こうじ君
秋山 魚
第1話 父の話 まず船乗りだった。
私の父は、どこにでもいるただの船乗りだ。
一年の半分以上家にいない。数か月海に出て、一か月帰ってくる。ずっと昔からその繰り返しだった。だから私や弟にとって、父が家にいるというのはすごく特別な事だった。
私は父が好きだった。帰ってくるのをいつも心待ちにしていたし、自分が寝ている間に父が海に出てしまい、びいびいと泣いた事もある。だから、親戚から「女の子はいつかお父さんを嫌いになる」という話を聞いたとき、私に限ってまさかそんなことはないと笑っていたのを覚えている。
しかし、時がたつにつれ、私は父が嫌いになった。その理由の一つに、思春期の女子にありがちな“なんとなく気持ちが悪い”というのがあった。父の行動が、どうしても当時の私には理解できなかった。
毎晩パンツ一丁で寝る意味がわからない。
わざわざ腹を出す意味がわからない。
頭に変なバンダナを巻く意味がわからない。
いつもにやにやしている意味がわからない。
「おでん」と書いた暖簾を買ってくる意味がわからない。
さらにそれを壁に飾る意味がわからない。我が家はおでん屋ではないのだ。
父が嫌になった二つ目の理由は、父がとても短気だったという事にある。普段はにやにやしている父だが、ちょっとしたことですぐに激昂する。私もだいぶ短気ではあるが、その製造元である父はもっとずっととてもものすごく短気だ。とくに、ある三つの条件が揃うと、父はとても面倒な存在になる。
一つ目、家に母がいないこと。母は我が家ではいわば調停役で、彼女なくして渡部家はない。私と父の衝突により幾度となく崩壊しかけた渡部家を、修復してきたのは他でもない母である。
二つ目、やるべきことがたくさんあること。父は非常に几帳面である。ずぼらな私たちがやり残した仕事を、誰に言われるでもなく自分で片付ける。母の怠惰により、雑菌の温床と化したキッチンを綺麗にしたり、弟の怠惰により、藻の温床と化した金魚の水槽を綺麗にしたり、私の怠惰により、尿意を催し泣き叫ぶタロ(犬)を散歩に連れて行ったり。父のおかげで、確実に渡部家は清潔になっていく。しかし、そんな仕事も続けていると当然嫌になる。
三つ目、酒を飲んでいる事。酒は人間をゴミにする。この三つの条件下での父は、まるでスズメバチのようである。下手に刺激すると刺される。
私が高校生だった時のある日のこと、悲しいことにこの三つの条件が揃ってしまった。休日だったその日、母は外出しており、父は一人で居間の掃除をしていた。なんとなく身の危険を感じていた私は、祖母の部屋に避難し、弟と将棋をさしていた。私が弟に桂馬を取られて悔しがっていると、急にドアが開いた。父が入ってきたのだ。ほんのりと酒の匂いを漂わせた父が。
掃除機のパイプを探していたらしい父は、私に「ベッドの下にないか?」と聞いてきた。祖母のベッドの下はちょっとした物置になっていた。探すのが面倒だった私は、ベッドの下をちらっと覗いて「ないよ」と答えた。すると父は自分でベッドの下を探し始めた。そしてすぐに目的の物を見つけ、怒鳴った。私がちゃんと探さなかったことに憤慨したのだ。そして、楳図かずおの恐怖漫画に登場するキャラクターのような形相をして私に殴りかかってきた。私の父は船乗りである。海の男である。力がある。殴られるとそれはそれは痛い。このままでは死ぬと感じた私は、咄嗟に弟に足止めを頼んで、二階に逃げた。
父が追いかけてくるのは明白だった。とりあえず部屋に入り鍵をかけたが、それだけでは心もとない。窓が開いているのを見つけた私は、何を思ったのかそこから屋根に逃げた。
暫く屋根に潜伏していると、父が弟の静止を振りきって、二階に上がってきた。あけろ、あけろと言ってドアを激しく叩いている。ホラーである。私が屋根の上で委縮しきっていると、しばらくしてガラスの割れる音が聞こえた。父がドアのガラスを破り、自力で鍵を開けたのである。ちなみに、その時の血痕は未だに我が家の階段の手すりに付着している。ホラーである。
父は部屋に入ると、部屋中の襖をあけ始めた。「どこや、どこや」という声が聞こえてくる。間違いなくホラーである。見つかったら大変な事になると思い、私は屋根の上をゆっくり移動し始めた。忍者である。とりあえず、父のいる部屋からは絶対に見えない位置に移動した。しかしこれからどうしよう。まず屋根から降りなければ……。
丁度いい足場を探して屋根の上をうろうろとしていると、隣家の畑が見えた。まだ時期ではないのか、これといってなにも生えていない。私は、今思えば非常に申し訳ない事をしたのだが、私はそこに飛び降りた。畑の土のおかげで衝撃は少ない。ありがとう土。
