幸せの代価(一)
太陽が昇り始めるのと同じ頃、鶏の鳴き声で目が覚めた。
上半身を起こして、欠伸を一つ。そして、ベッドから抜け出す。隣で未だ眠る彼にタオルケットを掛け直してから、足音をあまり立てないように気を付けながら部屋を出た。
そうしたら、まずサンダルを履き、外へ出て、井戸から桶に水を汲む。
顔を洗って、口を漱ぐ。冷たい水が、未だ微睡みを漂う私の意識を現へと引き寄せた。そして、タオルで顔の水気を拭きとって、軽く歯を磨く。水鏡となっている桶を覗き込みながら、髪がはねていないか確認。手櫛で軽く整える。磨き終わって、もう一度口を漱いだ。
「ふう」
一息つけば、近くで蝉が鳴き始める。
夏、真っ盛り。空には雲が少なくて、今日も暑くなりそうだ。
鶏小屋の前に置いた餌を持ってから、その中に入る。二羽の鶏がけたたましく鳴いた。餌を撒けば、羽をばたつかせてもっと騒いだ。水がまだ無くなってないことを確認してから、産み落とした卵を回収する。今日は二つとも割れていなかったことに、心の中で万歳。
春の終わりにやっとお金が貯まって、近所の村から鶏を二羽買い付けた。鶏小屋はとっくに完成していたのに、お金が貯まらなくて、本当にやっと。
毎日卵が食べられる、と彼と二人で喜んだ。だというのに、このバカ鶏は卵を産まなかったり、産んでも自分で割っていたり。事故無く二つの卵が回収できるのはあまり無いのだ。
井戸で水を汲み直してから、家へ戻る。
そうしたら、キッチンに入って、炉に火をつける。火力が安定したら、フライパンを乗せて、それも充分に温まったら、ベーコンを焼く。そして、さっき採ったばかりの卵を二つ落とした。焼いている間にパンを切り分けて、カップにミルクを注ぐ。
「おはよう、アルマ」
その声に振り返ると、彼。朝食の匂いに釣られて起きたのだろう。頭には寝癖が付いたまま。それが少し可笑しくて、クスリと笑う。
「おはよう、レフ。寝癖付いてるよ。顔、洗ってきな」
眠たそうな目のまま手を頭にやる。
「あ、本当だ。これはひどい寝癖」
彼はそう呟き、顔を洗いに行った。
そんなこんなの間に、卵が焼けて、パンと共に皿に乗せる。ダイニングテーブルにクロスを敷いて、ミルクとそれを運ぶ。二人分の食器も添えて、朝食の準備が整った。
「お、今日は卵二つとも無事だったんだ」
しゃんと目を開けたレフが戻ってきて椅子に座る。そして、朝食を見るなり、嬉しそうにそう言った。
「うん。だから今日の朝ごはんは、ちょっと豪華」
笑って、私もそう返す。
「じゃあ、食べようか」
レフの言葉に私は頷く。そして、パンを目玉焼きを乗せてかぶりついた。
「ごちそうさまでした」
いつもより少し豪華と言っても量は多くないので、すぐに食べ終わった。
「明日、村に行こうか」
少し呆けていると、レフがそう話しかけてきた。そして、続けて言った。
「昨日、仕掛けに虎が掛かっててさ」
「ええ、虎? ここら辺、虎いるんだ……」
王都ファステルから南東五十キロメートル辺りのこの山地に住み始めてから、三年弱。長閑な場所だと思っていて、虎がいるとは思いもしなかった。
「この山辺りを縄張りにしてるのは、多分昨日僕がつかまえた一匹だけ。いるのは結構前から知ってたんだけどね。仕掛け荒らされたりしてたし。捕まえられてよかった。虎捕まえたの、初めてだったし」
そう言ってレフはハハハと笑った。
笑い事じゃないだろうと思ったが、それは軽いため息にして流した。結果上手くいったのだし、良かったのだ。
「で、その虎どうするの? 食べるの?」
「ああ、だから毛皮を捌いてさ、村に売りにいこうってこと。食べないよ」
「な、なるほど」
彼がそうやって狩りを行って肉や毛皮を捌いて村へ売るおかげで、私たちが生計を立てられているのは確かなのだ。
小さな畑で少量の野菜も作っているが、農業の知識に乏しい私たちでは芳しい収穫量は得られていない。何とかしようと、色んな人に聞いて回ってはいるけれど。
「パンとかも少なくなってるし、そうだね。明日は村に行こうか」
台所事情を思料して、彼の提案に頷く。
