第7話 兄×弟
素直じゃない
青と白
背徳感
弟が引きこもりになった。15年前の話だ。
原因の1つは、両親の離婚だった。俺は母親に、弟は父親に引き取られることになる。
弟が引きこもりになった大きな原因は、俺と引き離された事だった。
弟は数日間泣いていたし、何度も父親と母親に、俺と離れ離れになりたくないと言った。
駄々をこねて物を壊し、泣き叫んだ。
それでも両親の離婚は覆らなかったし、俺と弟は引き離された。弟が異様なまでに俺に執着していたのは離婚が決まってからの事ではない。前々から、普通の兄弟感情とは異質な物を、両親も俺も感じていた。
だから引き離されたのだ。
当時15歳だった俺はそのまま全寮制の高校に進学し、高校を卒業と同時に自衛官になる。家族との連絡は殆ど取らなかった。
弟は手紙やメール、電話をよこしたが、俺はマメな方じゃなかったので、途中からは返事をしなくなった。
酷い兄貴だったと、不意に思い出して罪悪感に苛まれる事もある。
あれから15年が経った。俺は三十路になるが、自衛官を辞め普通に就職し、つまらない営業をそつなくこなす日々だった。
そんなある日、母親から連絡がくる。
父親が死んだらしい。歳が歳だし、その事はあまりショックではなかった。ただ、親が離婚してから一度も会っていなかった事が悔やまれる。
それよりも衝撃を受ける話を、母親は続けた。
「慧(ケイ)がね、お父さんが死んでからすぐ自殺をしようとしたのよ」
慧、弟は、通夜の当日に部屋で首を吊ろうとしたらしい。通夜に来ていた客や親戚連中が気付いて止めたが、その後も何度か自殺を試みたと言う。
「親父の事、そんなにショックだったのか」
顔も声も15年前のまま、俺の中の慧は成長を止めていた。引きこもりになったと聞いてはいたが、慧がそこまで追い詰められたいた事は知らなかった。
いや、知らないふりをしていた。
両親の離婚が決まった時の、慧の姿を見て、いつかそんな結末を迎えると、頭をよぎらなかったわけではない。
それでも目を逸らしていた。15歳だった俺には、到底手に負えない事だから。時が解決すると期待していた。
その罪悪感が重くのしかかる。
「凱(ガイ)、少しの間でいいからあの子の様子、見てくれないかしら」
母親の提案に、俺は少し悩んだ。悩んでから、応じることにした。
紛れもなく、それは慧への贖罪だった。
俺は大人になったから、今なら慧の事を、少しは受け入れられるのではないか。
唯一無二の兄弟で、母親の老い先もそう長くはない。この空白の15年を埋めるチャンスなのではないか。
その家の前に立ち、俺は重い溜息を吐いた。
15年前まで家族四人で暮らしていた家。最近建て替えられたのか、外壁が明るく綺麗に塗られていた。作り自体はなにも変わっていないはずだが、懐かしさはあまり感じなかった。
自分の家だったそこは、すっかり、自分とは切り離された他人の家になっていた。
俺はもう一度だけ溜息を吐いて、チャイムを鳴らした。
ピン……ポン。
明るい音が中で鳴り響く。しかし、誰も出てくる様子はない。
ピンポン。
もう一度押してみる。耳をそばだてて、中の様子を探る。
音はしなかった。けれど、二階の窓でなにかが揺れるのを見た気がした。
ぶわっと鳥肌が立ち、嫌な汗が吹き出る。想像に易い。俺はなぜか鍵の空いているドアを開け、一目散に二階へ向かった。
二階にふた部屋。俺と慧の部屋だ。
「慧」
慧の部屋を開ける。そこには誰もいなかった。いないどころか、人が生活している様子が見られなかった。
俺はそのことに少しの嫌悪感を覚える。それじゃあ慧はどこで生活をしているのか。
バタン。
「……っ」
俺は、かつて俺の部屋だったそこを開けた。
空を模した青と白の壁。そこに貼られたサッカー選手のポスター。木製の低いベッド。物が重ねて積まれた勉強机。15年前の俺の部屋が、相も変わらずそこにある。
唯一違っているのは、部屋の真ん中で、首を吊る慧の姿。
「慧っ」
床に倒された椅子を立て直し、俺は慧を抱きかかえる。骨みたいにがりがりに痩せた身体の軽さが気持ち悪かった。すっかり成人しているはずなのに、小学生の子供を抱いたようだった。
慧の首にかかるロープを外し、床に慧を寝かせる。呼吸をしていない。俺は迷わず口付ける。人口呼吸だった。
「っっげほっげほげほ」
激しくむせながら呼吸をする慧に、俺はホッとした。突然の事態で、急激に緊張したせいか、その緊張が解けるとドッと疲れが出た。泣きそうになるのを必死で堪えながら、慧の背中をさすってやる。
「……おに、い、ちゃん……」
そう呼ばれて、じわっと目頭が熱くなるのを感じた。
