2 控室
控室四〇九号のドアをノックすると、意外なことに扉はすぐに開かれた。
「ああ、ちょうどよかった。どうやって捜そうかと悩んでいたんだ」
若林は夕夜の顔を見てほっとしたように笑い、ベッドに腰かけた。
堅苦しくなったのか、上着は脱いで椅子の背に掛けてある。
「あの……お腹すいてませんか?」
てっきりまだ落ちこんでいると思っていた若林が案外元気そうな様子でいるのに内心驚きながら、手に提げていた白いポリ袋をテーブルの上に置く。
「給仕の方にパックをもらって、そこに会場の料理を適当に詰めてきたんです。あとこれ、お茶。ちゃんと割り箸もありますよ」
言いながら、夕夜はポリ袋から次々と品物を取り出してテーブルの上に並べた。
若林はそれらをじっと無表情に眺めていたが、ふいに笑って言った。
「正木だな」
夕夜は驚いて手を止め、ベッドに座っている若林を見た。
「俺の好きなものばっかり選んでる。おまえや美奈なら、必ず一個は嫌いなものを入れてくる。いや、パックに詰めて持っていくなんて発想、おまえたちにはないだろ。あいつはけっこう貧乏性なんだ。金には不自由してないのにな」
若林は懐かしそうに目を細めた。たとえ避けていた時期があっても、確かに彼は正木と十七年の年月を共有していたのだ。
「そのとおりですよ。よくわかりましたね。で、食べますか?」
「もらうよ、せっかくだから」
ベッドから立ち上がった若林は、自分の上着が掛かっている椅子に腰を下ろした。
夕夜が手渡した割り箸を自分で割り、さっそく食べはじめる。どうやら食欲はあるようだ。
それを見てから、夕夜も若林の向かいに腰かけた。
「一つ、お訊きしたいことがあります」
硬い声で夕夜は言った。
「さっきのプロポーズは本気ですか?」
その瞬間、若林は激しくむせた。
夕夜は緑茶のプルタブを開けてはやったが、それ以上は何もしなかった。
「いきなりそう来たか」
あわてて自分の胸を叩いて緑茶を喉に流しこんだ後、若林はげっそりとした顔になってそう呟いた。
「当たり前でしょう。正木博士ははっきり言って本気にしていませんよ。あなたには〝前科〟があるからと言って。本当のところ、どうなんですか? さっきのは本気だったんですか? それとも何かの間違いだったんですか?」
「〝前科〟……ああ、やっぱりそうだよなぁ。今さらだよなぁ」
ところが、若林はそう言って、再び頭を抱えこんでしまった。
夕夜は生まれて初めて若林を殴りたい衝動に駆られ、正木の心情を身をもって理解した。
「だから! 昔のことはもういいんですよ! 問題は今! 今のあなたが本当に正木博士と結婚したいと思っているのか、それを訊きたいんです! いいかげんにしないと、いくら僕でも怒りますよ!」
「わ……わかった」
眉をひそめて自分を上目使いで睨む夕夜に、若林は怯えて両手を上げた。
普段はとても穏やかなだけに、怒ると夕夜は正木よりも恐ろしい。
正木は結局若林に惚れているから、すぐに許してしまうのだが、夕夜はいったん怒り出したら容赦しない。若林家では夕夜を怒らせることは自殺行為にも等しいのだった。
「ほんとは、〝どこにも行かないでほしい〟というようなことを言おうと思ってたんだ」
照れくさいので、若林は額に手を当てて下を向いた。
「そしたら、正木の顔を見たとたん、真っ白になっちまって……それでも何か言わなくちゃと思って言ったら……」
「〝俺と結婚してくれ〟……ですか」
呆れたようにそう言われて、若林はいよいよ深くうつむいた。
「まあ……それが最善の策と言えなくもないですけどねえ……」
真相を聞いて、夕夜はすっかり怒る気をなくしてしまった。
確かに正木の見解は正しかった。若林にはプロポーズをするつもりはなかったのだ。
だが、〝どこにも行かないでほしい〟というのは、〝結婚してほしい〟とほとんど同義ではないのか。それとも、まったく違うのか。
「それで……どうなんです? 正木博士に言い直しますか? 本当は、〝どこにも行かないでほしい〟って言いたかったんだって」
「――正木は、〝結婚してくれ〟って言われて〝うん〟って答えたんだ。……二度も」
若林は両手で額を覆った。夕夜は驚いて彼を見た。
「正直言って、どうして正木が俺なんかと結婚したがるのかわからない。正木に比べたら、俺は本当につまらない人間なんだ。頼むからもう俺にはかまわないで、もっと自分にふさわしい人間とつきあってくれって、俺はずっと思ってた。たぶん、俺は今でも思ってる。正木がやっぱり断ると言ってくれないかと期待してる。――嫌いなわけじゃないんだ。好きなんだよ。好きなんだけど、俺は〝正木凱〟っていう天才のファンなんだ。自分のそばにいてほしいとは思うけど、叶わないならそれでもいい。正木が幸せでいてくれるなら、それで俺は満足なんだ」
初めて耳にする若林の本音だった。正木を神聖視しているのは夕夜も気づいていたが、まさかそこまで突き抜けてしまっているとは思わなかった。こんなことを思っていたら、確かに正木に告白などできなかっただろう。
しかし、プロポーズはしたのだ(十六年前のことは別として)。もののはずみにしろ、どこかにそんな気持ちがなかったら、〝結婚してくれ〟などという言葉は、そう簡単に出てこないのではないだろうか。
