3 ファミレス(3)

「じゃあ、もうそろそろ出るか」


 一休みした後、若林がそう言って腰を上げかけた。

 夕夜も美奈もそれに倣おうとしたが、正木は依然として腰を下ろしたまま、突然若林にこう命じた。


「若林。おまえ、今から車とりにいってこい」

「……明日じゃ駄目なのか?」


 急用で帰ると言って出てきた若林としては、今さらのこのこ大学に戻りたくない。正木の言うことにはたいてい従う彼も、今度ばかりは反抗の意を示した。


「おまえ、明日も大学行くのか?」


 意地悪く正木は笑った。


「金曜日の次は、普通土曜日だ」


 返す言葉をなくして、若林は凍りついた。


「たった二日とはいえ、何があるかわかんないから、今のうちに取ってきちまえよ。車停めたの、来客用駐車場だろ? あそこは案外危険だぞー。十円キズつけられるかもしんないぞー」


 正木にそう言われると、何だか急に不安になってきて、いくら恥ずかしくても面倒でも、今から戻って取ってきたほうがいいかなという気分になってきた。

 それに、正木がうちにいるのなら、車はあったほうがいいだろう。


「俺たちはこれからいくつか回って買い物するから、おまえはゆっくり取りにいってていいぜ。飯ができるのを待つのが嫌だったら、六時くらいに戻ってくるのがベストだ。ここの払いは俺たちがしてくから、おまえはそのまま出てっていいよ」

「あ、ああ……」


 若林はとりあえずうなずいたが、またあの自分だけ除け者にされているような疎外感を覚えてしまった。

 それを見透かしたのか、正木は次にこう命じた。


「それから、美奈。おまえ、若林についていけ」


 すでに若林に手を振りかけていた美奈は目を丸くした。


「ええ! 何でよ!」

「この男を一人にしておくと、今度は車を取りにいったことを忘れるかもしれないからな」


 にやにやしながら正木は若林を親指でさした。


「たまにはおまえ、若林にもつきあってやれよ。ごほうびに何かいいもの買ってくれるかもしれないぞ?」

「……ほんと?」


 真顔で若林を見上げる。


「いやまあ……何かあるのか?」

「ぬいぐるみー。ペンギンのぬいぐるみー」

「何だおまえ、そんなものが欲しかったのか」

「で、あとでそれを本物のペンギンみたいに動くようにしてー」


 美奈を除いた一同に何とも言えない沈黙が落ちたが、やがて若林があきらめたように笑って、わかったわかったと答えた。

 正木や夕夜とは違った意味で、美奈にも若林は逆らえない。夕夜が出来のいい〝長男〟だとすると、美奈はわがままだが愛嬌のある〝長女〟である。どちらも若林にとっては大事な自分の〝子供〟なのだが、ついつい美奈ばかりを甘やかしてしまう。幼い子供がそうであるように、美奈は甘えるのがとてもうまいのだ。


「じゃあ、取りにいってくるよ」

「あいよ。気ィつけてな」


 正木にそう返されて、若林は照れくさくなって急いで席を離れた。その後を案外嬉しそうな様子の美奈が追う。

 店の外に出て、正木たちのいる窓の前を通るとき、美奈が笑ってこちらに手を振ってきた。若林は手こそ振りはしなかったものの、気恥ずかしそうにこちらを見た。

 夕夜もその向かいの席に移った正木も、愛想よく笑って彼らに手を振ってやった。

 こうして離れて見てみると、若林と美奈は恋人同士にも見える。ただし、二人の身長差は頭一個分ある。


「うまく追い払いましたね」


 二人の姿が人込みにまぎれて見えなくなった頃、夕夜はにやりと笑って上目使いで正木を見た。


「あの二人がいると話せねえからな。たまには〝娘〟と歩くのもいいだろ」


 正木は肩をすくめて、二杯目のコーヒーを飲んだ。


「では、何を話しますか?」

「そうだな……まずはあのとき俺たちが出ていった後のことをかいつまんで話してくれ」

「出ていった後……ですか」


 てっきりウォーンライトと話した内容を訊かれるとばかり思っていた夕夜は、拍子抜けして軽く目を見張った。


「そうだ。おまえがウォーンライトと話をしたことはわかってる。でも、俺はその内容には興味はない。問題はその後だ。あいつが何でどこに行ったかわかるか?」


 続く予想外の質問に、夕夜は少し戸惑ったが、


「タクシーで駅方面に向かっていったところまでは確認しましたが、どこへまでかはわかりません。途中で鉢合わせしたらまずいと思いましたので、かなり時間をおいてからメールを打ったんですが……若林博士が一緒にいるのを見たときには、回路が切れるかと思いましたよ」


 正木は〝がはは〟と笑ってそっくり返った。


「俺は心臓が止まるかと思ったね。若林はいつも俺の意表を突くよ。ふんふん、やっぱタクシーね。いや、それを確認してくれただけでも上出来。やっぱおまえは優秀だわ」


 そう言って、急に正木は真剣な顔になって黙りこんだ。親指で眉間をとんとん叩きはじめたかと思うと、思いきり眉をひそめて目を閉じる。

 何か集中して考え事をするとき、正木はよくこんな仕草をした。いま彼の頭の中では次から次へと想念が泉のように湧き出してきていて、彼はそれを汲みとるのに必死なのだ。

 こうなったら誰も彼に話しかけてはならない。邪魔をされると彼は烈火のごとく怒り出し、邪魔した相手を完膚なきまで言葉で叩きのめす。

 だが、ありがたいことに、彼がそうして考えこむ時間は非常に短い。ふっと目を開けて顔を上げたときには、もういつもの正木に戻っていた。


「やっぱそうだよな」


 開口一番、正木は言った。彼の中ではすでに話は終わっている。

 しかし、いくら夕夜が優秀なロボットでも、こんな言葉だけでは推測不能だ。


「いったい何がですか?」

「ヘンリーのことさ。ここに来る途中で初めて気がついたんだけどな。どう考えてみても早すぎる」

「早すぎる……ですか」


 さすがにこれだけでは、まだ何のことやら、さっぱりわからない。


「今朝のことだよ。ヘンリーがうちに来たのは、たぶん電話を切ってからまだ五分も経ってなかったはずだ。いくらタクシーに乗っていて、たまたま近くを通っていたとしても、あんなに早くうちの前に来れるはずがない」

「どうしてですか?」


 若林の家のことを〝うち〟と呼んでいる正木に内心にやつきながらも、夕夜は冷静にそう問い返した。


「うちの住所知ってるの、何人いる?」


 一方、自分の考えにのめりこんでいる正木は、自分が若林の家を〝うち〟と呼んでいることになど、まったく気づいていない。


「いや、この言い方は正確じゃない。うちへの道順を知ってる人間は何人いる?」


 そこで、正木の言わんとしていることがようやくわかって、夕夜ははっとした。


「そういえば……何でうちが……」

「そう。おかしいだろ? そりゃ、住所さえわかれば道順はすぐに調べられる。でも、若林がヘンリーに自分の名刺を渡したとはとても思えない。とするとだ、俺たち以外でうちの住所を知ってる誰かがあいつに教えたってことになる。

 あのときヘンリーがうちに電話をかけてきた目的は、まあ本人が言ってたとおりだと思う。俺はかなり疑ってるんだが、今はそういうことにしておこう。そうしないと話がややこしいことになるからな。

 とにかく奴は、あのときうち以外のどこかに行こうとしていて、たまたまこの付近にさしかかかったときに、若林に電話をかけることを思いついた。かけてみると思いがけなく俺が出てきて、いま若林の家に俺がいることがわかった。このままだと俺が若林の家を出ていっちまうと思った奴は、その前に若林の家に行こうと思った。

 さて、ここからが問題だ。このへんの地理には詳しくないヘンリーが、どうやってタクシーを若林の家に向かわせる? 観光名所ならともかく、うちはしょせん一個人だ、タクシーの運ちゃんが知るはずもない。どうしたってヘンリーが、自分で指示しなくちゃならない。しかも、すばやく、正確に、だ。

 だから俺は、そのときタクシーにはヘンリーと一緒に、うちを知ってるその誰かも乗ってたんじゃないかと思う。ヘンリーは別に一人でタクシーに乗ってたなんて一言も言ってないんだからな。

 そして、その人物とは、今ヘンリーが世話になっている日本の知人とやらと同一人物である可能性が非常に高い。ヘンリーを知っていてなおかつうちを知っている人物。実を言うと、俺には一人だけそんな人間に心当たりがある。というより、そいつしか思いつかないんだ。今さらヘンリーがあんな勝負をしにきたことも含めてな」

「誰です、その人物とは?」


 正木の緻密な推理に圧倒された夕夜は、さっさとそう訊ねた。

 正木は何とも嫌そうな顔をして、力なく答えた。


「千代子だよ……」

「呉博士ですか!」


 夕夜は驚いたが、そう言われてみれば、千代子は一度うちに訪ねてきたことがある。

 先月、美奈を賭けてやはりロボット勝負を挑んできて、夕夜がからくもそれに勝ったのだ。

 もしかして、前回負けたのが悔しくて、今度はウォーンライトをたきつけてきたのか?