どうしてなんだ。
呼び方があの頃から変わっていない。声も声変わり前のように高い。身長だって伸びていない。どんよりとした目が俺をじっと見つめる。
慧はあの時のまま、止まっている。
その部屋は俺の部屋だったはずなのに、居心地が悪かった。虫の抜け殻を大事そうにしているみたいだった。
俺は慧を抱きかかえ、リビングのソファに寝かせる。冷蔵庫から適当に飲み物を出して、ソファ前のローテーブルに置く。
それから俺は、テーブルを挟んで向かい側に座った。
リビングは色々変わっていた。テレビが新しくなっていたし、真新しいパソコンも置いてある。ソファのカバーも綺麗になっていた。
「俺が、悪かったんだよな」
頭が痛かった。
いろいろな感情が押し寄せて、処理しきれないようだった。
この家に、この部屋に、慧はそのまま取り残されていた。
「すまなかった」
どう言えばいいのかわからなかった。
でも、慧がこんなことになったのは、きっと俺のせいに違いない。謝って済む事ではないが、それくらいしか言葉が出なかった。
「わかってたんだ」
慧が呟くように言った。
「昨日みたいに、いつもみたいに、今までみたいに過ごしたら、お兄ちゃんが帰ってくるんじゃないかって思った」
慧の中ではきっと、15年前のあの日は昨日のことのようなのだろう。むしろ、15年前の続きを、毎日繰り返している。
「でもお兄ちゃんは帰ってこなかった。わかってたんだ。でも、もしかしたらって思ったら、ぼくはあの部屋で、待つしか出来なかった」
慧の目から涙が流れた。横向きになっているから、顔を横断してソファに落ちていく。しとしとと、濡らしていく。
「お父さんは」
慧は苦しそうな顔をした。
「お父さんも……自分のせいだって、謝ったんだ。僕のことを詫びながら死んでいった」
それから泣き叫ぶみたいに慧が言う。
「違うって、叱って、止めて欲しかったのに……みんな僕を許して、僕を詫びるんだ。僕がいけないのに……お父さんも、お母さんも、お兄ちゃんだって、どうして、どうして謝るんだ……」
僕がいけないんだ。慧が繰り返して言った。
「慧は悪くないよ」
「違う僕がいけないんだ僕が、僕が、僕が、あ、あああ、僕がぁ」
慧は泣き叫びながら自分の頭を叩き始めた。俺はその腕を掴んで止める。
慧の、行き場のない怒りや苦しみを自分にぶつけようと、当てどころもなく喘いでいる。
「僕が、僕がいなければ、いいのに」
どんな思いでその言葉を吐いたのか、俺には理解できない。でも、痛々しいその言葉を、俺はただ抱きしめてなだめる。
「慧」
頭を、背中を撫でて落ち着かせる。細くて小さくて、身体をぶるぶると震わせている。
「どうしたいか言うんだ。どうしたかったか、もう一回、俺に言うんだ」
15年前、俺は慧を裏切った。父親も母親も、慧を裏切った。懇願して、泣いて叫んだ慧の言葉を、俺たちは無視した。
慧の、兄弟や家族に向けるには強すぎる愛情を、俺たちは見て見ぬふりをした。目をそらして、時間が解決することを願った。
その一方で、俺自身も慧に、強い愛情を抱いていた。好きだった。ずっと好きだった。
けれど、慧の強い愛情を目にして俺はそれが背徳行為であることに気付いてしまう。
実の弟に、兄に、向けてはいけない感情。
だから俺は逃げた。
自分の感情に真っ向から立ち向かった慧と、それから逃げた俺と。
悪いのは、許されないのは、誰だ。
「……だって……だってお兄ちゃんはまた、僕を置いていくんでしょう」
慧は期待に瞳を輝かせて、それから思い出した絶望に目を伏せる。
素直じゃない、いや、素直にはなれないんだ。
むき出した感情を、15年前のあの時に全力で叫んだ慧の感情を、俺が見ないふりをしたから。
「置いていかない。二度と」
今更許されるだろうか。
今更、慧を救えるだろうか。
「慧、俺が悪かった。すまなかった。俺は逃げたんだ。慧みたいに、まっすぐになれなかったから」
あの時逃げなければ、慧に向き合えていれば、慧みたいに感情を出せていたら。
「慧、ごめん。ごめん、慧、好きだ。俺は慧が好きだ」
慧を苦しめていた俺が、今更こんなことを言って、許されるはずがない。
選択した間違いは、なかったことにはなってくれない。
慧はそれからほろほろと泣き出した。
これから先をハッピーエンドだと単純に喜べなかった。慧は慧を、俺は自分を、許せなかったから。過ちを悔やんでいたから。
二人で泣きながら、15年ぶりに再会した温もりに、少しだけ救われた気がした。
終わり
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます