04 若林宅
若林家で電話のベルが鳴ったとき、若林が在宅している場合は若林が出る。下手に〝人間型ロボットの最高傑作〟が出てしまっては、相手が同業者の場合、面倒なことになるからだ。
もちろん、若林が不在のときは夕夜が出る。ただし、相手を選んで。しかし、今回電話口に出たのは、正木が想像もしていなかった人物だった。
『ああ、まーちゃん、ちょうどよかった!』
心底ほっとしたように、美奈は声を張り上げた。
「美奈か? 夕夜はどうした?」
『それよそれそれ! 大変なのよ!』
美奈はいよいよ声を大きくする。正木は顔をしかめて、耳から少し携帯電話を離した。
『今、夕夜と若ちゃん、ケンカしてるの!』
正木は一瞬、言葉が出なかった。
「何?」
『だからケンカよ! 夕夜がどうしても勝負したくないって……あわわわわ』
美奈があわてて口を押さえた気配がする。たぶん、若林に勝負のことは正木に言うなと口止めされていたのだろう。前回の川路の件からしてもありそうなことだ。
「大丈夫、知ってるよ。話はみんな千代子から聞いた。それで? ケンカは今どんな状況だ? 殴り合いにでも発展してるのか?」
『ううん。二人して、黙りこくってる』
「……そいつは怖いな。じゃあ美奈。悪いが勇気を振り絞って、夕夜と代わってくれ。俺から電話だって言って。いいか、若林じゃないぞ? 夕夜だ」
『うん、わかった!』
美奈が元気よくうなずいた、と保留音が流れ出した。相変わらずこの曲かと思いながら、そういえば、大学を辞めた後、一度として若林の自宅に電話をかけたことがなかったことを思い出した。正木がかけるとしたら夕夜にだし、夕夜は自分専用の携帯電話を持っている。
その夕夜にも、自分からはほとんど電話をかけなかった。今回は用事があるのは夕夜だけではなかったから、あえて自宅のほうにかけたのだ。
(ずいぶん待たせるな)
夕夜のことだからすぐに出ると思ったのに。ケンカとやらはそれほど深刻なのか?
そんなことを考えていたら、唐突に保留音が切れた。
『正木博士!』
夕夜だった。だが、夕夜のそんな切羽詰まった声を、正木は久しぶりに耳にした。
『助けてください! 僕は嫌です!』
「わかった、夕夜。少し落ち着け。そばに若林はいないな?」
『いません。盗聴器や隠しカメラもありません』
「いや、そこまで確認しなくても……夕夜。何がそんなに嫌だ?」
『女の子と殴り合いをすることです』
思わず正木は笑った。夕夜にはどんなことがあっても女にだけは暴力を振るうなと教えた記憶がある。正木はあくまで人間の女に対してというつもりだったが、ロボットである夕夜には、ロボットの女(の形をしたもの)も対象となるのだろう。むしろ、自分と同じロボットのほうが、夕夜には人間以上に嫌なのかもしれない。
「それはまったく同感だ。特に今回みたいな理由じゃな。……悪かった。すまない」
『どうして正木博士が謝るんですか?』
不思議そうに夕夜が問う。逆に正木のほうが戸惑った。
「どうしてって……結局は俺のせいだろ? 勝負を受けなければ、俺がおまえのプログラムを作ったってバラすって脅されたんだからよ」
『それはそうですが……でも、それはきっと二の次です』
夕夜の口調が苦々しいものに変わる。正木はふと眉をひそめた。
「若林もやりたがってるってことか?」
『さすがですね』
かすかに夕夜は笑ったようだった。
『これだけで、そこまでわかるなんて』
「おまえも俺の頭脳に乾杯するか?」
『は?』
「いや、何でもない。とにかく、若林は来週の日曜、スリー・アールでモエと戦えとおまえに言い、おまえはそれがどうしても嫌だと言って、いま揉めてるわけなんだな?」
『はい、そうです……僕もこれが格闘とかじゃなかったら、不本意ですけど、反対はしないんですが……』
「ああ、わかってるよ。俺だってそう思う。ただ、一つだけ、もう一度だけ確認しておきたいんだが……」
正木はいったん言葉を切った。
「おまえが嫌なのは、女の子と殴り合いをすることなんだよな?」
『……どういう意味ですか?』
夕夜の声がやや硬くなる。
「言葉どおりの意味さ。それならそれでいい。――悪かったな。俺もどうにかして千代子にやめさせようとしたんだが、どうしてもやめる気はないと合点承知しねえ。でも、おまえがどうしても嫌だって言うんなら……」
