夕方になると、蝉の鳴き声からジリジリと言うコオロギの鳴き声に切り替わる。私は最後の精算を終えると、さて帰るかと思って駐輪場に行って気が付いた。自転車にまたがった瞬間、タイヤがぐにゃりとなるのだ。思わずタイヤを摘まんでみると、ぐにゃぐにゃとした感触。どう考えても自転車がパンクしてしまったのだ。


「あちゃあ……」


 金庫を会社に返却しないと私の仕事終わらないんだけどなあ。自転車屋って、学校からだったらどこが一番近かったっけ。仕方なく自転車を押してひとまず先に会社に金庫を届けようと思った時。


「あれ、山城さん?」


 そう呼ばれたのに私は思わずビクッと肩を震わせて、キョロキョロと視線を見回す。でも今日は既に図書館も閉館時間だし、職員室の方も先生方が帰り始める頃だったはず。……私、でいいの?

 恐々振り返った先に、名東先生が立っていた。既にネームカードもしまい込んでいるから帰宅の頃だろう。……でも、どうして私の名前知ってるの。


「あれ、先生は私の名前知ってましたっけ?」

「普段ネームカード提げてるじゃないですか。名前覚える仕事なもんで」

「ああ……」


 最近は防犯対策の一環で、校内にいる時はネームカードを首から提げるのは外部業者でも義務だから。私も購買部で働いている時はいつも提げているし。

 名前と顔覚えるのは接客業と教育者の基本的なスキルだもんねえと、納得しつつもどうしてもそわそわとしてしまう。だって、普段ネームカードかけてたとしても、そこで名前見ても必要に迫られない限りは忘れてしまうもの。覚えてくれたと言う、それがほんの少しだけ嬉しい。

 って、浮かれている場合じゃないか。私は自転車を押した。ベコンベコンと変な音が立つのがまぬけだ。


「私、これから会社に戻らないと駄目なんですよ」

「自転車、乗らないんです?」

「ちょっとパンクしてしまって。会社で用事済ませたら自転車屋さんに直行ですね」

「自転車屋はこの辺りだったら、駅前まで行かないとなかったんじゃないです?」


 うう……そう言えば。この所昔ながらの自転車屋さんは、安いチェーン店のせいで一掃されてしまい、おかげで地元に自転車の修理を出せる店がないんだった。頑張って歩かないとなあと思ったら、名東先生はちらりと私の自転車を見る。


「難でしたら、自転車屋に自転車送りますよ。会社の用事済ませましたら取りに行けばいいですし」

「えっ……あの、そんな先生。迷惑になりません?」

「いえいえ。この自転車でしたらトランクに横にすれば入るでしょうし。山城さんも会社まで送りましょうか?」

「そんな……! そこまでご迷惑はおかけできませんよ」

「ですが、自転車に乗ってるならあんまり心配ありませんけど、この所近所で不審者が多くて。この時間でしたらあまり歩いて帰るのはお勧めできません」


 うう……。

 何故か高校の周りって言うのは、変質者が群がるのが定番なのよね。露出狂とか、痴漢とか。引ったくりだったら、今日の売上と釣り銭全部持って行かれてしまうんだから、私会社に何と言ってお詫びすればいいのか分からなくなってしまうし……。

 私はしばらく考えた後、とりあえず頭を下げた。


「……すみません、よろしくお願いします」

「分かりました。どうぞ」


****


 こ、こんな展開、乙女ゲームでもあんまりなかったような気がする。と言うより、乙女ゲームでも個別ルートに入らないと全然あり得ないような気がする。そう思ってしまうのは、情けない事に(仕事的な意味で)女子高生活が長過ぎて、うちの上司(既婚者)以外の車に乗せてもらった事しかないせいだと思う。


「CD付けてもいいですか? ラジオ聞くんでしたらラジオにしますけど」

「ご、ご自由にどうぞ!」


 自然と上擦った声になってしまう私は、相当にテンパっているような気がする。落ち着け。普段芙美さんや不破君の恋しているのを出歯亀しているのに、どうして自分にちょっと降りかかってきただけでそんなに慌てるの。乙女ゲームだったらよくある話だと思うの、大丈夫大丈夫。

 そう思って目をぐるぐるとさせている私は、ちっとも大丈夫じゃない。名東先生がかけた音楽は何をかけるんだろうと思っていたら、意外な事に一昔流行ったロックバンドの曲だった。聞き覚えのあるビートが車内いっぱいに広がるのに、私は思わず名東先生を見ると、照れくさそうにそっと名東先生は耳を赤く染めた。


「好きなんですよ。解散してしまいましたがね」

「懐かしい曲ですよね、これ。私その時高校生でした」

「自分は大学生でしたね」


 あら……名東先生、私よりちょっと年上かしらん。何歳違いなんだろうと少し考えていたら、名東先生は学校で見るよりもほんの少しだけ饒舌に話し出す。これは学校では先生でいないといけないって言うのが、年相応の男性に戻っているせいなのかしらん。やっぱり頼り甲斐ありそうなイメージも、困っていたらすぐ手を差し伸べてくれる所も払拭なんてされないけれど、趣味のロックの話をしている時は生き生きしているような気がする。