降りたはいいが、家には楳図(略)がいるので入れない。とっさに私は、叔母の事を思い出した。我が家から一番近い位置に住んでいる親戚が叔母夫婦である。私は救助を求めるべく、裸足で叔母の家まで走った。
それから私は叔母の家で保護されたのだが、また色々と面倒な事になった。別居がどうの離婚どうのという話がでた、が、何故か丸くおさまった。今考えてみると、それはやはり、調停役の母の力だった。母は偉大である。しばらくして私は家に帰った。父はにやにやしていた。
今思えば、あれ以来父と喧嘩をしていない。高校を卒業した私は、大学生となり大阪で一人暮らしを始めた。そのため、父と会う機会はめっきり減ってしまった。会わないのだから当然喧嘩もできない。する必要がない。父は船乗りである。一年の半分以上家にいない。私もまた、一年の半分以上家にいない。大阪から実家までの距離は遠い。そう簡単には帰れないのだ。
大阪から実家までは、一番安い夜行バスでも往復一万円近くかかる。貧乏学生にとってつらい事この上ないが、夏休みや冬休みなどの長期休暇には必ず帰省する。ホームシックで死にそうになるからだ。私は実家が大好きである。修学旅行に行く時でさえ、道中で既にホームシックにかかり、母に「アホじゃないん」と言われていた。
帰省する度、私は母に「次おとんいつ帰ってくるん?」と聞くのだが、母の答えは決まって「もう一、二か月先やな」だった。そんなこんなで私は結局一年以上父と会えなかった。連絡を取ろうと思えば取れるのだが、別に何を話したい訳でもない。私から父に連絡することはまずないし、父も誕生日ぐらいにしか私に連絡をよこさない。
そして大学二年の夏休み、実家に帰省した私は、一年ぶりに父と会う事ができた。夏休みの終盤、あと数日で大阪に帰るという時だった。母から「明日オトンが帰ってくるよ」と聞かされた私は、嬉しいと言えば嬉しいのだが、なんとも形容しがたい気持ちになった。その年、人生で初めて彼氏ができたのだが、きっと父にはひどくからかわれるだろうなぁと思って一人でもやもやしていたのだ。
そして父が帰ってきた。いろいろと積もる話もあるだろうが、私と父は、なんというか、もう、お互いに腫物に触るようで、積もる話どころではなかった。何を話していいやらわからない。
母も弟も留守だったある日、私が部屋でごろごろしていると、父から電話がかかってきた。
「飯食ったか?」
「まだ」
「くるくる寿司いくか?」
「いく」
くるくる寿司とは、回転寿司の事である。父と二人で外食だなどと気まずいことこの上ないのだが、一人暮らしという勤行のせいで飢えに飢えていた私は、食欲に負けて父の運転する車に乗り込んだ。道中ではお互いに無言である。たまにしゃべるが、どうにも気まずい。気まずい事この上ない。そして店内に入ったが、やはり気まずい。気まずいのだが、私と父はお互いに何とかして歩み寄ろうとしていた。
それから、気まずいながらも私と父は色々な話をした。しかし、何故か彼氏の話はされなかったし、私からもしなかった。
大阪に帰る前日、私は台所でぼんやりと母の料理姿を見ていた。すると父が、弟に向かって、おもむろに避妊の大切さについて大声で説き始めた。何故そんな話をするのか。私の弟は童貞である。弟も、「なんで俺にするん!?」と困惑していた。きっとあれは、弟越しに私に「過ちを犯すな」と伝えようとしていたのだ。だから大声だったのだ。弟にとってはいい迷惑である。
そして私が大阪に帰る日、家族が見送りにきてくれた。父もいた。旅立つ前から既にホームシックで死にそうになっている私に、父がそっと何かを渡した。お金である。私にとってのこれからの生活費である。感極まった私が、「オトンがお金くれた!」と言うと、母に「馬鹿やね黙っとかんかい!」と怒鳴られた。弟は、にやにやしながら、父に「俺にはないの?」と聞いていた。父もにやにやしていた。
二十年経って初めて気づいた。父は不器用なのである。不器用だから、変にストレスをため込んで、急に怒ってしまうのである。不器用だから、どうすればいいのかわからずとりあえずにやにやしているのである。多分。それに加えて、父は船乗りである。一年の半分以上家にいない。私や弟と過ごす時間はとても短い。帰ってくるたび子供は大きくなっている。自分の知らないうちに大きくなっている。そりゃコミュニケーションが取れなくたって、仕方のないような気もする。
今思えば、父にはいろいろと申し訳ない事をしたと思う。
次に会うのはいつになるのかわからないが、その時はもっとコミュニケーションをとれるようにしたいと思う。思うのだが、お互い不器用だから、きっとかなわない。
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