方がおかしい? それも面白そうな意見だけど、それについて掘り下げるのは後にしようか。
無論、私はあるよ。小説に感化された経験なんて、幾度あったか数える気にもならないくらいだ。
…何が言いたいかと言うとね。私の言葉は、すべて誰かの言葉の受け売りにしかならないのではないかと、ふと思ってしまったんだよ。
こんな話は聞いたことがあるかな。人が思い浮かべられる顔というのは、すべてどこかで見たことのある顔にしかならない、と言うんだ。ならば、それは言葉でも同じなんじゃないか、と思うとね。私自身の言葉は、いったいどこにあるのか、と。
…………、ふ、ふふ、くふはははは! そうか、確かにそれは盲点だ! ああ君の言葉も尤もだ、まったく1分前に自分が言った言葉でさえ忘れていたよ! その通りだ、言葉に魂を込められるのはそれを発した本人だけだ、それを初めに誰が言ったかなんて、問題にもなりはしない! ああ君は本当に、私を見つけ出す事と紅茶の淹れ方だけは最高だとも!
さてそれじゃあ、早速だけどお茶を一杯貰おうか。君が手ずから入れたのがいいな、今日はいつものより等級の低いのでいいよ、その代わりに紅茶の倍はブランデーを入れて欲しい。何、祝い酒というやつさ。まだ日も高いけど、君も一杯どうかな?」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます