metamorphonica

野村勝利

第1話

 ぐわんぐわんと、それは頭の中を揺さぶった。

 視界はチカチカと不定期に明滅を繰り返し、目を開けているのか閉じているのかすら分からない。

 何が起きたのか理解できなかった。ただ恐怖だけが体中に伝染し、体の内側に蠢く得体の知れない何かから逃れようと、必死にもがいた。いや、もがこうとした。

 しかし、もがくための手足がなかった。先ほどまで自由に動かせていた手足は、まるで抜け落ちたかのように存在感をなくし、意思に反して微動だにしない。

 まずい、まずい。状況はわからないまま、そんなわかりきっていることが反芻され脳が警鐘を鳴らす。

 しかし、それさえ徐々に侵され、塗りつぶされていく。

 ――タスケテ

 薄れていく意識の中、最後に心の中でそう呟いて、そして世界は暗転した。



 目が覚めると、薄暗い研究所の一室に私はいた。

 体中が軋むように痛い。どうやら椅子に座ったまま寝ていたらしい。

 どうしてそんなことをしていたのかわからないが、居眠りでもしていたのだろう。大の大人が恥ずかしいことだ。

 頭にもやがかかった感じがするのは、寝ぼけているからだろうか。

 全身凝ってはいるが、手足に痺れなどもない。私はおじさんくさいかけ声を出しながら椅子から立ち上がった。

 その時、ぺりぺりっと、何かが剥がれるような音がした。私は何の気なしに顔を下げてその音のした方に目をやった。

「……なんだこれは!?」

 思わず驚愕する。音は、私が座っていた椅子からだった。いや、正確には椅子と、私の履いている作業着のズボンからだった。

 両者はべったりと乾いた血に塗れていた。椅子やズボンだけではない。作業着は下だけでなく上も血まみれだったし、履いていた靴も、私自身の手も、そして椅子の周りの床も、乾いた血がべったりとくっついていた。

「――」

 あまりの状況に絶句してしまった。これは異常だ。どうしてこうなっているのかはわからないが、それだけはわかった。

 とにかくシャワーを浴びてから考えよう。

 半ば現実逃避のように私はそう思い至って、そしてここが都合よくシャワールーム前の控室であることに気がついた。

 簡素な椅子と長机、そして壁には脱いだ衣服を入れる格子状の棚。

 私は追い立てられるように血まみれの作業着を脱いで、一瞬迷ってからそれを棚ではなくダストシュートに叩き捨てた。

 そうしてシャワールームの扉を開ける。中から水音がして、私はビクッと体を震わせた。

「……っ」

 落ち着け、自分にそう言い聞かせる。服は捨てたし、利用者いるようだが、幸いすれ違いはしなかった。

 このままカーテンを閉めてさっさと血を流せば、ひとまず時間は稼げるはずだ。

 そう思って空いているスペースに飛び込みカーテンを占める。

 蛇口を思いきりひねり、出てくるそれが温かくなるのも待たずに、全身に浴びる。

 気持ち良い。こびりついた血と一緒に憑き物まで流れ落ちたようだった。

 そうしてシャワーから出てくる水がお湯になり、多少なりともリラックスしたところで、私はあることに気づき、声にならない声をあげた。

「ぁ……」

 私が座っていた椅子が、その周りの床が、血だらけのままだった。

 時間を稼ぐどころの話ではない。変に騒ぎにでもなって全員勢揃いにでもなれば、着るものもない私が疑われることは避けられないだろう。

 私はシャワーを止める手間も惜しんで慌ててシャワールームを出ると、棚から先に入っていた誰だかの作業着を拝借し、濡れた体をそれで包んだ。

 せっかくシャワーを浴びて血の気持ち悪い感覚を洗い流したのに、今度はべちゃべちゃと湿った感覚に苛まれることになってしまった。

 しかしそんなこと言っている場合ではない。この服の持ち主には悪いが、この場を早々に立ち去って私は、私は……。

 そう考えてふと、今まで気にしていなかったことが気になった。あまりの展開に、考える余裕がなかっただけかもしれないが。

 ただ、一度気づけば、それは頭の中を支配するのに十分な疑問だった。すなわち、それは――

「私は一体、誰なんだ……?」

 濡れ鼠の間抜けな声が、控室に小さく木霊した。

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