彼の仕事が狩りで、私の仕事は家事と畑への水やり、鶏への餌やり。過ぎていく季節とともにしなければならないことも増えたりするけれど、普段はそういうことをして過ごしている。
「じゃあ、明日は村に行こう」
昔、虎の毛皮を見たことがあるけれど、なかなかの高値で売られていた。もしかしたら、ずっと買いたくても買えなかった物が色々と買えるかもしれないなと思った。
「それじゃあ、僕は虎の解体に行ってくるよ」
「いってらっしゃい」
レフは立ち上がり、玄関の方へと去っていった。
さて、と。私も仕事を始めよう。まずは朝食の後片付けからだなと思って、何も無くなった皿をシンクへ下げ始めた。
そして、皿洗いが終われば、私は家の掃除を始める。
家は簡素で、木造。部屋はダイニングと寝室と物置があるだけ。だから、毎日きちんと掃除しているならば時間が掛かることはない。桶に汲んだ水で雑巾を濡らして、床や窓、至る所を拭いていく。ただ一か所、窓辺に置いた聖剣の近くを除いて。
掃除が終われば、洗濯物を持って井戸の近くへ。
私は畑仕事で、レフは狩りでそれぞれ服を汚すので週に一度くらいの洗濯は必須だ。洗濯液は高価で買えないので私が揉んだり踏んだりして洗うしかない。それから、一時間弱くらいの時間を掛けて洗濯して、物干し竿へと。天気も申し分ないし、すぐに乾くだろう。
そうだと思いついて、家の中へと。そして寝室へと行き、シーツとタオルケットと枕を持って外に出て、干す。
今日は晴天。見上げる空は青。
遥かには積乱雲が湧き立ち、刺すような陽光がジリジリと肌を焼く。
季節はすっかり夏だ。
魚や動物が多く取れて食べ物には困らないし、洗濯物は早く乾く。
夏が終われば秋。農作物が多くは無いけれど取れて、次に来る厳しい冬に備える。そして、冬が明けて、待ちわびた春へと。冬にできなかったことをしている内にまた夏が来るのだろう。そうやって私は一年を過ごすのだ。
畑の方へと向かう。あまり大きくはない畑だが、二人分を作るには充分だ。畑の近くには、川から引いた水が来ていて、水やりは簡単にできる。
暑さのせいで乾ききった土にたっぷりと水をやれば、どんどんと土に染み込んでいく。この時期の水やりは少しやりすぎくらいで構わない。最初の年に水不足のせいで一部が枯れてしまったから、学んだのだ。
日ごとに、年ごとに、私は少しずつ色んなこと学んで、この生活が馴染んできている。
明日はこうしようとか、来年はこうしてみようとか、いつでも考えるのは暮らしのこと。それだけが私の頭の中を占めている。
時々、ふとこれが幸せなのだと気付く。胸に満ちるのは、冬の終わりを告げた陽の光のような温もり。
私は今日もこうして過ごしていくのだ。
畑に水をやり終え、作物が病気などしていないか見て回る。
去年は一枚の瓜の葉が枯れ始めて、何だろうと思った次の日にはそれが広がった。対処しようと考えた時にはもう手遅れで、その年の瓜は全てダメになってしまった。その後、村に降りた時に人に聞いてみれば、予防できた病気らしかった。それで私は、作物を育てるのに、水をやるだけじゃいけないのだと知った。
「よし」
作物を全て見て回り終えた。異常はない。今年は病気の予防はできるだけしたし、大丈夫らしかった。
至る所で鳴き喚いている蝉。やけに耳に付くので少しうんざり。
気付けば、もう昼過ぎ。太陽は中天を過ぎている。一仕事終えて、少し呆けながら空を見る。
低い空を燕が飛んでいるから、明日は雨なのかな。
「あ」
ワイバーンが飛んでいる。雲よりも高い場所を飛んでいるから豆粒よりも小さく見えるけれど、それはワイバーンだった。
ネクスタが陥落して、魔物の襲撃が激しくなって、そのタイミングで私が勇者としての責務を放棄した。ために、この三年の国土の狭まり方は激しかった。
西方はネクスタという重要な防衛拠点を失ったから、特に酷いものらしかった。
全部、村で聞いた風の噂に過ぎない。けれど、人間の土地の真ん中にある王都からそう離れていないこの場所の上空をワインバーンが飛んでいるということは、そうなのだと思う。
ということは、国のどこでもワイバーンに襲撃される危険があるということだ。と、そこで私は考えるのを止めた。
今の私が考えても意味のないことだ。
もし、この場所が襲われたとしても、私はレフと共に黙って死ぬだけ。全ての人と同じようにそうする。
ただ、それだけのこと。
私は人なのだ。
今、目の前にある幸せをただ感じていればいい。
それから、家へと帰って裁縫を始める。
レフの野良着は数着あるけれど、いつも山野を駆け回っているせいで全て襤褸の様だった。暇を見てはいつも私が繕ってはいる。けれど、彼が破いた服を、私が直しては、彼がまた破く。その鼬ごっこだ。
「また破いたの?」
「ごめん」
そんな会話がよくある。
私は不満げに彼にそう言うけれど、実のところ嫌ではなかった。裁縫は苦手だし、上手くならないし、手も遅い。だけど、頑張っている彼の助けの一部になれていると思うと、そんなマイナスも打ち消して、余りあった。
「よし、出来た」
一時間と少しの時間を掛けて、やっとの思いで二枚。
まだ縫い跡は粗いし、結び目もどことなく雑だ。けれど、前の時よりは、確実に上手くなっていた。
レフには苦労を掛けていると思う。私は家事炊事の能力は少しずつ向上はしているけれど、それでもまだ低い方だと思う。だから、料理も裁縫もなるべく早く上手くなって、彼の役に立ちたいと思っている。
窓から差し込む陽光は、いつの間にか橙色を帯びてきていて。
空色は日没までまだあるように思わせるけれど、何もしなければあっという間だ。
太陽が落ちる頃にはお腹を空かせたレフが帰ってくるだろう。だから彼のために夕飯の準備をしておかなければならなかった。一日中山野を駆け回って疲労した彼の身体に、なるべく精がつくものを食べさせてあげたかった。
さて、夕食は何にしよう。
家にある食材を思い返す。雉肉と、兎肉と、豆が多くあったな。それに、米が少量。香草の類は、彼が摂ってきてくれるから、山ほどある。
豆のスープと、雉肉を米と一緒に炊いて、兎肉はそのまま焼こう。
そう決めると、私は米を研いで浸漬させ、雉肉を細かく切って、数種の香草と合わせた。
それから暫らくして、下準備も終えた。
炉に火を着けて、本格的に煮炊きを始めれば、肉の脂が弾けて甘く鼻孔をくすぐる。香草と絡んだ匂いがお腹を刺激して、今日の出来は良さそうだと感じた。思わず、微笑が漏れた。
「ただいま、アルマ。良い匂いだね」
そんなことを言いながら、レフが帰ってきた。
料理に匂いに釣られていつもやってくる彼がまるで犬か猫のように感じて、私は思わず笑う。
「おかえり、レフ」
笑う私に少し怪訝な表情を浮かべながら、レフは背中から荷を下ろした。
「ご飯はもうそろそろ。それが、虎の毛皮?」
レフの下ろした荷物をちらりと見遣れば黄色と黒の縞模様が見えたので、そう尋ねる。
「そうだよ、結構立派なでしょ」
「うん、きれい……」
丸めてあるけれど隙間から見えた毛並みに、私は惚れ惚れとする。
「虎の解体なんて始めてやったけど、上手くいって良かったよ。高く売れるといいな」
彼の言葉に大きく頷いて「きっと高く売れると思う」と伝えた。だって、こんなにも美しい。
まだ旅をしていた頃に一度、とある村で虎の毛皮が売っていたのを見たことある。こんなに目を惹かれるほど美しくは感じなかったけれど、それでもかなりの高値で売られていた。だから、この毛皮はとても高く売れると思う。
「これが高く売れたら、紅茶、買っていいかな」
「え? 紅茶?」
レフが言った言葉に、少し驚いて、聞き返してしまう。
彼に紅茶、更に言うならミルクティーが好きだなんて言ったことがあっただろうか。
ここ数年、さらに人間の領域が狭まって、紅茶のような嗜好品の値段は更に高騰している。日々の生活を凌ぐだけのような私たちには、紅茶を飲むなんて絵空事のような話だ。
「ダメ、かな? 僕、好きなんだ。紅茶」
「レフも紅茶好きなんだ。実は私もミルクティー好きでさ」
そんなことから始まる他愛もない会話。
どんなふうに飲んだだとか、最後の一滴が惜しかっただとか。
あの日の思い出を掘り出して、彼と笑い合う。
そんな風に話している間に、料理が出来上がった。
彼も準備は手伝ってくれた。ダイニングテーブルを拭いて、テーブルクロスを敷く。料理を運び、取り皿とスプーンを用意する。
そして、二人揃って椅子に付く。
「いただきます」
手を合わせてそう言う。
こうやって食前の言葉を言うようになったのもレフと暮らすようになってからだなと、ふと思った。彼の真似から始めたことだけれど、いつのまにか私の習慣にもなっている。
勇者を私が辞めたせいで多くの命が消えていっている。そんな私が命を大切にするような言葉を口にするなんて滑稽だと思う。
胸の奥底を刺す罪悪感が、鈍く、痛む。
「アルマ。これ、おいしい」
「へ? あ、うん。よかった」
意識がそれていた私は、レフに話しかけられて少し驚く。
彼は雉肉の混ぜご飯を指して、そう言っていた。
褒められて、私は思わず口が緩む。
それは今日の私の自信作だ。香草の使い方や雉肉の火の通り具合等々、上手くいった自信がある。前回、似たようなものを作った時は、雉肉の臭いが残って米にも移り……。はっきり言っておいしくなかった。
私も、少しずつ成長しているのだなと実感する。
満足そうな彼の表情に、テーブルの下で小さく拳を握った。
豆のスープは作る機会が多いから、出来は安定してきている。兎肉は焼きすぎてしまってぱさぱさ感があったけれど、それでもおいしかった。
窓から入る光は、いつの間にか寂しいものとなっている。
仄暗くなった部屋の中。
「灯り、点けようか」
レフにそう尋ねるけれど、窓の方をぼうっと見ていて、返事はなかった。
彼の視線の先にあるのは、聖剣だ。この時間になると彼はそこを見ている。
そして、俯き、少し辛そうな表情をする。この三年間、毎日ずっとそう。
それを見て、私は心の何処かで苦みを感じる。彼が真にどう思っているのかは分からない。けれど、何故辛そうな表情を見せるのか。その答えは、ぼんやりと分かっている。
私と二人で日常を過ごすのではダメなのか。
私は今の生活で満たされていた。世界も何もかも、投げ捨ててもここにいたかった。彼といたかった。
今の私にとっては、それが全て。
何処かで誰かが倒れようと、人間が滅びようと、私にはもっと大切にすべきものがある。
だから、彼にも同じように、ここだけのことを考えて、満たされてほしかった。
レフ。
何処かの誰かのことを考えて、そんな辛そうな表情をしないで。
「大分、暗くなったね。灯り、点けるね」
いつの間にか表情を戻していた彼は、私のことを見てそう言った。
マッチで、テーブルの燭台に火を点ける。
蝋の火はぼんやり揺れて、部屋の中を薄明るくした。
その中で私を見て笑う彼は、何処か、悲しそうに見えた。
それから、ご飯を食べ終わり、寝支度を整えて、彼と共に寝室に入る。
明日は村へ茶飯のことをしてから、売り物の準備をして村へ降りるので、朝は早い。為に、いつもより寝るのも早い。
寝室の窓際に置かれた大きめのベッド。一人で寝るには大きいが、大人が二人で寝るには手狭。いつも、このベッドにレフと二人で寝ている。私も彼も、寝相は悪くないので不自由はしていない。
私の身体が十二の時のままであるので、大きさもこれで間に合っている。
先にベッドに入る。今日の昼に干したシーツとタオルケットからは、陽だまりの匂いがした。
彼が燭台の頼りなさげに燃える火に、ふっと息を吹きかけると部屋は真っ暗に。
衣擦れの音がして、タオルケットの向こうが持ち上がる気配。私は身体をそちらに向ける。
レフが寝転がり終えると、彼の肩が一瞬私に触れる。
それから、彼はまた態勢を変えた。
窓から入る月明り。徐々に目が慣れて、次第にはっきりしてくる状況。
彼もまたこちらを向いていて、合った視線が外せない。
綺麗な二重、長いけれど少し陰鬱な雰囲気を出す睫毛、すっとした鼻筋、薄い唇。
閉じたままだった口が、ふんわりと緩くなって、彼は優しく笑った。
「おいで」
彼は手を広げて、そう言った。
小さく頷き、彼の胸の中にゆっくりと入り込む。
線は細いが、筋肉でがっしりした彼の身体。
触れる腕は滑らかに私の背中へ。
彼の胸板に額を当てて、じんわりと伝わる温もり。
それで心まで満たされて、私は今日もまた、眠る。
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