 まさか! でも、不思議に納得できる。


「ウォーンライト博士は、呉博士ともお知り合いだったんですね」

「お知り合いというか……俺を通じての知り合いかな。まあ、千代子ならアメリカにツテもあるし、充分やりそうなこった。でも、これはまだあくまで仮説だ。確証がない。そこでだ」


 正木は自分のジーンズのポケットから紙切れを取り出すと、それを夕夜に差し出した。


「ヘンリーが連絡先だと言って若林に教えていった電話番号だ。おまえ、ちょっとそこの公衆電話でかけてみてくれ。俺にはとてもそんな勇気は持てない」

「はあ……」


 夕夜は正木から皺だらけのメモを受けとって広げてみた。

 そこには、今朝自分が書いた数字が几帳面に並んでいる。


「俺は携帯番号しか知らないんだ。そこが本当に千代子のうちかどうか確認するだけでいい。余計なことはいっさい言うな」

「わかりました」


 何だか疲れきった様子でソファに寄りかかっている正木に、夕夜は心から同情して立ち上がった。

 ウォーンライトのことだけでも気が重いだろうに、それにあの千代子が関わっているかもしれないときては、さすがの正木もめげずにはいられまい。

 夕夜は店の出入り口の横にある公衆電話から、メモにあった番号に電話をかけた。

 呼び出し音が五回続いて、これは留守かなと夕夜が電話を切ろうかと思いかけたとき、突然電話がつながった。


「あ、もしもし、鈴木さんのお宅ですか?」


 夕夜は自分の声質を低く変え、よくある姓を口にした。

 少し間を置いて、たどたどしい少女の声が返ってくる。


『イイエ。ウチハ呉デス』

「すみません。間違えました」


 いかにもすまなそうに夕夜は言って、電話を切った。


「どうだ?」


 戻ってきた夕夜に、正木が身を乗り出して訊ねてくる。


「ビンゴ。――モエちゃんが出ました」

「あああ。やっぱり」


 確信はあっても、まだ心のどこかで、もしかしたらと思っていたらしい。正木は崩れるようにテーブルの上に両肘をついて、頭を抱えこんでしまった。千代子のあの高笑いが聞こえてくるようだ。


「でも、ウォーンライト博士は、一言もそんなことは言いませんでしたね」


 再びソファに腰を下ろしながら夕夜が言うと、正木は頭を抱えたまま、「言う必要もねえからな。電話かけりゃあ一発だ」と答えた。

 今日は朝からこんなことの連続だ。が、正木は突然ぱっと顔を上げた。


「ま、千代子が関わってたとしても、勝てばいいんだよな、勝てば」


 さすが、開き直りは早い。


「それは、もちろん若林博士が、でしょうね?」


 夕夜はにやにや笑って念を押した。


「そりゃまあ……」


 返答に困って、正木は自分の頬を掻いた。いつのまにか、若林の癖が移ってしまったようだ。


「僕がこんなことを言うのは差し出口かもしれませんが」


 夕夜はふっと笑みを消した。


「もういいかげん、あなたのほうが折れてあげたらどうですか? あなたは自分のことをさほど特別だとは思っていないんでしょうが、若林博士にとっては、あなたはいまだに雲の上の人なんです。たとえどんなに親しくなっても、やっぱり自分とは別世界の人間だと思っているんですよ。

 だから、あなたにはっきりそうと告げられない限り、彼はこれから先もずっとあなたの気持ちに気づかないふりをしつづけるでしょう。それが自分が傷つかない最善の方法だからです。

 あなたもきっとそうでしょう? 自分が傷つきたくないから――若林博士に拒まれるのが怖いから、直接自分の口からは言い出せないんでしょう? そのことに触れさえしなければ、あなたたちはうまくつきあっていますからね。