『博士――違うんです』
我慢しきれなくなったように、夕夜はそう言って正木を遮った。
「何がだ?」
『確かに、女の子と殴り合うのも嫌です。それは嘘ではありません。しかし、それ以上に僕が嫌なのは、僕が僕でなくなることなんです……』
「…………」
『昔……あなたがまだこの家にいた頃、あなたは僕に痴漢よけだなんて言って、護身術をいくつか教えてくれましたよね?』
「ああ。……そんなこともあったな」
『あのとき、あなたは若林博士にはこのことは内緒だって言ってましたよね?』
「ああ。……言ったな」
『だったら……どうしてそのことを、若林博士が知ってるんですか?』
夕夜の声は悲鳴に近かった。
『若林博士は、僕はその気になれば、一時的に感情プログラムを殺すこともできるのだと言いました……』
――やっぱりな。
心中で正木は呟く。そう思ったからこそ、わざわざ電話をかけたのだ。
「夕夜」
いつになく優しい声で正木は語りかけた。
「おまえを騙すつもりはなかった。でも、結果的にそうなったのはすまないと思う。悪かった。あのときのことは、一応若林には簡単に話してある。おまえも知ってのとおり、おまえを作ったのは、あいつと俺だ。おまえの性能を知る権利は、あいつにもある」
『……ええ、そうでしょうね。それはわかります。ましてや、設計はお二人でなさったのですから、僕のプログラム上のこともよくご存じでしょう。でも、それはどうしても確認しておかなければならないことなんですか? 人前で、女の子と戦うことで? ――あなたは一つだけ、若林博士に言わなかったことがありますね。もしそれを言っていたら、あのとき僕はすぐに解体されていたはずです。あなたが若林博士には秘密だと言ったのは、僕があなたから護身術を習ったことじゃない。僕があなたを殺しかけたことです』
「んなオーバーな。ちっと顔に傷作ったくれえじゃねえか」
『でも、事前にパスワードを決めてなかったら僕は……!』
「夕夜。いい子だ。おまえの言いたいことはよくわかった。でも、それだけは絶対に秘密だ。若林にはもちろん、誰にも、美奈にも言うな。どうしても言いたくなったら、俺にそう言え。……わかったな?」
『それは命令ですか?』
「おまえを失いたくない男のお願いだ」
『了解しました。最優先事項に分類します』
「よろしい。じゃあ、あのバカ教授に代わってくれ」
『はい。……でも、若林博士はやめないかもしれませんよ?』
「そのときは夕夜。俺を恨め」
『そんなこと……とりあえず、今は若林博士に代わりますが、僕はあなたに対しては何の恨みも不満もありません』
「若林が聞いてたら俺のほうが恨まれそうだな。いいよ、夕夜。無理すんな。悪いのは俺だ」
『……今代わります』
これ以上何を言っても正木は謝ることしかしないとわかったのか、夕夜はそれだけ言って電話を保留にした。
さて、これから若林に何と言ってやろうと考えはじめたとき、保留音が止まった。
えらい早いな、などと思ったときには、向こうが話し出していた。
『……正木?』
まだつながっているのかと、少し不安げな男の低い声。声もいいんだよなと不純なことを考えながらも、正木は自分の元同僚に答えた。
「ああ、俺だ。この前のコンテスト以来だな」
『あ、ああ……そうだな』
「今日、千代子がそっちに行って、おまえらに迷惑かけたそうだな。千代子の代わりに謝っとくよ。悪かった」
『何でおまえが謝るんだ?』
やはり驚いたように若林が言う。意見は一致しなくとも、こういうところは夕夜と同じだ。五年も一緒にいると、考え方も似てくるのだろうか。
「あのな。俺も自分で言いたかないが、元はといやあ俺が原因なんだろうが。おまえには言うなと言っといて、千代子にバラしたのはこの俺なんだからよ。まったく、この前といい今回といい、たまにはおまえら、俺を責めろよ。あんまり何にも言われないと、こっちの気分が悪くなる」
『それは……悪かった』
「だから、それをやめろって……ああもう、切りがねえな。じゃあ、それは置いといて、夕夜の件だ。おまえ、本気で夕夜に格闘やらせようと思ってんのか?」
『そうしなければ、おまえが夕夜のプログラムを作ったことをバラすと、呉さんに言われたからね』