「正木博士にとっての〝幸せ〟は、あなたと一緒にいることなのだとは考えられませんか」
額から手を離して、若林はゆっくり顔を上げた。
夕夜は少し哀れむような、優しい微笑を浮かべていた。
「あなたがご自分をどう思われようと、正木博士が選んだのはあなたなんです。結婚してもいいとさえ思ったのは、世界でただ一人、あなただけなんですよ。あなたがもし本当に正木博士のファンならば、素直に正木博士の判断を受け入れるべきではないですか。あの正木博士が、〝つまらない〟人を選ぶはずがないでしょう?」
意表を突かれたような顔をして夕夜を見ていた若林は、額の前で両手を組んで、じっと何事か考えはじめる。
また何か埒もないことを悩んでいるのかと再び夕夜が苛立ちはじめたとき、ふいに若林が笑みをこぼして両手をほどいた。
「そうだな。正木が選んだんだな、俺を。なら、俺が悩んだってしょうがない。正木には全部正直に話して、その上でほんとに結婚してくれるかどうか訊いてみるよ」
「正直にって……本当はプロポーズをするつもりはなかったことをですか?」
それならすでに正木はお見通しである。だから素直に喜べない。
「いや、それもあるけど……」
若林は言いにくそうに言葉を切って、自分の頬を掻いた。
「俺は正木のファンなんだって言っただろ? だからその、何て言ったらいいか……確かに〝結婚してくれ〟って言ったのは俺だけど、やっぱり正木は男だし……」
「ははあ」
訳知り顔で夕夜は言った。
「つまり、正木博士と肉体関係は持ちたくないということですね?」
とたんに若林は真っ赤になって口元を覆い、あらぬ方向を見た。
「それでよく〝結婚してくれ〟なんて言えたもんですね」
わざと嫌味ったらしく言ってやる。
「だから余計悩んでるんじゃないか。俺は正木のこと、綺麗だとか可愛いだとかは思ったことあるけど、その……キスしたいだとか、抱きたいだとか、そんなことは一度だって考えたことないんだ。何か、そう考えただけで
覆った手の下で若林はぼそぼそ言った。
夕夜は呆れるを通りこして感心してしまった。いくら顔は綺麗でも、あんなに口が悪くて気も短い正木をそこまで崇拝していたか。
この男、正木と同輩でさえなかったら、今頃敬語を遣っていたかもしれない。
「たぶん、正木博士はもうそのことを承知しているんじゃないでしょうか」
たぶん――正木があんなに落ちこんでいたのは、若林が自分を求めてくれないとわかってしまったから。そして、そんな若林を今度こそあきらめようと思ったから。
「そうかなぁ。だって、あいつ――」
ゲイなんだろ……と言おうとして若林はやめた。このことは夕夜たちには話していない。もちろん夕夜はすでに知っているのだが、若林はそのことを知らない。
それにこれは正木を侮辱することになると思った。正木を侮辱する者は自分だって許せない。若林とはそういう男だった。
「では、本人にそう確かめてみればよろしいでしょう」
わざと意地悪く夕夜は言う。
「でも、それでやっぱりやめると言われたら、どうなさるおつもりですか?」
若林は少し考えてから、真剣な表情で答えた。
「土下座して謝る」
夕夜はまったく想像もしていなかったその答えに面食らってしまい、しばらく何も言えなかった。
「謝るって……肉体関係は持てないことをですか?」
「うん」
多少また赤くなったが、若林ははっきりとうなずいた。
「でも、結婚はしてもらいたいんですね?」
「うん」
夕夜は眩暈を起こしたいような気分になって、自分の額に手をやった。
これが正木が十七年間愛しつづけた男。――ちょっと正木の趣味を疑いたくなる。
「あの、お言葉ですが、正木博士がやめると言っても結婚してもらいたいんなら、いっそ何も断らないほうがいいんじゃないでしょうか」
それでも、何とか立ち直って、夕夜は額から手をはずした。
夕夜の指摘に、若林はそういえばそうだなというような顔をしたが、やはり真面目にこう答えた。
「だって、それじゃ詐欺になるだろ」
夕夜は再び自分の額に手をやった。
――こういうところも愛しているんですか、正木博士。
「まあ、あなたがそうおっしゃるんでしたら、僕には何も言うことはありません。願わくは、あなたが土下座しなくても済むことを祈っていますよ。でも、そうと決まってしまったら、これからする勝負は本当に無意味ですね。どちらが勝っても負けても、正木博士はあなたと結婚するんですから」
このとき、夕夜は明らかに気がゆるんでいた。若林のとぼけた答えに疲れてしまっていたのか。
長く中断していた食事を再開しようとしていた若林が、何とも言えない顔をして自分を見つめていることに気がついたとき、夕夜はようやく自らの失態を知った。
「おまえ、何で知ってる」
鈍感なくせに、正木がからむ話にだけは敏感になる若林は、低くそう訊ねてきた。
「そういえば……思い出したぞ。呉さんだ。呉さんが、正木はもうウォーンライトから、話は全部聞いてるって言ってた。まさか、おまえもそのとき一緒に――」
上手の手から水が漏れる。語るに落ちる。
しらを切るのは十八番の夕夜も、今度ばかりは引きつった笑顔になった。
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