 でも、本当にそれでいいんですか? あなたがこれだけ露骨に態度に出しても、まだあの人は何の行動もしようとしないんですよ? それでもまだ待ちますか? もしかしたら、この先一生こうかもしれませんよ?」


 ――正木を怒らせてしまうかもしれない。

 舌鋒鋭く言いながら、その実、夕夜はそんな自分に嫌気がさしていた。

 自分はいつもこうだ。美奈のようにうまく立ち回ることができない。どうしても、いつもしまいには、こんなきついことを言ってしまう。

 だが、正木にこんなことを言えるのは、たぶん自分以外にいないのだ。だから、毎度けむたがれるのを承知で夕夜は言う。

 しかし、今回の正木の反応は、いつもとかなり様子が違った。


「俺だって、それくらいはわかってる」


 そう言って、ふてくされたような顔で頭を掻いたのである。


「これまで若林には会わないってしつこく言いつづけてきたのも、もうあきらめようと思ったからだ。でも――ダメだな。どうしても思いきれない。いっそ外国にでも行っちまえばいいのに、中途半端に離れたところに住みついて、口では文句言いながら、結局おまえと会っていた。

 それに――あんなつれない男だけどさ、やっぱ会うと楽しいんだよ、何言い出すかわかんなくて。その分、期待もたくさん裏切られてきたけど……俺はバカだな、懲りずにまた期待しちまうんだ。それでズルズル十七年も経っちまった。

 ――わかってるよ。いくら期待してたって、たとえあいつも思ってくれてたって、あいつがそんなこと、言えるはずがないんだ。俺が思いきって言っちまえばすぐに片がつく。それもわかってる。

 でもさ――やっぱ嫌なんだよ。言わせたほうが勝ちとか言ったほうが負けとかそんなんじゃなくて、あいつに求められていないのに、自分を押し売りするような真似になるのが。俺が一生を懸けてもいいと思った唯一の人間だから、絶対向こうから切り出してもらいたい。

 おまえの言うとおり、もしかしたら一生このままかもしれない。でも、今はそれならそれでしょうがないかという気になってるんだ。向こうから言われたいというのが俺の人生最大のこだわりなら、それに最後までこだわってみようかと思った。――おまえたちはきっとイライラするだろうけどな」


 正木はさばさばした表情で笑った。

 やせ我慢ではなく、彼は本心からそう思っているように見えた。


「すみません」


 夕夜は深くうつむいた。


「何だよ、何で謝るんだよ」


 急に沈みこんでしまった夕夜に、正木はあわてて声をかけた。


「だって、あなたの気持ちも考えずに勝手なことばかり言って……本当にすみません」


 夕夜は短絡的に正木を責めた自分をひどく恥じた。

 正木が家を去った後、自分が若林の面倒を見てきたせいだろうか。いつのまにか、夕夜は常に若林の立場に立って物事を考えるようになっている。

 これでは正木のことは笑えないなと夕夜は思った。自分を正木の代替物だと思ったことはないが、無意識のうちに正木の代わりになろうとは思っていたかもしれない。

 しかし、だからと言って、夕夜は正木に嫉妬心などは感じない。若林は正木のもの。自分はただ正当な持ち主が戻ってくるまで管理していただけにすぎない。


「そう簡単にわかられてたまるかよ、恥ずかしい。でも、おまえがいてくれて、ほんとに助かった。俺がこんな本音まで話せるのは、おまえだけだよ、夕夜。俺はおまえを、あの大ボケ男よりもずっと信頼している」


 それは正木にとって最高の賛辞であったに違いない。

 照れて少し赤くなった顔に、小悪魔のような笑みを浮かべて、夕夜を覗きこんでくる。


「博士――」


 感激のあまり、夕夜は思わず声を上ずらせた。


「んじゃあ、そろそろ俺らも行くか。あいつらが帰ってくるまでに、買い物済ませておかねえとな」


 取ってつけたように正木は言うと、透明なプラスチックの筒の中に丸めて入れてあった伝票をわしづかみして、あたふたと立ち上がった。

 正木と若林の数少ない共通点。それはこの照れ性かもしれない。しかも、それは彼らが失えないと思っている人間に対してしか現れない。

 レジのほうへと大股に歩いていく正木の後を追いながら、夕夜は自然に込み上げてくる笑いをこらえるのにかなり苦労した。

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