淡々と若林は応じる。
「本気であいつがそんなことをすると思ったのか?」
『少なくとも、冗談には思えなかったよ』
正木は思わず溜め息をついた。
「おまえがそんなふうだから、冗談にできなかったんだよ。……さっき俺も千代子に会って、ひととおり話は聞いた。千代子はどうしてもやめる気はないと言ってる。でも、おまえは相手にするな。諸悪の根源の俺が何とかするから。これ以上おまえがスリー・アールに関わったら、もうお遊びじゃ済まなくなる」
『……呉さんに、会えたんだ』
「はあ?」
いきなり何の脈絡もないことを若林が言い出したので、正木は一瞬、毒気を抜かれた。彼は若林が自分に一刻も早く千代子を会わせるために勝負を受けたのだとは夢にも知らない。
『いや、会えてよかったな。ずいぶん久しぶりだったんだろう?』
「それはそうだが……おい、若林。今はそんな話してる場合じゃないだろ。俺やおまえの都合で、夕夜に無茶させようとすんなよ。あいつは俺たちと違って繊細にできてるんだ。過重負荷で壊れたらどうする?」
『直すよ、もちろん』
「簡単に言うな! テレビや車じゃねえんだぞ? いいか、今回の勝負はなしだ。千代子がおまえに投げつけた手袋、洗濯してあいつに返してやれ。おまえがやりにくいんなら俺がする。わかったな、若林」
『相変わらず、夕夜には甘いな』
人を食ったようなのんびりとした返事に、もともとあまり気の長くない正木はついに切れた。
「甘い辛いの問題か! 若林、おまえいったい何を考えてやがる? 夕夜があんなに嫌がってるのがわからないのか?」
『俺にはどうしてあれほど嫌がるのかのほうが不思議だよ。正木、おまえまだ何か夕夜のことで、俺に隠してることがあるんじゃないのか?』
――時々鋭くなるんだよな、この男。
もっと違うことに鋭くなれよと思いながら、正木は冷静に切り返した。
「あるかよ、そんなもん。おまえこそ、どうしてそんなに夕夜を戦わせたい? 俺たちはあいつを格闘用には作らなかったはずだぞ?」
『そう。あえて作らなかったんだ。作れなかったんじゃない』
「……若林?」
『正木。呉さんは美しいだけのロボットは嫌いだそうだよ』
正木が苛々しているのに比べ、若林の声だけは終始一貫、穏やかなままだった。
『それは俺も同感だった。でも、彼女はこうも言ったんだ。――俺のロボットは、いったいどこまで動けるのか?』
「若林……まさかおまえ、そんな理由で?」
『理由としては充分だと俺は思うけどね。正木、おまえは俺たちの夕夜が、あのロボットに劣るとでも思っているのか?』
「それは……モエと夕夜とじゃ畑違いだし……」
『いいや。短時間なら理論上は不可能じゃない。そもそも、モード切替できるようにしたいと言ったのはおまえだろう。それを夕夜に使わせないなら、いったい何のためにそうしたんだ?』
「……言葉もねえな」
正木は苦く笑った。確かに。自分のやったことは矛盾している。しかし、それを聞いて、なぜか急に若林が低姿勢になった。
『正木……どうしても、嫌か?』
「何でそれを俺に訊くんだよ。夕夜に訊けよ、夕夜に」
『夕夜はおまえの言うことなら何でも従う。たとえそれがどんなに嫌なことであっても』
――ずるい男だ。
正木は再び苦笑いした。
(ようするに、俺から夕夜にやれって言えってことだろ?)
だが、この〝ずるい男〟の願いを、正木はたいていの場合、叶えたいと思ってしまうのだ。
「若林。もう一度、夕夜に代わってくれ」
『正木……』
「言っとくが、この件についてはもう二度と俺に謝るなよ。俺とおまえは同罪だ」
『す……わかった』
きっと、すまないと言いかけたのだろう。若林は短く答えると、再び電話を保留状態にした。
(謝るが、やめる気はない……か)
すでに予想していたことではあったが。
『夕夜です。どうなりました?』
若林には何も言われなかったのだろう。すぐに夕夜が出て、不安そうな声で訊ねてきた。
「夕夜。俺を恨め」
しかし、夕夜は軽く噴き出して答えた。
『ええ、恨みますよ。これ以上僕にそんなことを言ったら。……あなたを恨んだら、これから僕は誰に甘えたらいいんですか?』
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