 その頃はちょうどロックバンド全盛期の頃で、話しているバンドも音楽には疎い私でさえ知っているような人達ばかりで、聞いているだけでも面白い。


「もし教職免許取れなかったら、家出して東京に売り込みに行こうとか、本気で思っていた頃でしたね」

「そこまで好きだったんですか」

「今思うと、曲を弾くのは好きでも、作る方の才能はこれっぽっちもなかったんですけどね。でもあの頃のバンドは本当に好きでしたよ……今はなかなかロックフェスタにも行けませんし」

「あ……夏の野外イベントでしたっけ」

「はい。あちこちからロッカーが集まって来ますし、生の音はやっぱりいいものですから。全身で音楽を浴びていると言うか」

「なるほど……」


 そうこう言っている間に駅前の自転車屋が見えて来て、そこの駐車場で降ろしてくれた。後部のトランクから自転車を出してくれる所までしてくれて、私も目を白黒とさせてしまう。

 自転車屋に見せてみたら、三十分後に取りに来るようになんだから、これだったら会社で金庫を返却に行ったらその足で戻れば余裕だろう。名東さんがわざわざ会社まで送ってくれるのが、何とも言えない。

 さんざんロックの話をしつつ、ふと思い出した事があり、信号待ちの際に思い切って聞いてみた。


「そう言えば、今日はどうして駐輪場まで来たんです? 自動車通勤でしたら、わざわざ駐輪場まで来ないですよね……?」

「あー……」


 名東先生の歯切れが、ほんの少しだけ悪い。

 あれ、何かした。私? 思い返してみても、特に名東先生には何かした覚えがない。強いて言うなら、校内の恋愛事情に首を突っ込んでいる位だけれど、一部は不可抗力だから私は怒ってもいいけど、生徒の子達は怒らないで欲しい。私は思わず恐々と名東先生の横顔を見ると、ようやく名東先生と目が合った。信号、もうちょっとだけ止まってて。歩道を渡って行く人達を眺めていた所で、ようやく名東先生が口を開いた。


「……もうすぐ夏休みですから」

「あ、そうですね。生徒さん達ももうすぐ休みに入ってしまいますよね」

「夏休みに入ったら、しばらく会えませんから」

「そうですね。四十日って高校生には長過ぎますよね」

「……長年高校の教師やってると、感覚が高校生に近くなるんですよね。社会人やってるつもりですけど、どうも社会人と同じ感性か自信がないです」


 あ、あれ……? 私は何度目かの恐々とした視線を名東先生に送ってしまう。あの、これ。私。勘違いした方がいい所? それともこれ以上は私の思い込み……?

 私が何か言おうとした所で、信号は青に切り替わってしまった。車がゆっくりと走り出すのに、私は思わず黙り込んでしまった。耳にしているロックは、最近は恋愛ソングが多いのに対して、この頃は随分と生きる事について歌っているものが多かった気がする。その曲は随分とドラムが激しくて、それは私の心臓の音のようにも錯覚してしまった。


****


 自転車屋から車を走らせて十分とちょっと。

 会社の近くの角で降ろしてもらいつつ、私は何度も何度も頭を下げる。


「あの、何から何まで、本当にありがとうございました」

「いえいえ。困った時はお互い様ですよ」

「ですけど、私いつも先生に助けてもらってるだけで、何もした覚えが……」

「いえ。今日は充分もらいました」


 そう言ってにこりと笑う名東先生に、私は途方に暮れて肩を落としそうになるのをどうにか堪える。


「それじゃあ、お疲れ様です」

「はい、お疲れ様です」


「さようなら」とも「おやすみなさい」とも言うのはおかしい気がして、完全に仕事の常套句の挨拶となってしまった。名東先生は最後まで落ち着いた雰囲気のままだった。

 車がゆっくりと走り去っていくのを見ながら、私はようやく肩を落とした。

 ……あの、落ち着いて私。一体どこから。どこからそんなフラグが立ってた? 携帯アプリは基本的に一本道シナリオがデフォルトで、確かに選択キャラを選べばグッドエンドやバッドエンドになったりもする。でも私、そもそも「えこうろ」じゃあるまいし、先生ルート狙いますとかした覚えが、全くないんですけど。で、コンシューマーゲームの乙女ゲームだったら、特定の攻略対象を攻略する場合、フラグを立てたりパロメーターが必要だったりするけれど、こちらも全く覚えがないんですけど。

 ……生まれてこの方26年。乙女ゲーム以外で彼氏できた事のない私には、先生の放り投げてくれた爆弾の数々をどう対処すればいいのか、全然分からないんですけど。

 落ち着いて、私。名東先生はただ親切で自転車のタイヤがパンクしていた私を、送り届けてくれただけだから。親切なだけだから。でも、私。外部業者で、特に先生に対して何もした覚えが……。

 ぐるぐるする頭を冷やすには、夜風はあまりにも湿気を含み過ぎていた。汗がポツポツと噴き出すだけで、冷やしてくれるには努力が足りない。気を落ち着けようと、私はひとまず会社まで戻る事にした。

 金庫を返却したら、自転車だって取りに行かないといけないんだから。

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